落語声劇「千両みかん」
落語声劇「千両みかん」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約45分
必要演者数:4名~6名
(0:0:4)
(0:0:5)
(0:0:6)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって、性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
●登場人物
番頭:呉服屋の大店の番頭。名前は佐兵衛。
まじめだが、ちょっと抜けているところがある。
若旦那のわがままを安請け合いしたばかりに難儀する羽目に。
若旦那:呉服屋の跡取り若旦那。
夏場なのにみかんが食べたいと患うほどに悩んで周囲を振り回す
困った人。
大旦那:呉服屋の現社長的立場なお人。
子煩悩のあまり、倅の願いを安請け合いしてきた番頭に、
できなかったら磔だのなんだのと脅したあげく江戸じゅう駆け回
らせ、季節外れのみかんを手に入れようとする。
八百屋1:青物(野菜)を扱っている八百屋さんその1。
八百屋2:青物(野菜)を扱っている八百屋さんその2。
鳥屋:番頭が八百屋と間違えて入っちゃう店その1。
酒屋:番頭が八百屋と間違えて入っちゃう店その2。
金物屋:番頭が八百屋と間違えて入っちゃう店その3。
みかん問屋:お店の名は万惣屋。
…決して現代のリサイクルショップとは関係ない、念の為。
みかんだけを専門に取り扱っている、珍しいお店。
亀吉:番頭さんと同じ呉服屋に奉公している手代。(一台詞のみです)
●配役例
番頭:
若旦那・八百屋1・鳥屋・亀吉:
大旦那・酒屋・八百屋2:
金物屋・みかん問屋・:
枕:皆さんはお金は好きでしょうか。
まあ嫌いな人はあまりいないかとは思います。
昔は今とは貨幣価値などが大きく異なりました。
江戸の昔の頃ですと四進法で計算し、貨幣の単位も両、分、朱、文銭
などがございました。
一両は皆さんご存知、小判一枚の事を指します。
で、小判一枚に相当するのが一分金が四枚、または二分金が二枚でし
た。
その頃は小判十両を盗めば首が飛ぶと言われ、本作の題名の千両は、
今の貨幣価値に直すと約一億三千万円という、我ら一般庶民にはちょ
っと想像もつかない額になります。
まあ、金持ちの方も一応知っておいて損はないかと思います。
実生活では役に立たないですけど。
ちなみによく時代劇で鼠小僧が千両箱担いで…なんていう表現があり
ますが、あの箱一つで重さが20kg以上になることもある為、
あれ抱えて走ったり、屋根を飛び移るっていう芸当はまず不可能です
。お侍の甲冑フル装備とほぼ同じ重さと言えば分かりやすいかもしれ
ません。
何でこんな事べらべら言うかっていうと、本編で役立つかもしれない
からですな。
予備知識ってやつは大事なもんです、ええ。
さて、江戸の街中でも大層大きな呉服屋さん、そこの大旦那が急に
番頭さんを呼び立てます。
大旦那:番頭さん!
番頭さんはいるかい?
番頭:これは大旦那、ご用件は何でしょうか?
大旦那:ああ番頭さん、ちょっとこっち来ておくれ。
…忙しいのに済まないな。
倅の事なんだが…困ってしまってね。
番頭:…若旦那ですか。
あぁ~…わたくしもずいぶん心配をしておりましたが…そうですか
…なんとも、ご愁傷さまでございます。
お弔いはいつになるんでございましょうか?
大旦那:いや、何を言ってるんだい。
死んじゃいないよ。
番頭:あ! いや、これは粗忽でございました。
それで…いつごろお亡くなりで…?
大旦那:おいおいおい、
倅を勝手に殺してもらっちゃ困るじゃないか。
まだ当分死にはしないよ!
