第1話:封印の眠る街
この世界には、決して触れてはならぬ“病”がある。
それは命を蝕み、記憶を曇らせ、魂までも腐らせる黒き穢れ――
古よりそれを人は「魔菌」と呼び、畏れ続けてきた。
かつて、魔菌は突如として大地より湧き出し、あらゆるものを呑み込んだ。
王も、民も、神すらも抗えず、世界はゆっくりと、静かに滅びへと傾いていった。
だが、その絶望の最中に立ち上がった者たちがいた。
七人の賢者――
それぞれ異なる知と術を極め、世界の理を知る者たち。
彼らは命を削り、己の血と魂を賭けて、魔菌を王都セントレアの地下へと封じた。
それが今なお語り継がれる、封印の祭壇である。
時は流れ、封印から三百年。
王都セントレアは平穏そのものだった。
繁栄する商業、豊かな魔法技術、穏やかな暮らし。
だが、忘れてはならない。
それは、七つの命の代償の上に成り立つ“仮初めの平和”に過ぎないのだと。
そして今、ふたたび“病”が目覚めようとしている。
遠く離れた辺境の小さな村。
緑に包まれた谷間の聖堂に、一人の少年が住んでいた。
リオ=ヴァルエル。
十七歳。癒しの術を使う、孤児の少年である。
その少年の容姿は、村の誰もが一度見れば忘れられないほどに、どこか“異質”だった。
淡いミントグリーンの髪は陽の光に透けて草原のように揺れ、
瞳は金のなかにほんのりと緑を含んだ不思議な光を宿していた。
痩せ型の身体にくすんだ修道服を纏い、左手にはいつも白い包帯を巻いていた。
それは傷を隠すためではなく、彼自身が“見せたくない何か”を封じているようにも見えた。
朝の光が、石造りの聖堂の窓から差し込む。
祈りの時間はすでに過ぎていたが、彼はいつも通り、院内の掃除をしていた。
木製の床板にこびりついた泥を拭いながら、彼は静かに鼻歌を口ずさむ。
曲の名前など知らない。母も父も、この世界にいないのだから。
彼にとってこの場所がすべてだった。
修道女のマリア。
そして、長く病に伏せる老人たち。
「はい、これで痛みは和らぐはずですよ」
病床の老婆に手をかざし、静かに癒しの術を送る。
彼の手から淡い光が漏れ、患部に染み込んでいく。
奇跡のように――だが彼にとっては日常だった。
「ほんと、あんたの手は温かいねぇ……まるで太陽みたいだよ」
「そんな……僕なんか……」
リオは目を伏せて、苦笑いを浮かべた。
褒められるのは、苦手だった。
なぜなら、彼は知っていたからだ。
自分には“何か”がある。
だがそれが、他者を救うものなのか、傷つけるものなのか……その答えは、まだ出ていなかった。
その日も、静かな一日になるはずだった。
だが、午後を過ぎたころ――地面が震えた。
「っ……!」
聖堂の床がわずかに軋む。
揺れは数秒で止まったが、心に残ったのは、ただの地震ではないという不穏な感覚だった。
「……封印震?」
マリアが呟いた言葉に、リオは思わず顔を上げる。
「それは……?」
「昔、王都で……ごく稀に起こる揺れだと聞いたことがあるの。封印の祭壇が、何かに反応したときに起きるとか」
「反応……?」
「伝承よ。ただの言い伝え。気にしないで」
マリアはそう言って微笑んだが、その声にはわずかな震えがあった。
夜。
リオは眠れずにいた。
静寂の中、胸の奥がざわついていた。
まるで、何かが自分の内側で呼吸を始めたような感覚。
「――おまえは、目覚めねばならない」
唐突に、頭の中に声が響いた。
夢の中か、現実か。
境界は曖昧だった。
彼の前に現れたのは、黒衣の影。
人とも獣ともつかぬ、その姿は輪郭すらおぼろげだったが――ただ一つ、確かだった。
その声が、自分自身に向けられていること。
そして、何か深く、どうしようもなく、懐かしいと感じたこと。
「おまえの中には、封印の鍵がある。七賢の血筋、その末裔よ」
「……なにを、言ってるんだ……?」
だが影は答えなかった。
ただ、ぽつりと最後に言った。
「また会おう、“リオ”」
その瞬間、意識が引き戻される。
冷や汗に濡れた額。
心臓の鼓動は、まるで遠くで太鼓を叩くように、重く、響いていた。
「夢……なのか……?」
違う。
心のどこかで、リオはそう思っていた。
何かが始まろうとしている。
この穏やかな日々が、壊れていく予感。
「俺は……何者なんだ……?」
夜の闇は静かに広がり、
その下で、リオの運命の歯車が、わずかに回り始めていた。
――それは、世界が“封印”と“病”の記憶を取り戻す、最初の夜であった。
(第1話・完)