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君が泣いてくれたなら~人生に退屈していた完璧皇子が、笑わない婚約者の涙を見て初めて幸せを知る話~

作者: ごりごりら

僕の名前はアルフォンス・フォン・クレスメント。この国で「完璧」と評される第二皇子だ。物心ついた頃には、分厚い帝王学の書を読破し、指南役の騎士を剣で打ち負かしていた。人々は僕を天才と呼び、その万能ぶりを称賛する。


(ああ、なんて退屈なんだ)


僕の世界は、まるで上質な紙に描かれた、精緻だが色のない素描のようなものだった。


喜びも、悲しみも、怒りさえも、僕の心では薄墨のように淡く、決して鮮やかな色彩を帯びることはない。

兄である皇太子は、僕と同じく、いや、ある面では僕以上に優秀だった。人望に厚く、王道を往くその姿は、次期国王として申し分ない。彼がいる限り、僕が玉座を狙う意味もメリットもない。それは、この国で誰よりも僕自身が理解していた。だから僕は、与えられた職務を完璧にこなしながら、ただ退屈な日々をやり過ごしていた。


何か面白いことはないか。心を揺さぶるものはないか。高名な芸術家の絵画も、宮廷楽団が奏でる至高の音楽も、僕の心には何のさざ波も立てなかった。

騎士団の連中が酒場で自慢げに話していた、都一番と名高い踊り子の腰つきでさえ、定められた手順をなぞるだけの、退屈な運動にしか見えなかった。虚しさが募るばかりだ。


そんな灰色の日常に、唐突に色が灯ったのは、建国記念を祝う夜会でのことだった。

王国中の貴族が一堂に会し、シャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に乱反射する。人々が纏う豪奢な衣装と宝石のきらめき、喧騒と音楽。そのすべてが、僕にとってはいつもの退屈な風景の一部でしかなかった。そのはずだった。

ふと、テラスに近い一角に目が留まる。年の頃は僕とさほど変わらないだろうか。一人の令嬢が、彼女の家族であろう人々と、実に楽しそうに笑っていた。ただそれだけの光景。しかし、僕の目には、彼女の笑顔だけが、この世界の他のすべてから切り離されたように鮮やかに映った。


世界に色が、ついた。


彼女の笑い声は、どんな音楽よりも心地よく僕の耳朶を打ち、きらきらと輝く瞳は、どの宝石よりも僕の心を捉えて離さない。周りの喧騒が遠のき、僕の世界には彼女だけが存在していた。

ドクン、と心臓が大きく跳ねる。なんだ、この感覚は。

気づけば、僕は人垣を抜け、彼女の元へと歩みを進めていた。いつものように完璧な笑みを浮かべ、流れるような動作で彼女の手を取る。

「ごきげんよう、麗しきご令嬢。私と一曲、踊っていただけませんか?」

驚きに目を見開く彼女を、慣れた手つきでダンスの輪へと誘う。ワルツの調べに乗り、僕らは踊り始めた。ステップも、リードも、我ながら完璧だ。だが、内心はひどく困惑していた。胸の高鳴りが収まらない。彼女の柔らかな手の感触、ふわりと香る花の匂い、その一つひとつが僕の思考をかき乱す。

しかし、僕は天才だ。この未知の感情の正体に気づくのに、そう時間はかからなかった。


ああ、そうか。これが――恋か。


パーティーが終わる頃には、僕は彼女が辺境伯の令嬢、リリアーナであること、そして彼女に釣り合うだけのあらゆる条件を、僕が持ち合わせていることを確認し終えていた。持ち前の手腕と皇子という立場を最大限に利用し、彼女との婚約を取り付けるのは、赤子の手をひねるより簡単なことだった。


正式な婚約を結ぶための、両家の顔合わせの日。僕は、あの日と同じ笑顔に会えることを心待ちにしていた。しかし、僕の前に現れたリリアーナは、まるで精巧な人形のように無表情で、全身を強張らせていた。パーティーで見せた、陽だまりのような笑顔はどこにもない。

「リリアーナ嬢、会えて嬉しい」

僕が微笑みかけても、彼女は「……もったいなきお言葉です、殿下」と、か細い声で返すだけだった。


その後、僕らは何度か逢瀬を重ねた。彼女が好きだと言っていた劇のチケットを手配し、美しい庭園を散策し、都で人気の菓子を取り寄せた。僕が持てる知識と技術のすべてを尽くして、彼女の歓心を買おうとした。だが、彼女の表情が変わることはなかった。僕の前では、決して笑わないのだ。

第二皇子アルフォンス、生まれて初めての挫折だった。僕の完璧な世界に、唯一思い通りにならない存在。それが、僕が恋したはずの婚約者だった。


そんなある日、僕は王宮の庭園で、信じられない光景を目にする。リリアーナが、庭師の老人と話していたのだ。僕が一度も見たことのない、あのパーティーの時と同じ、心からの笑顔で。楽しそうに花の名を尋ね、老人の皺だらけの手をのぞき込み、ころころと笑っている。

