第1話
※この物語はフィクションです。本作に登場する名称等は、現実のものと一切関係ありません。
第二次世界大戦末期、満州北部。
「射撃開始!」
その号令と同時に、歩兵銃の軽い発砲音が、荒野の冷えた空気を打つ。
広大な満州の北の果てで、日本軍の歩兵たちが、迫り来る圧倒的なソ連軍を相手に、決死の抵抗を敢行していた。
「やばいべ」
一人の少年兵が、蛸壺壕の中で、自身の背丈よりも大きい三八式歩兵銃を撃ちながら、そう呟く。
ソ連軍は、戦車を先頭にして、鉄条網などの障害物を日本兵もろとも踏み潰しながら進んでいる。現在の日本軍に、それを止める有効な手段は存在していない。
日本軍による機関銃の弾幕も、散発的な対戦車砲の攻撃も、戦車の装甲を貫くことは叶わない。
戦車の周囲に展開している歩兵であれば日本軍の兵器でも殺害できたが、圧倒的な物量を誇るソ連軍を前に、その戦果はゼロに等しかった。
一方のソ連軍は、一瞬にして日本軍陣地を更地に変える。
質量共に敵より劣っている以上、日本軍の壊滅は避け難い。その事実を誰もが理解しながら、誰一人として逃げ出そうとしないのは、彼らの背後に、仲間と家族がいるからに他ならない。
戦局は絶望的だったが、まだ精神的に未熟な少年兵すら、自らの死と引き換えにしてでも、この陣地を死守する覚悟は決めていた。
「高山二等兵!」
自身の名前を呼ばれた少年兵は、慌てて交通壕を中腰で駆け抜け、自身が所属する小隊の、小隊長の元へと向かう。
「小隊長!」
高山二等兵にとって、小隊長とは父親のような存在だ。
北海道の田舎からいきなり最前線に派遣され、右も左も分からない彼を、時に優しく時に厳しく指導してくれた小隊長のことを、高山二等兵は信頼していた。
「いいか。すでに先鋒の第三中隊陣地は突破された! ここも、じきにソ連軍が押し寄せてくるだろう! これより我が小隊は撤退を始める! このことを、中隊本部まで伝えてくれ! その後は連隊本部、必要があれば師団本部にまで転進すること! 場合によっては、そのままソ連軍とは逆方向に転進することも許可する! いいな?」
頭から血を流しながらも、なお軍刀を振りかざして部隊の指揮を取る壮年の小隊長は、高山二等兵に対し、周囲の爆発音と発砲音に負けない大声でそう命じる。
その口調は厳しかったが、その響きには優しさも含んでいた。
少年兵ということもあって小柄で素早い高山二等兵は、小隊の伝令として活動することも多く、高山二等兵は、その命令に対して特に疑問に思うことをしない。
もし高山二等兵がもう少し鋭ければ、小隊長が、なんとかして自分の命を助けようとしていることに気付けただろうが、激しい戦闘で余裕を失っていた当時の彼に、小隊長の真意に気付く余裕はなかった。
「了解!」
いつも通り大声で返事をした高山二等兵は、塹壕の中から這い出すと、一目散に走り出す。
小隊長は、走り去っていく高山二等兵を見つめて、ふっと笑った。
「生き残れよ、小僧」
ソ連軍戦車は徐々に近づいてくる。日本軍の保有する戦車のそれよりも遥かに優れたエンジンの唸り声は、地獄の底から響く亡者の悲鳴を彷彿とさせた。
「機関銃、全門射撃開始!全弾撃ち尽くしてもいいぞ! 絶対に伝令を撃たせるな!」
小隊長の怒号が飛び、温存されていた重機関銃の全てが一斉に火を吹く。その甲高い発砲音が、全速力で走る高山二等兵の、小さな背中を蹴った。
高山二等兵は、さらに足に力を込める。
彼の姿は、一瞬にして地平線の先へと消えた。