第21章:本当の目的
ミカガミ・サツキ校長の執務室は、古びた振り子時計のかすかなチクタクという音を除けば、完全な静寂に包まれていた。カーテンは閉じられ、魔法のランプのかすかな光が、古書や魔封印された書類、大陸の魔法地図で覆われた壁に柔らかな影を落としていた。
校長の前にある魔法の鏡が、青白く淡い光を放ち始めた。その中に、銀髪の男性が現れた。彼は帝国上級評議会の制服を身にまとっていた。
「もう出発したのか?」と、男は低い声で尋ねた。
「数時間前に」ミカガミは顔を上げず、目の前の書類に目を通しながら答えた。「日没には現場に到着するはずよ。」
「だが、あの少年アレックスを任務に就かせるとは…。まだ第一段階の評価すら終えていない。変異制御も不安定だ。」
「だからこそよ」ミカガミは視線を上げながら言った。「どこまで彼の肉体が適応し始めているか、確かめる必要があるの。アリサとの一件は、その能力のほんの一端を見せただけ…しかも、本人に自覚がなかった。」
鏡の中の男は顔をしかめた。
「では、あの少女は? 白野井アリサのことだ。」
「アリサを選んだのは、彼女が規律正しく、そして何よりも体制に忠実だから。疑問は抱いても命令には従う。さらに、万が一アレックスが制御を失った時でも…彼女なら必要であれば致命的な対応もできる。」
重苦しい沈黙が流れた。
「我々は監視下に置くと合意したはずだ。ブラックシンジュウと接触のあった危険地帯に送り込むなど…」
「それはあなた達が決めたこと。私はあくまで規定に則って動いているだけよ」ミカガミはそう言って、巻物を手に取り鏡の前にかざした。「あの地点で解放されたエネルギーは、これまでに記録されたシンジュウのどれにも一致しない。新種よ…あるいは人工的なもの。」
男は数秒間黙り込んだ。
「呼ばれているとでも?」
「分からないわ…」ミカガミは巻物を静かに閉じながら囁いた。「けれど、もしブラックシンジュウが関与しているのなら…必要なのは彼のような存在。盤上の駒ではなく、盤外の異物よ。」
鏡が一度ちらつき、そして通信は途切れた。
サツキは椅子にもたれかかり、疲れた表情のまま、それでも揺るぎない目で天井を見上げた。視線はやがて机の上の額縁へと移る。そこには何年も前の生徒たちの集合写真があり、その中には、今のアレックスと同じ無表情な眼差しを持つ少年が写っていた。
「どうか、彼と同じにはならないで…アレックス。」
空が灰色に染まり始めたころ、アレックスとアリサは帝国軍の兵士四人に護送されていた。彼らは森の縁に沿った小道をゆっくりと進んでいた。手は背後で組まれていたが、魔法の手錠をつけられていたのはアリサだけだった。アレックスはまるで何事もなかったかのように歩いており、調子外れな口笛を吹いていた。
「信じられない…あんた、あっさり降参したなんて!」
アリサは怒りというより、悲しみを滲ませた声で叫んだ。
「包囲されてただけよ!戦えた!逃げられたはず!」
アレックスは乾いた笑いを漏らし、彼女を見ることもなかった。
「逃げられた?それとも逃げたかっただけ?」
「そんなことどうでもいい!…あそこで私たちを裏切ったのよ!あいつらが生徒たちの遺体に何をしたか…わかってるの!?」
アレックスは冷静に彼女を見つめた。まるで言葉よりも表情を読み取ろうとしているかのようだった。やがて視線を地面に落とし、空を見上げる。
「降参なんてしてない。ただ、ゲームを変えただけだ。」
「…それってどういう意味!?」
アリサが叫んだ。
彼が答える前に、アレックスの瞳が一瞬輝いた。世界が一瞬だけ静まり返り、次の瞬間、記憶が波のように彼の脳裏に押し寄せた。
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【回想 - 数時間前】
待ち伏せは完璧だった。十体以上のシンジュウがアレックスとアリサを取り囲み、上空では第三級の飛行型シンジュウが黒い骨の装甲を纏って旋回していた。その笑い声は、頭蓋の奥に響くような不快な音だった。
「なんなのあれ…っ!?」
アリサは悲鳴を上げ、装備を召喚しようとしたが、遅すぎた。
黒曜石のように黒い刃が天から降り注ぎ、彼女の胸元を狙った。しかし、その直前にアレックスが彼女を抱き寄せ、自身の背中で攻撃を受けた。刃は肉を裂くことなく止まった。
アレックスの体は今、濃く血のように赤黒い硬質の膜に包まれていた。右腕は再び変異し、爪が光を放っていた。
「叫ぶなって言ったろ…奴らがもっと来るぞ」
アレックスは空を見上げながら囁いた。
「遊びたいなら…俺のルールでやらせてもらう。」
人間離れした速度で、アレックスは最も近くにいたシンジュウへ飛びかかり、その首を引きちぎった。内部からはまだ脈動するエネルギーのピラミッドが現れた。周囲のシンジュウたちが一斉に襲いかかってきた。
アリサはついに白と金の剣を召喚し、両側から迫る敵を斬り倒した。アレックスはまるで獣のように動き、爪で敵の内臓を引き裂きながら、自らの肉体で攻撃を受け止めていた。
そのとき、木々の間から一人の男が現れた。灰色のローブに黒い紋章を刻んだその男は、三日月の仮面の下に歪んだ笑みを浮かべていた。
「残念だな…せめて一人くらい、俺の名前を引き出してくれるかと思ったんだが。」
「誰よ、あんた…!」
アリサが荒い息を吐きながら叫んだ。
「俺? ただの使いだよ…でも、お前たちを殺すつもりはない。まだな。」
男は指を鳴らした。
その瞬間、地面が割れ、第二の第三級シンジュウが姿を現した。アレックスは辛うじてそれを食い止めたが、その間に男はアリサの背後に回り、黒い刃を彼女の喉元に当てた。
「アリサ!」
アレックスは叫び、腕を構え、エネルギーの槍を放とうとした。
「もう一歩でも近づけば…この子の命はない。」
沈黙が落ちた。
アレックスは腕を下ろし、深く息を吐いた。爪が引っ込み、一歩…また一歩と後退する。男の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺を連れていけ。彼女は解放しろ。」
アリサは目を見開いた。アレックスが…折れた。
「感動的だな」
男は笑った。
「だが、必要なのは一人じゃない。お前たち二人とも…もっと大きなものの一部だ。」
闇が、彼らを包み込んだ。
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【回想終了 - 現在】
「……ゲームを変える、ね」
アリサは小声で呟いた。
アレックスは相変わらずのんびりと歩き続けていた。兵士の一人が不信の目を向けたが、何も言わなかった。
「あなたは何も知らない、アリサ。君はまだ、ルールが存在すると信じている。」
アリサは眉をひそめ、拳を握りしめた。
「じゃあ、あんたは? 何を知ってるっていうのよ?」
アレックスはついに彼女を正面から見た。真剣な表情だった。
「俺は…盤上に存在しない駒だ。」
兵士たちがピリついた。その声には…人間とは違う何かがあった。
「それ以上言うな」
兵士の一人が小声で呟いた。
「本当に消されるぞ。」
アレックスはただ笑った。
「消される…か。そっちの方がマシかもな。」
一行は沈黙のまま歩を進めた。
その頃、天龍魔導学園の塔の上で、ミカガミ校長は灰色の空を見つめていた。
ゲームが、ついに始まったのだ。