番頭:あぁぁ、申し訳ございません。重ね重ね粗忽で…。
私が最後に聞きましたのが、ここ数日、食事もとらずに部屋で臥せ
ったきりだと…。
大旦那:そうなんだ。
困った事というのは他でもない、その事だよ。
大病を患ったのかと、何人もの医者に診せた。
今日もいま江戸で一番の名医に診てもらったところでね。
番頭:おお、江戸一番の…。
それで、若旦那の病の原因は…。
大旦那:それがな、医者が言うには、
「どこも悪い所はないから、薬をいくら飲ましたところで治らな
い。何か胸につかえているものがあるに違いない。それを落と
してやれば、すっかりまた元の身体に戻るだろう。」
とおっしゃられた。
番頭:という事は…気の病…気鬱であると…。
大旦那:ああ、そういうことになるな。
それでわしと奥とで倅に色々聞いてみたんだが、
若旦那:おとっつぁんとおっかさんに話したところで何か変わるわけじゃ
なし、話をすれば自分と同じような心配をさせるだけです。
大旦那:そう言って何も話してくれなかった。
話したらそれで病が治るんだぞって何度も言ったんだ。
けれどな、
若旦那:おとっつぁんに迷惑をかけることは良くない事です。
だから話せない。
大旦那:と、そればかりでな。
誰にだったら話せると聞いたらしばらく考えてな、番頭さん、
お前の名が出たんだ。
小さな時分から心安くしていて可愛がってもらった番頭さんにだ
ったら、話せるかもしれないと。
倅も親にはじかに言いにくい事もあるだろう。
済まないが、ひとつ胸につかえているものを聞きだしてやってく
れないか。
番頭:そうでしたか。
私の事をそのように思って下さるとは…ありがたい事です。
そういう事情でしたら承知しました、大船に乗ったつもりでいて下
さい。すぐに行って参ります。
大旦那:ああ、頼んだよ。
【二拍】
番頭:若旦那…番頭の佐兵衛です。
お身体の塩梅はいかがですか?
若旦那:…ああ…番頭さんかい…ありがとう…。
どうだい、お店のほうは?
みんな…元気にやってるかい?
番頭:はい、おかげさまで皆、相変わらず頑張ってお勤めをさせていただ
いております。
それにしても若旦那、なんですか。
部屋をこんなに閉め切って…、妙にむんむんとして空気が澱んでい
ますよ。少し障子を開けるとかなんとかしたらどうです?
これじゃ身体に良くありませんし、治る病も治りませんよ。
この暑い日が続くさなかに…少し障子を開けましょう。
若旦那:けほっ…けほっ…いいよ、そんな事をしなくたって…。
このまま、そっとしておいてほしい…。
暑くったって、寒くったって…どうせ私は治りはしないんだ…。
もうじき、死ぬんだ…。
番頭:何ですか若旦那、情けない事を言わないで下さいよ。
病は気からって事を言うじゃありませんか。
もう少し、気を強く持っていただかないと困りますよ。
大旦那や奥様をはじめ、ご近所の方はもちろん、店の
者、出入りの者、みーんな若旦那の事を心配してるんですから。
そんな弱音を吐いてちゃしょうがありませんよ。
若旦那:番頭さん…そうは言ってもね…、こればっかりはどうしようもな
いんだ…。
番頭:困りましたなぁ…。
医師の先生がおっしゃるには、
身体の病ではない、心を患っている。何か心につかえているものが
あるに違いない。それを落としてやれば、すぐに良くなるだろう…
と。
若旦那:そうかい…先生がそんな事をおっしゃっていたのかい…。
さすが、江戸で一番と評判の高いご名医だけのことはある…。
番頭:それに若旦那、わたくしにだったら話せそうだと、そうおっしゃら
れたそうじゃありませんか。ありがたい事です。
大旦那様も心配しましてね、ひとつ話を聞きだしてくれないかと頼
まれて、こうしてうかがった次第で。
お話をうかがった上で大旦那様に話して叶う事であるとなったら、
大旦那様にお話しします。
わたくし一人の中に留めておいた方が良いとなったら、胸に包んで
おきますのでどうぞ、安心してお話しください。
若旦那:けほっ…けほっけほっ…そうかい…わざわざご足労をかけたね…
すまなかった…。
…実はね、番頭さん。
番頭:はい。
若旦那:このところ…寝ても覚めても、明けても暮れても、目の前にちら
ついて離れないものがあるんだよ。
番頭:そうですか。
わたくしもそういう事じゃないかと思っておりました。
何を見ても何を考えても、頭の中がもうそれいっぱいでどうするこ
ともできないっていうあれでございましょう。
若旦那:そうなんだ…。
…近くに行くとね、いい匂いがするんだ。
番頭:はい。
若旦那:肌艶が良くてね…ふっくらとしてて…。
番頭:はい。
若旦那:ぴちぴち…ぷりぷりしていてね…。
番頭:ぁ~…それは大旦那様にはお話しできませんなあ…そうですか!
