第11話「北方の風、吹き始める」
帝都に束の間の静けさが戻る中、リオは昨夜の幻影――黒衣の預言者の姿が頭から離れずにいた。
霧のように現れ、霧のように消えたあの存在。言葉は謎めいていたが、その声は確かに胸の奥に焼きついていた。
「鍵は、北に在り」
その言葉が何を指すのか、確信は持てなかった。だが、翌朝、神殿より届いた報せは、奇妙な符合をもたらす。
「帝都北方、ルグレ高原に瘴気の渦が発生したとの情報が入りました」
神殿の神官が告げた一報に、リオたちは目を見交わした。
“北方”という言葉に、リオは昨夜の幻を重ねざるを得なかった。
「……それって、魔菌に関係してるの?」
エリナが神官に問うと、彼は頷いた。
「まだ確証はありません。しかし、封印の座に影響を及ぼすほどの瘴気濃度です。
すでに近隣の村では体調不良者が出始めているとの報せも……」
「放っておけないな」
リオが静かに言うと、ミラがうなずいた。
「うん、行こう。ルグレ高原へ。放っておいたら、また多くの人が苦しむ」
「決まり、ね」
エリナは肩をすくめて言った。「やれやれ、帝都の温泉にも入らずに次の任務か……」
「温泉って……ああ、例の“例え”か」
「えへへ。リオの癒しは、心まであったかいから」
ミラははにかみながら笑った。
その笑顔にリオは微かに照れながらも、背筋を伸ばした。
その日のうちに、神殿から馬車が手配され、彼らは北方へと向けて出発した。
馬車の車輪が石畳を鳴らし、帝都の外門がゆっくりと遠ざかる。
道中、リオは静かに窓の外を見つめていた。
どこか不安げな瞳をしたその背中に、ミラがそっと寄り添う。
「……何か、気になることでも?」
「……ああ。昨日の夜、幻を見た」
ミラが首をかしげると、リオはためらいながらも語った。
黒衣の者。預言の言葉。現実味のないようで、しかし捨てきれない不吉な印象。
「幻だったのかもしれない。でも、言葉が……現実と重なった」
ミラはしばらく黙っていたが、やがて優しくリオの手を握った。
「それは、きっと……リオにしか見えないものだったんだよ。
だって、癒しの力って、誰にでもあるものじゃない。
きっとリオの中に、何か“導かれる”ものがあるのかも」
「……そうだといいけどな」
リオはそっと息を吐いた。
馬車は緩やかな丘を越え、やがて帝都の喧騒が完全に消える。
その頃――。
帝都の裏路地。
神殿の裏手に、黒衣の者がふたたびその姿を現していた。
「……輪が回り始めた」
その声に、誰かが応える。
闇の中から現れたのは、角の生えた男――魔族の一人、七大魔将のひとり《瘴の探究者・ヴィオル》。
「預言通りに動いているというわけか」
「否。予言ではなく、選択。彼が選ぶのだ。未来を――己の意思で」
「ならば、試させてもらおう」
魔将はニヤリと笑い、黒衣の預言者と共に闇へと消えていった。
その数日後――。
ルグレ高原に着いたリオたちは、そこがすでに“異常な土地”となっていることに気づく。
草木は枯れ、空気が重く濁っている。普通の者なら近づくことさえできない。
「うっ……! こ、これ……濃すぎるっ!」
エリナが炎を纏い、瘴気を弾こうとするが、効果は薄い。
ミラの水魔法も、拡散にしか役立たない。
「僕が……瘴気の中心に行く」
リオが前に出ようとするのを、エリナが止めた。
「バカ言わないで! 瘴気を吸えば、あんたの魔力だって……!」
「でも、誰かが行かなきゃ。
このままじゃ、封印の座まで汚されてしまう」
ミラも心配そうにリオの腕を掴む。
しかし、リオはふたりの手を優しく振りほどいた。
「僕が行く理由は……きっと、この力があるからだと思うんだ」
リオは深呼吸をし、歩を進めた。
瘴気の中心へ――
その先に、何が待ち受けているのかを知る術もないままに。




