第2話
ソ連という国家は、帝政ロシア時代から、ひたすら何かに包囲されていた。
過酷な自然に包囲され、明治日本とドイツ帝国に包囲され、大日本帝国とナチスドイツに包囲され、今は西側諸国に包囲されている。
百年以上に亘る包囲の歴史の中で、ソ連という国家は、ただ己が生存のために死力を尽くすことを迫られ、結果として、国家生存のために全てを犠牲にしていった。
命、国民、思想、そして、自由。
政府の失策と弾圧で、経済的にも文化的にも冷え込んだ国内には、国家による思想統制から来る閉塞感が蔓延し、人々は不満も欲求も心の奥底に押し込んで、縮こまって生きることを余儀なくされている。
民にできることがあるとするならば、それは、ただ国家によって定められた枠組みの中で、僅かな自由の上澄みを啜ることぐらいだ。
酒を飲み、汚職で懐を肥やし、ただ惰性の中で死ぬ。
だが、全ての人間が、その上澄みで満足しているわけではなかった。
彼、ヴィクトル・イヴァーノヴィッチ・ベレンコも、その、上澄みで満足できなかった人間の一人だ。
彼は今、ソ連軍の最新鋭戦闘機MiG-25の狭く無骨なコックピットに座って、操縦桿を握る手が緊張に汗ばむのを感じつつ、超低空飛行でソ連の上空を飛行していた。
眼下には広大な針葉樹林の緑が広がり、地平線の向こうには、黒々としたオホーツク海が横たわっている。
空には分厚い鉛色の雲が立ち込めていたが、その雲は、むしろベレンコ中尉の乗り込むMiG-25戦闘機の姿をソ連軍レーダーから隠してくれた。
訓練中に機械トラブルによる墜落を装って味方の編隊から離脱したベレンコ中尉は、そのまま超低空飛行によりソ連防空軍の綿密な監視網を突破し、現在は、北海道の千歳空港を目指している。
厳しい家庭環境にも挫折することなくソ連防空軍でパイロットとなり、防空軍中尉にまで上り詰めた彼は、ソ連軍内に蔓延する汚職と不正に対してとうとう祖国に愛想を尽かし、現在、アメリカへの亡命を試みていた。
オホーツク海に侵入してから数分後、ブラウン管モニターに表示された地図で正確な現在地を確認したベレンコ中尉は、操縦桿を引いて機体の高度を上げる。
「Надеюсь, это сработает.(上手くいってくれよ)」
ベレンコ中尉はそう呟く。
彼の計画は、高度を上げたベレンコ中尉のMiG-25を航空自衛隊のレーダーで発見させ、自衛隊の誘導の下、千歳空港へと着陸するというものだ。
ベレンコ中尉は祈るような目で、無線に集中する。
数十分が経過。
航空自衛隊は来なかった。
敵機の迎撃を主任務とする、要撃機としての機能が強いソ連軍の戦闘機は、長時間の滞空を想定していない。燃料は、既に底を突きかけていた。
「О, нет.(そんな)」
ベレンコ中尉の悲痛な声を拾うものは、誰もいない。
だが、曲がりなりにも彼はエリートパイロットだ。
オホーツク海を越え、北海道上空へと侵入した彼は、鋭い瞳で地上の状況を確認して、市街地の中から一つの滑走路を探し出す。
彼は手元の地図を確認して、滑走路の正体を探る。
「Аэропорт Хакодате. Нет выбора. Давайте приземлимся там.(函館空港か。……仕方ない。あそこに着陸しよう)」
ベレンコ中尉はそう言って、操縦桿を横に倒す。
彼のMiG-25は大きく旋回して、その機首を函館空港へと向けた。
かくしてMiG-25は、日本の地に踏み込んだ。