花魁、支度をしておくなんしぃ
「太夫。月夜野太夫。よろしくお願いします」と楼主がわたしに頭を下げた。
黙って頷いた。わたしは支度をする為に部屋に引っ込んだ。
鏡の覆いをあげて覗き込んだ。心配から解放され充分に休養して、水を吸い上げたように美しさが戻っていた。
鏡の自分を見ていると
『花魁、支度をしておくなんしぃ』と東雲の声がした。
鏡のなかに東雲がいた。衣装は朱に染まっていた。わたしの目を見て優しく笑った。
気がついたらわたしは布団に寝かされていた。
それから、わたしは鏡を見られなくなった。楼主はわたしに客を取らせるのを諦めた。
でも、わたしにかけたお金は取り戻したかったようで、当たり前だ。
いくら借金の証文を増やしても死んだ女郎は金にならない。棺桶代がもったいない。
そこでわたしは巡礼の旅に出るという体で、苦界から出た。気を病んだ女郎に優しい楼主となった。
旅装束で、門まで歩くわたしの後を、白装束の女郎が続いた。
門からわたしが足を踏み出すと、後ろの女郎たちが泣き出した。
「唐橋」「唐橋」「月夜野」と言う声と泣き声に送られてわたしは苦界を後にした。
不思議と善意に助けられてわたしの旅は順調だった。
東雲の声は聞こえないが、そばにいるのを感じる。わたしは鏡を見ることができないままだ。
寂れた寺の前を急ぎ歩いていると、小僧さんから
「旅のお人。旅のお人」と声をかけられた。
「お茶をご馳走したいと和尚さんが、どうぞ遠慮のうと」
『花魁、ご馳走になりんしょう』と旅に出て初めて声がした。
わたしは、黙って頭を下げて小僧さんについて行った。
縁側と思っていたら、奥の座敷に通された。
「どうぞ、粗茶ですが・・・ですが、ここの生垣から採れたのをわたしが炒りまして小僧が裏山から水を汲んで来て・・・美味しゅうございますよ」
と和尚さんは湯呑三つにお茶を注いだ。
「お茶請けは芋を煮ました。この漬物は近隣の者がくれた野菜です。ちょっと漬かり過ぎですかな?」
わたしは、遠慮なく芋と漬物をいただいた。
「美味しいです」と言うわたしを和尚さんは見ていたが、やがて
「そこのお人とゆっくり話しなさるがいい。今日はこの部屋に泊まりなさい。食事は小僧が運びます。では拙僧はこれで」
と和尚さんは部屋を出て行った。
わたしは、東雲の分のお茶碗を手に取ると、しばらく眺めた。お茶碗をゆすると中でお茶がゆらゆらくるくると回った。
ゆっくりとそれを飲んで縁側に行った。
庭に牡丹が植わっているが、貧弱だ。庭の向こうに山が緩やかに起伏している。
『花魁、起きておくんなし』と東雲の声がした。いつのまにか縁側で寝ていたのか。
『花魁、やっと話ができいす。花魁、怖おござりんしたねぇ、あの直政風情が・・・
わちきは花魁をかばって死ねて嬉しゅうござんした。花魁の衣装を着せて貰いんして嬉しゅうござんした。そしてあの世に行くまえに花魁に挨拶しようとしたら、花魁、怖がりんした。わちきは悲しゅうて謝りとうて・・・
花魁のおそばにいまんした。そしてここまで一緒にきんしたぇ』
『東雲、違いんす。盾にしようと思いわざと衣装を着せんした。直さんがわちきと東雲を間違えるように』
『花魁、それでいいのでありんす。わちきは花魁の役に立って嬉しいのでありんすよ。
花魁は、はじめてわちきに優しゅうくれんした。親も誰も優しゅうのうござりんした。花魁だけでありんす。わちきはずっと花魁と二人で歩いて幸せでございんした。
でも、この寺でお別れでありんす。花魁、ここからは一人で行っておくんなんし』
「東雲」と呼びかける自分の声で目が覚めた。布団がかけてあって卓に食事の盆が置いてあった。
翌朝、わたしはやけに嬉しそうに手を振る和尚さんと、そんな和尚さんに戸惑っている小僧さんに送られて寺を出た。
わたしの旅は続いた。あの寺の噂を聞いた。なんでも見事な牡丹で有名になったとか・・・
東雲は大輪の花を咲かせたのだなと思った。
牡丹の季節にあの寺を訪ねた。見物客に混じって牡丹のなかをそぞろ歩いていると
『花魁、待ってやしたよ』と声がした。
『最高の太夫だね』
『花魁に褒めて貰いとうて頑張りんした』
『また来んすね』
『また来ておくんなんし』
しばらくして、またあの寺に行くと迎えてくれたのは小僧さんだった。いや、立派な若和尚様だった。
「無理なさいますな。ずっとここにいて下さい」と勞ってくれた。
あの時の部屋に通されて、同じようにお茶をご馳走になった。水は新しい小僧さんが汲みに行ってるそうだ。
「やんちゃで困ります」と嬉しそうに笑う顔には、あの日の戸惑い顔が残っていた。
そのやんちゃな小僧さんは、はやばやと布団を敷くと
「よく休んで下さい」と下がって行った。
『花魁、話しとうござりんす。寝ておくんなんし』と東雲の弾む声がおかしくて
笑いながらわたしは、横になった。
翌朝、やんちゃな小僧さんは和尚さんを大声で呼んだ。
「あんなに綺麗な人が・・・」と泣く小僧さんと和尚さんは、名前も知らない旅の人を丁寧に弔った。
その後、この寺はある牡丹で有名になった。
それは一本の茎に花が、それも大輪の花が二輪咲く牡丹だ。
大輪の花は重さに負けず、凛と咲き誇った。そしてどことなく寄り添っているように見える花に、人は、いろいろな思いを重ねるのだった。
終わり
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