いや、若旦那の事はこういう小さい時分から知っておりますから、
そうですか、そういうお年になりましたか!
どちらの方でございます?
仕立て屋のおきみちゃんですか?
若旦那:…そういうのじゃないんだ…。
あたしが会いたいのはね…近くに行くといい匂いがするんだ…。
お肌がぴちぴちしていて…きめの細かい…ぷりぷりっとしてて…
番頭:…駒込屋のおぎんちゃんでございますか?
若旦那:…違うよ…。
みかんが食べたいんだよ。
番頭:……はっ? みかん??
女子ではなくて? あの剥いて食べるみかんでございますか?
若旦那:みかんが食べたい食べたいと思ってたら患っちゃったんだよ…。
番頭:そ、それは…なんとも拍子抜けでございます。
いやあ…あれほどどんな先生に診ていただいても良くならないはず
ですよ。
みかんが食べたくて患っていたんでございますか!?
これだけのご大家の若旦那がなんですか、ええ…。
それでしたら、すぐにでも大旦那様にお話しします。
この部屋中みかんだらけに致しまして、もうこれ以上食べられない
というぐらい食べていただきます!
なんですか、そんな事で患うなんて…もっと早くにお話ししてくだ
さい!
これでたちどころに全快、床上げですよ!
若旦那:ほ…本当かい…?
みかん、食べられるのかい…?
番頭:ええ食べられますよ!
みかんでございましょう?
分かりました、すぐに大旦那様に話して参ります!
【二拍】
失礼します、大旦那様。
若旦那の心につかえているものの正体が分かりました!
大旦那:おお番頭さん!
そうか、話してくれたかい!
番頭:ええ、それがもう驚きでございました。
なんと、実は若旦那、会いたいそうでございます。
大旦那:?会いたい?
番頭:はい!
ぷりぷり…ぴちぴち…近づくといい匂いがするんだそうでございま
す。
大旦那:! そうかい!
いや、いつまでも子供だと思っていたらそういう事になっていた
のか。
仕立て屋のおきみちゃんかい?
番頭:いえいえ。誰でもそう思うでしょう?
わたくしも最初そう思ってました。
ところが何ですか、よくよく聞いたら、みかんが食べたくて患って
いたんでございます。
大旦那:は? みかんが食べたくて患っていた?
それが原因で??
番頭:そうなんでございます。
わたくしも驚きました。
もっと大変な事なのかと思っておりましたら、みかんが食べたくて
臥せっていたんだそうでございます。
いや拍子抜けしました。
大山鳴動して鼠一匹とはこのことですよもう。
なんですか、これだけの大家の若旦那であれば、もう部屋中みかん
だらけに致しまして、もう食べきれない、もう結構だというくらい
みかんを買って参りますのでと申しましたら、青ざめていた顔に
ぽっと明かりが差しまして、あれでみかん一つ食べたらもうすぐに
全快で即日床上げでございます。
それでは今からみかんを買って参ります!
大旦那:ちょいとお待ち、番頭さん。
番頭:え?
大旦那:倅にみかんを買ってくると…食べさせてやると…
そう言ったのかい?
番頭:ええ、そりゃもう! みかんさえ食べればすぐにでも元気に——
大旦那:【↑の語尾をさえぎるように】
今の季節を何だと思っているんだい。
毎日毎日、じりじりとお天道様が照り付ける真夏だよ、ええ?