なぜだ。なぜ、僕にはその顔を見せてくれない。庭師には心を許し、僕には壁を作るのか。理解できない。困惑と、胸を焼くような苦い感情。これが、嫉妬か。また一つ、僕は新しい感情を知った。


僕の葛藤などお構いなしに、運命はさらに過酷な試練を用意していた。リリアーナが治める辺境の領地に、隣国が突如として侵攻したのだ。知らせを受けた僕は、考えるより先に馬に飛び乗っていた。僕の婚約者を、僕の愛する人を、誰にも傷つけさせはしない。

辺境伯の居城に設営された本陣は、怒声と鉄の匂い、そして遠い鬨の声に満ちていた。その中心で、父君の家臣であろう老騎士と険しい顔で地図を睨んでいたのは、僕の婚約者、リリアーナだった。

僕は彼女の無事を確認すると、すぐさま本題を切り出した。指揮官として、当然の判断だった。

「リリアーナ、よくぞ無事で。だが、ここは危険すぎる。すぐに王都へ戻る準備を。僕の近衛をつけよう、彼らなら絶対に君を守り抜く」

しかし、返ってきたのは、予想だにしない、凛とした拒絶だった。

「……お断りいたします、殿下」

僕の前ではいつも俯き、か細い声しか出さなかった彼女が、まっすぐに僕の目を見据えている。その瞳には、怯えではなく、燃えるような意志の色が宿っていた。

「ここは私の故郷であり、城壁の外で震えている民は私の家族です。彼らを見捨てて、私だけが安寧を貪ることなど、断じてできません」

これが、僕が恋に落ちた彼女の本当の姿か。胸の奥が、熱くなる。

側近たちが咎めるような視線を送ってくるのがわかった。危険すぎる、と。だが、僕の心は決まっていた。一つは、この気高い魂を、僕が手折ってしまうことを許せなかったから。そしてもう一つは――僕の完璧な指揮下にあるこの場所こそが、王国のどこよりも安全だと、僕自身が信じて疑わなかったからだ。

「……わかった。君の覚悟、確かに受け取った」

僕は彼女の肩に手を置き、近くの兵に命じた。

「リリアーナ様の天幕を、僕の隣に用意しろ。最高位の警護をつける。彼女の髪一本たりとも、敵に触れさせてはならん」

僕の言葉に、リリアーナがわずかに目を見開く。その反応だけで、僕には十分だった。だが、僕はまだ知らなかったのだ。僕のその判断が、僕の「完璧」への自信が、取り返しのつかない悲劇を招くことになるということを。


戦場は地獄だった。鬨の声と悲鳴、剣戟の音が入り混じる。僕は自ら騎士団の陣頭に立ち、指揮を執った。恐怖はなかった。ただ、リリアーナを守りたいという一心だけが、僕を突き動かしていた。血と泥にまみれながら剣を振るい、獅子奮迅の活躍で、数で勝る敵を押し返していく。

激しい攻防の末、敵軍はどうにか撤退を開始した。勝利を確信し、僕は安堵の息をつく。真っ先に頭に浮かんだのは、もちろんリリアーナのことだ。僕が彼女のいる天幕へ馬首を向けた、その時だった。

天幕の入り口が開き、リリアーナが心配そうな顔で姿を現した。僕の無事な姿を認め、その表情がわずかに安堵に和らいだように見えた。彼女へ駆け寄ろうとした、まさにその瞬間だった。

死にかけの敵兵が、最後の力を振り絞って弓を放った。ひゅん、と風を切る音。矢は、まっすぐにリリアーナへと向かっていた。

考える暇はなかった。体が勝手に動いていた。

「リリアーナッ!」

僕は彼女の前に飛び出し、その身を抱きしめる。刹那、背中に焼き付くような衝撃が走った。

「がっ……!」

力が、抜けていく。リリアーナの腕の中で、僕は崩れ落ちた。どくどくと、温かいものが背中から流れ出ていくのがわかる。視界が霞み、世界が再び色を失っていく。

「殿下!アルフォンス様!いや、いやです!死なないで!」

僕の顔に、温かい雫が次々と落ちてくる。見上げると、リリアーナが、今まで見たこともないほどに顔を歪め、号泣していた。その瞳から大粒の涙を流し、僕の名を叫んでいる。

ああ、そうか。君は、そんな顔もできたのか。僕のために、泣いてくれるのか。強張った表情の下に、こんなにも熱い想いを隠していたのか。

だったら、僕の人生も、あながち退屈なだけではなかったらしい。

霞む意識の中、僕は最後の力を振り絞って微笑んだ。

「……こんなに……君に思われていたのなら……幸せ、だ」


君の涙の中で、僕は静かに息を引き取った。世界から完全に色が消え失せる、その瞬間まで。僕の瞳には、ただひたすらに、僕のために泣き叫ぶ愛しい君の姿だけが映っていた。

お読みいただきありがとうございます。

ご評価、ご感想いただけると大変嬉しく思います。

後日リリアーナ視点も投稿する予定です

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