第25章:深紅の本能(しんくのほんのう)
空気はタールのように重くなった。
歪んだ怪物の一歩一歩が、戦の鐘のように響いた。まるで世界そのものが、命を超えた何かが解き放たれるのを察知しているかのようだった。クラス4の神獣はその完璧で不気味な肉体を持ち上げ、不遜にもピラミッドなしで挑もうとする人間を押し潰そうとした。
だが、アレックスは動かなかった。
ただ微笑んでいた。魔力のうねりに乱れる髪、目は炭火のように赤く輝いていた。
「もう遊びは終わりだ。」
彼の背中から、肉が引き裂かれるような湿った音が響いた。腕を覆う赤い爪がねじれ、伸び、まるで命を持つかのように脈打ち始めた。かつて金属のようだった表面は、今や有機的で肉々しく、内に封じられた獣が目覚めようとしているかのようだった。
アレックスの周囲のオーラは燃え上がった。しかしそれは炎ではない。
もっと濃密な――液体のようなものだった。
液体の炎。
赤黒く溶岩のように滴り落ちる物質が肘や肩から流れ出し、腕や胸を粘つく輝きで包み込む。それは意志を持っているかのように動き、触れた地面を蒸発させた。
上空を漂っていたクラス3の飛行型神獣が隙を突いた。
空から猛烈な速度で降下し、刃のような翼を広げて背後からアレックスを貫こうとした。
「アレックス、危ないっ!」遠くからアルサが叫んだ。エネルギーを集めながら。
だがアレックスはすでに気づいていた。
振り返ることなく、彼の右腕が槍のように背後へと伸びた。そして彼を包んでいた液体の炎が一瞬、固体化する。灼熱の血の鞭のように、爪は飛行神獣の頭蓋を貫き、凄まじい力で黒い雨のように頭を吹き飛ばした。
その巨体は数メートル先に重く落ち、震えた後に魔力の爆発を起こした。
アレックスは振り向くことさえしなかった。
「一体、終了。」
クラス4の神獣はもう待たなかった。
その刃のような腕で連続攻撃を仕掛ける。魔力の振動が空気を裂き、現実の織りをも引き裂くかのようだった。地面はその爪のたびに裂けた。しかし今や深紅の炎に包まれたアレックスは、生きた影のように動いた。
彼は異常な速さで神獣に跳びかかる。体からは赤い流星のような光の尾を引きながら。
「ギャアアアアァァァ!」神獣が怒りの咆哮を上げ、その仮面が怒りに輝いた。
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アレックスは空中で回転し、爪が左腕を貫いて一気に引き裂いた。
「グシャァッ!」
シンジュウの黒い液体が飛び散ったが、アレックスの炎に触れた瞬間に蒸発した。
怪物は反撃し、残った一本の脚で跳び上がると、闇の槍をアレックスの腹部に突き刺した…
…だがその傷口は瞬時に塞がれ、中から溢れる液状の炎によって焼かれた。
アレックスは血を吐きつつも、笑った。
「惜しかったな」血塗れの唇を舐めながら言った。「速いが…俺のほうが、ずっと暴力的だ」
うなり声とともに、両腕の爪が巨大化し、地面に届くほどの深紅の剣となった。液状の炎が周囲を漂い、混沌とした軌道で輪を描いて回り始めた。
「ドォォォン!!」
アレックスは自らの魔力で爆発を起こして突進した。一撃ごとに地面にクレーターが生まれた。爪は怪物の魔肉を切り裂き、次々と結界を破壊していく。炎はまるで生き物のようにシンジュウの傷口に喰らいつき、内側から焼き尽くした。
怪物は後退した。初めて、動揺し、恐怖を感じたようだった。
「こ…こいつは…一体…?」歪んだ声で呟く。
アレックスは跳び上がり、怪物の上に舞い上がった。
そして爪をX字に交差させて叫んだ。
「カーネイジ・フォーム:エグゼキューション・ドライブ!!」
隕石のように炎を纏って降下し、爪がシンジュウの胸を貫いた。十字型の魔力爆発が数十メートルに渡って広がり、山全体を震わせた。
静寂が訪れた。
煙が晴れた時、クラス4のシンジュウは粉々に砕け、仮面はひび割れ、体は判別できぬほど壊れ、黒い塵となって風に流されていった。
アレックスはその残骸の上に立ち、紅い霧の中で息を荒げていた。腕は震えていたが、倒れることはなかった。
「見ただろう、アリサ…」背を向けたまま彼女の方を見据えながら言う。「この時代に俺を超える者はいない」
アリサは高台から見下ろしながら、心臓の鼓動が身体から飛び出しそうな感覚に襲われていた。彼女の目に映ったそれは、本当に人間なのか。