しかも今日は六月の二十一日、土曜の丑の日だ。
こんな暑いカンカン照りの日に、どこにみかんがあるっていうん
だい!?
番頭:!!!!
ぁ、ぁぁ…うっかりいたしました、うっかりいたしました…!!
突然みかんということでございましたので、そこまで考えが及んで
いませんでした…!!
大旦那:何を馬鹿な事を言っているんだ。
考えが及びませんでした、うっかりしていたで済むと思っている
のかい!
あれだけがっかりしていた所へ、みかんが食べられるとなったん
だ。
そこにやはりありませんでしたと言ってごらん。
持ち上げといて落とすようなものだ!
うっかりすると下手すりゃ倅はぽっくりいっちまうよ!
はぁ…仕方がない、そうなったら番頭さんを主殺しとして訴えさ
せてもらうよ。
何が一番罪が重いって、主殺し、親殺しほど重いものはないよ。
江戸じゅう曳き回しの上、磔獄門だ…。
いや、あるいはのこぎり引きの刑かもしれない。
番頭:お、大旦那様!
わたくしも悪気があって言ったわけではございません!
何とか若旦那を助けたい一心で言ってしまったことでございます!
いかがいたしましょう!?
大旦那:いかがしましょうったってね…こんなところで仲間割れしていて
も仕方がない。
番頭さん、なんだかんだ言ったって江戸は広い。
江戸じゅう探し回れば、どこかにみかんの一つくらいあるかもし
れない。
番頭:え、江戸じゅうでございますか!?
大旦那:そうだ。
ここにいたって、ただただ磔かのこぎり引きを待つばかりだよ。
番頭:ちょ、ちょっまっ待ってくださいそんなこと!
わ、わかりました、探して参ります!!
大旦那:頼みましたよ番頭さん、倅の為に!
番頭:は、はい、行って参ります!!
うう、あ、汗が止まらない…。
暑いせいなのか、磔に怯えての冷や汗なのか分からない…。
と、とにかく何とかしてみかんを手に入れないと…。
ごめんくださいまし、ごめんくださいまし!
八百屋1:へい、いらっしゃいやし!!
番頭:無いのは承知で来ております!
八百屋1:へっ? 無いものは売れませんがな。
番頭:みかんがいただきたいんございます…!
八百屋1:は? みかん?
…あんた、いくつになるんです?
そんな今どき、四つや五つの子供だってみかんが欲しいなんて
言いやしないよ!
番頭:…無いのは承知でございました。
ありがとうございました…!
あぁぁ…やはりみかんは無いのか…!?
ここの店はどうだろう…ごめんくださいまし。
酒屋:へい、らっしゃい!
番頭:あの…無いのを承知で探しているものがあるんでございます。
上が、”み”で、下が”ん”、そして真ん中に一文字入るものが
欲しいんでございます。
酒屋:はぁ、上が”み”、下が”ん”、真ん中に一文字。
……ありますよ。
番頭:!!あるんでございますか!?
酒屋:ありますよ。
み り ん、でございやしょう?
番頭:み、みりんじゃありません。
って、酒屋さんでございましたか、失礼いたしました!
い、いかん、暑さで頭が…八百屋と酒屋を間違えるなんて…。
…ごめんくださいまし。
八百屋2:ぁらっしゃい!
番頭:……無いですよね。
八百屋2:いや、いきなり無いですよね、って言われてもね。
あるもんだったら売るよ?
番頭:いやぁ……あるかな、みこん…。【口ごもる】
八百屋2:え!? あっしに嫁さんを世話して下さるんで!?
番頭:!? え、え?!
八百屋2:だって、未婚の独り身を買いに来たんですよね?
番頭:あ、いや、未婚じゃなくて、みかん…。
八百屋2:ハァ!? みかん!?
このクソ暑い夏にんなもんあるわけねぇだろが!
とっとと出てってくんな!
みかんの代わりに塩くれてやらぁ、べらぼうめぃ!
番頭:あ、あい済みません~~~!!!
