飽き飽きの再来
朝起きたら別に何でもなかった。昨晩までなら僕は何でもできたし、それから数分すると何もできなくなった。この喪失と獲得の波は平均して1時間あたり38回の振動で発生し、昨晩の僕はその感覚に熱狂したり落胆したり、操られていた。僕の頭では快楽と苦痛の判定がひたすら行き来していた。その中間地点のさいは全身が麻痺して天井をみつめるだけになった。この時間が死ぬまで続けばいいと心から思ったし、一生このままかもしれないと怖くなることもあった。
でも事実としては後者なのだろう。根本的に僕は悲観することを好む。悲観的な人は、そうしていることが好きだからそうしている、我ながら自分が嫌になりそうだった。そしてこれのせいなのだろう。こういう自分と自分の食い違いによって、昨晩のような気持ちの乱れを、人の心にしては敏捷すぎる情緒不安定を引き起こしていることを知っていた。僕は全部を知っている。情緒不安定における自分の行動、気持ちの揺らめきも観察しつくしている。するとときどき飽きる時期がくる。そういう時僕は、自分でもびっくりするぐらいあっさり飽きてしまう。だからまだ飽きることに対しては飽きていない。飽きることだけが僕にとって唯一の興味の対象だった。
したがって朝起きたら別に何でもなかった。今朝になってみれば飽きているのだった。あれだけ夢中だったのに。それもゲームとか本とかを介していない、せいぜい記憶しか介さずに発生する純粋な感覚(快楽から苦痛の振れ幅を持つ)に対し僕は飽きているのだから、救いがたいという点で余計に面白い。同時に飽きるというのはいつも少しだけ悲しさを伴った。当然というか、今まであった注力する対象を一瞬にして失っているのだ。しかもここで、注力の対象を「飽きること」にすり替えてしまうのは実は難しい。例として穴についての哲学がある。すり替えにはそれを思考するのと同様の手続きが必要になるが、実際僕はまだよく分かっていない。もっと詳細にいえば、注力する対象とは輪郭、他との境界がはっきりしているからこそ注力できるのであって、穴は、飽きるということは元あったものを失くしているのだから、僕はそんなことに耐えうる精神修行者でも哲学者でもない。面白いとは思うけれど、熱中と呼べるほどの持続時間を持てない。老人になった気分だ。そんな本を読んだことがある。始める前から漂ってしまう諦めムードは、別にこんな難しい話でなくてもありふれているのだろうな。僕も諦めることに関して心当たりがありすぎて、考えただけですごくヤな気分になった。子供っぽく振る舞って、今までの思考を放棄する。よくとる諦めのための手順だった。僕の部屋のゴミ箱はティッシュよりも、かつて言葉だったはずの欠片で今にも破裂しそうだった。するとその中に朝の太陽が差して、たった数秒で蒸発させてしまう。そういう仕組みだった。この世は不思議で溢れていると同時に、不思議を不思議のまま放置する勇気が求められている。ほとんどの人間がCPUのつくりを知らないままスマホを利用し、まじめな顔してゲームとアニメの考察に明け暮れている。うーん、別に求められてなかったのかもしれない。どっちでもいいけれど、電気コンロの鍋の水が沸騰していた。描写がされていないのに僕がベッドから移動していると困惑するか、思考の量に対してその間にとった行動が小規模すぎると困惑するかは各々の自由だ。僕は空っぽの頭のままインスタントコーヒーをいれた。マグカップに立つ湯気の中にメリーゴーランドが回っている。誰も乗っていないのは降雪のせいか、他人の家の棚のうえのスノードームのイメージのせいか、僕はもうコーヒーを飲み干していた。朝にそこまで時間があるとは思えなかった。暇じゃないんだ。乗るつもりだった電車の時刻が過ぎるのを家のリビングでみていて、なぜか一気に今日は暇な気がしてくる、あの不思議な感覚が僕をソファに寝転がらせた。収縮する無気力感。これは頭痛が痛いみたいなことになるのか。無は収縮も膨張もしないから違うか。そんなことを考えて一日を潰そうと思った。遅刻常習者から降格していく自分が今度は社会から抹殺されてしまうそんな恐怖が快楽の側へ反発して飛んでいく様を眺めているしかなかった。天井を眺めていた。