――それとも、何か別の存在なのか。
彼女の心の奥で、あの常に苛立っているような完璧な少年が、本当はどれほどの力を秘めているのか…その答えを、初めて真剣に考え始めていた。
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爆発の余韻が山々にこだまする中、新たな闇の気配が戦場を支配した。
空は毒々しい赤に染まり、風が止まる。
そして、アレックスの目の前に空間の裂け目が走った。まるで開いた傷口のように、空が引き裂かれた。
そこから現れたのは、不自然な存在だった。
三メートルを超える巨体。人工的な皮膚に包まれ、紫のエネルギーが螺旋状に脈打っていた。それは先ほど倒した自然のシンジュウとは異なり、完全に人型をしていた。まるで理想的な戦士を模して一つ一つ組み立てられたかのように──だが、その目は虚無。魂がなかった。
仮面は漆黒で無表情。中央には赤い点が一つ、時計のように回転している。
「……シンジュウ、だが違う」アレックスは一歩後退しながら呟いた。匂いが違う。より清潔で、より人工的で、より精密。
「ただのシンジュウではないぞ」上空から聞き覚えのある声が響いた。
ザラース将軍が天から降り立った。軍服のマントが魔力の風に揺れ、その顔には冷酷な決意が浮かんでいる。周囲には黒衣の兵士たちが円陣を組み、まるで劇を鑑賞するように戦場を見つめていた。
「そのシンジュウは、六体のクラス3の獣の残骸と──下等な人間の血一滴から造られたものだ。"ユニット0:アドラメレク"と呼んでいる」ザラースは歪んだ笑みを浮かべて言った。「魂は消され、肉体は殺すためだけに設計されている」
アレックスは舌打ちをした。
「お前のオモチャを壊したくらいで、わざわざこんなもん持ってくるとはな」
「それだけではない」ザラースは右手を上げる。「帝国軍を嘲笑った異端を、私自ら始末しに来たのだ」
彼の足元に巨大な魔法陣が展開される。
空気がガラスのように砕け、地面から現れたのは、深淵のように黒いピラミッド。周囲には浮かぶ文字が回転し、その魔力は空間すら引き裂く。クラス4。軍用。エリート。
ピラミッドの頂点から、幽玄なる姿が現れた。儀式用の鎧を纏った四本腕の戦士。青い炎の剣を四振り構える。
「殲滅ユニット - ゴッドスレイヤーモデル:セト」
遠くから見守っていたアリサは、身を貫くような寒気に襲われた。
「ク、クラス4が……二体同時……?」彼女は唾を飲み込んだ。「アレックス!!」
だが、彼は怯えていなかった。
紅の爪はまだ煙を上げており、炎のような気が腕を走っている。
「……面白くなってきたな」アレックスは首を傾け、骨を鳴らす。「ようやく……楽しめそうだ」
ザラースが手を掲げ、ピラミッドがまばゆい光を放つ。
「完全殲滅を開始せよ」
アドラメレクとセトが同時に動いた。
一体は空を滑るプラズマの槍のごとき速さ。もう一体は、地面を揺るがす一歩一歩で迫る。
アレックスも踏み込んだ。
「うおおおおおおおッ!!」その咆哮は、山々の轟きと重なった。
最初の衝突は凄まじかった。
セトの剣の一撃を右の爪で受け止め、アドラメレクの顔面に回し蹴りを叩き込む。だが、それはすぐに再生する。
カンッ!
セトの四本の剣が嵐のように襲いかかる。アレックスは後退しながら防ぎ、ギリギリで回避し、爪で反撃し、転がり、血を吐きながら──笑っていた。
「クソッ……!」遠くからアリサが叫ぶ。「あの二体だけで部隊一つ壊滅するのに……一人で、ピラミッドも使わずに戦ってるなんて!」
ザラースは少し降下し、まるで人形劇を楽しむ操り師のように戦況を眺める。
「なかなかやるな、少年」彼は呟いた。「だがその力……人のものではないな」
アレックスは低く唸り、両手を天に掲げた。紅の爪が羽のように広がり、全身を包む棘を形成する。液状の炎が胸元に集まり、圧縮されていく。
「だったら……人扱いすんなよ」
ドォォン!!
爆発が彼を包む。
煙の中から現れたのは、紅の爪と装甲の第二層を身に纏ったアレックスだった。背中には棘が生え、肩甲骨からは液状のエネルギーが凝固したような補助腕が伸びている。
「リミットブレイカー・モード、発動」
ザラースの目が見開かれる。セトは剣を構え、アドラメレクが無魂の咆哮を上げる。
本当の戦いは……これからだった。