ぜぇ、ぜぇ…。
うぅぅ…は、走ったら余計に目まいが…。
あぁ、みかん…みかん…できなきゃ磔かのこぎり引きか…
みかん、みかん、みかんみかんみかん、みかんみかんみかん、
みぃーーーかぁーーーん!!!
鳥屋:な、なんか大変な人が飛び込んで来たな…。
伊予のみかんになんか思い入れでもあるんかな?
で…みかんですか?
番頭:みかんです! みかんくださいーーー!!
もう何でもいいんです、みかんて名前がついてれば何だっていいん
です! どこのだっていいんです!
みかんくださいぃぃぃ!!
鳥屋:ああ、そういう話だったらウチじゃダメです。
ウチは鳥屋ですから。
番頭:じゃ、みかんを生む鳥を…
鳥屋:【↑の語尾に被せて】
そんな鳥いやしませんよ。なに言ってんですか。
番頭:……。
あの、つかぬことうかがいますが…ご親戚か誰かに、
磔かのこぎり引きになった方いますかね…?
鳥屋:ハァ? そんな大罪人いてたまるかい!
さっさと出てけーーー!!
番頭:す、すみませんでしたあああ!!
な、なりふり構わずあたってもダメ…。
けどこのままじゃ…。
あ、あの店は…。
ご、ごめんくださいまし…っ。
金物屋:へいらっしゃい——ってお客さん!?
いきなり店先に座り込んで…どうなすったんで?
大丈夫ですかい?
番頭:あ、ぁあすみません…暑さで目まいがしたもので…。
金物屋:いやぁ、こりゃ暑さだけの汗じゃあねぇ。
いったい、どうしたってんです?
番頭:…磔とか…のこぎり引きって…ご覧になった事、ございますか…?
金物屋:?あっしですかい?
…いやぁ、最近はとんとありやせんが、子供の時分に親の言う事
を聞かずに友達と見に行った事ならございやすよ。
痩せさらばえた鞍の置いてない裸馬に乗せられて、
鼠色の着物を着させられてザンバラ髪、
後ろ手に縛られて市中を曳き回しでございやすよ。
番頭:【想像の世界に入っている。】
ううう、あたくしが…あたくしがあんなことを言わなければ…。
金物屋:道すがら行き会う人からは石ころをぶつけられ、
街はずれまで連れてかれます。
周りを竹で組んだ柵、竹矢来ですな、あれを隔ててあっしらを
含め、みぃんな中をのぞいておりやした。
番頭:【想像の世界に入っている。】
あぁぁ…おっとう、おっかあ…先立つ不孝をお許しください…。
金物屋:馬から降ろされると地面に寝かせてある磔台に縛り付けられ、
処刑人たちにゆっくりと台を起こされるんで。
で、役人が出てきて、罪状を読み上げるんです。
番頭:【想像の世界に入っている。】
ひいぃぃぃ………怖いぃ、怖いぃぃぃぃ…!!
金物屋:磔台を挟んで両側に処刑執行人がいるんです。
その持っている長い槍がね、またこれでもかと赤錆のざらっざら
に浮いたやつでして。
簡単には死なせないぞ、最期の最期まで長く苦しませるぞという
事なんでございやしょうね…。
その槍を罪人の目の前でじゃりじゃりと重ね合わせて、覚悟を
促す…これが最後の”思いやり”、てやつなんでしょうな…。
番頭:【想像の世界から急に引き戻される】
思いや——
!!ぶるぶるぶるッ、変なとこで駄洒落を挟まないでください!
金物屋:【番頭に構わずに】
処刑人が身構えたかと思うとその槍がむき出しになった罪人の
アバラの三枚目をぐさりと肩口まで一気に貫いてーー!!
番頭:【金物屋につられて↑の語尾に被せるように】
うぎゃあああああああぁぁぁぁ!!!!
金物屋:ちょちょちょ、ほんとに刺さったわけじゃないんですから、
こんな所で倒れられても困りますよお客さん。
まだのこぎり引きの刑を見た時の話が残ってるんですから。
番頭:い、いえ…もう結構です…お腹いっぱいです…。
腰も抜けました…。
あの…手を貸していただけませんか…。
金物屋:あ、そう…しょうがないですな…どっこいしょのしょっと!!
というか、なんで磔だののこぎり引きだのの話になったんです?
番頭:実は…かくかくしかじかトラトラウマウマでして…。
【二拍】
金物屋:ふむ、ふむ……なるほど…。
それでこの暑い夏に何とかしてみかんを手に入れようと、
江戸じゅう駆けずり回ってここまで来たと。
いやぁ…せっかく来ていただいてこんな事お話しするのもアレな
んですが…。
番頭:えぇ…無いんですよね、分かります…。
金物屋:いや、うち金物屋なんで、みかんどころか青物じたいございませ
んわな。
番頭:【半泣き】
そ、そんな……もうダメだ…もうおしまいだぁ……!
金物屋:おぉお客さん、気を確かに!
まったくあてがないってわけでもないですから!
番頭:ぇ…本当、ですか…?
金物屋:ただ、これも子供のころの話なんで、今もあるかどうかは分かり
ませんけどね、青物三か町のひとつ、神田の多町に万惣屋という
みかん専門の問屋がございました。
暖簾にみかんと染め抜かれているのが目印です。
ですから、ここにいるよりはまず行ってみてはいかがです?
番頭:わ、わかりました! 万惣屋さんですね!
ありがとうございます、行ってみます!!
あ!
ご主人、もしもみかんが無かったら……見に来てくださいね…!
金物屋:ぇぇ…いや、ははは……。
…あると、いいですねぇ…。
【二拍】
番頭:みかん…みかん…!
!! みかんの文字が染め抜かれた暖簾…!
ここがみかん専門の…!
ごめんくださいまし…ごめんくださいまし…!
みかん問屋:はい、いらっしゃいまし。
番頭:あの、みかんという暖簾を見つけてやって参りました。
みかん問屋:はい、身どもがみかん専門の問屋、万惣屋でございます。
番頭:それで、その、——みかんをいただきたいんですが!
みかん問屋:ああ、みかんのご入用でございましたか。
かしこまりました。
番頭:!!あるんでございますか!?
みかん問屋:いま、調べますので。
もしよろしければ、一緒について来られますか?
おーい、定吉やー! 蔵の鍵を持ってきなさい!
こちらへどうぞ。
番頭:おお…この土蔵の中にみかんが…。
みかん問屋:開けますよ。…っと。
いいかい定吉、箱は壊しても構わないから、食べれるやつを
探しなさい。
私も手伝うから。
お客さんは、そこでしばらくお待ちください。
番頭:あ、わ、わかりました。
みかん問屋:これは…ダメ。
これは……腐ってるな。
これも……これもダメだね。
定吉!そっちはどうだね?
なに、全滅か…。
番頭:ッそ、そんな…。
みかん問屋:お客さん、お聞きの通りここのは二百箱全部ダメでしたが、
もう一つの蔵にも二百箱ほど囲ってあるので、そちらへ参り
ましょう。
番頭:よかった…ここだけじゃなかった…。
どうか、どうか生き残ってるみかんがありますように…!
みかん問屋:定吉、さっきと同じ要領でいくよ。
お前は左から頼む。わたしは右からいくから。
【一拍】
いや、お待たせして申し訳ないですなお客さん。
本来ならさっきの二百箱の時点で三つ四つは無事なのが見つ
かるんですが、なにぶん、今年の夏は例年を上回る暑さなも
んですから…。
…あと五十箱か。
番頭:う、うぅ……!
ご主人…磔とか、のこぎり引きとかって、見た事ございます?
みかん問屋:はい?
番頭:磔台に…縛り付けられて…ひいぃ…!
みかん問屋:ど、どうなさいました…?
番頭:あ、ああいえ…実は…かくかくしかじかトラトラウマウマで…。
みかん問屋:…なるほど、それは難儀でございましたな…。
さて…これが最後の箱ですか。
番頭:や、やはりないのか…?
みかん問屋:諦めたらそこでおしまいですよ、お客さん。
どれ…一番上の部分は…全滅か。
どれも腐ってるし、カビで真っ白だし…
グズグズになってるな…ひどいもんだ。
底の方は…。
…。
…。
…あ。
番頭:? ……ご、ご主人…?
みかん問屋:……ありました。
番頭:えっ? あ、ありましたって…!?
みかん問屋:無事なみかんがひとつ! ございました!!!
番頭:!!!!!
は…よ…よかった…!!!
そっ、それでその…おいくらで…?
みかん問屋:そうですな…千両になります。
番頭:!!!???せ、せせせ千両ォ!!!?
いや、それはさすがに足元を見すぎでしょう!
いくら何でも、みかん一個ですよ!?
みかん問屋:そうでしょうか。
わたくしは千両は安いと思います。
わたくし共は、みかんに惚れ抜いて惚れ抜いて、みかん一筋
で商いをさせていただいているわけです。
江戸じゅう探したってみかん問屋の暖簾を掲げているのは
、うちだけでございます。
商人は暖簾を大切にする。
貴方も商人ならお分かりのはずだ。
夏でももしかしたら入用になる方が見えられるかもしれない。
その時にみかんが無いではすまされない。暖簾に関わる。
それゆえ大半が腐るのを承知の上で、蔵二つを無駄にして
四百箱も囲っているのです。
今そのことごとくが腐り果て、残っていたのはたった一つ。
千両…そのくらいの価値が、あるとは思われませんかな…?
番頭:た、たしかに…。
と、とにかく一度、大旦那様と相談して参ります。
それまでそのみかん、取っておいてください!
いくら何でも千両は…でも毎年あれだけのみかんを無駄にしてでも
夏にみかんを売ろうとしているのなら妥当な値段…。
けれど…みかん一つで千両は…大旦那様は納得なさるだろうか…。
大旦那様! 番頭の佐兵衛でございます!
大旦那様、いらっしゃいますか!?
大旦那:あぁ番頭さん、さっきは済まなかったね…!
わたしも気が動転していて、つい磔だの、のこぎり引きだのと
酷い事を言ってしまった。
この暑いさなかに、江戸は広いと言ったってみかんなんかあるわ
けがない…。
番頭:いえ、ありました!
大旦那:えっ、あ、あったのかい!!?
番頭:はい! 一つだけございました!!
大旦那:それで、買ってきてくれたのかい?!
番頭:それが…買い求めようとしたら………その、千両、だと言われまし
て…。
大旦那:…みかん一つで千両…?
…安いね。
番頭:!!??!!
ぃや、え、安い…ですか…?
大旦那:ああ安いとも!
倅の命は金じゃ買えない。
そのみかんを食べれば倅は助かるんだ!
千両なんぞ安いもんだよ!
亀吉! ちょっと来ておくれ!
大八車を出してな、蔵から千両出して積んで、蓆を掛けてわから
ないようにするんだ。
それが終わったら番頭さんについて行きなさい、いいね!
番頭:【つぶやくように】
め、滅多に見ない千両箱が…!
いかん、立ちくらみが…。
大旦那:おぉ、準備できたね。
では番頭さん、頼んだよ!
番頭:っは、はい!
では亀吉、行きますよ!
【二拍】
【つぶやくように】
これが…千両の重み…、なんてずっしりくるんだ…。
自分じゃ、一生かかっても手の届かない…。
あ…着いたか…。
亀吉はここで待ってなさい。
ごめんくださいまし! 先ほどの者でございます!
みかん問屋:ああ、これはさっきの番頭さん、どうも。
それで、いかがなされます?
番頭:はい、店に立ち帰りまして大旦那様と相談の末、
そのみかんを買わせていただくことにしました。
こちらが、お代の千両でございます…!
みかん問屋:そうでございますか!
いや、暑い中わざわざ、お代もお足もお運びくださいまして
、まことにありがとうございました。
では、こちらがお品物のみかんでございます。
番頭:あ、ありがとうございます!
では、これにて失礼します…!
亀吉、帰りますよ。
【つぶやく】
はぁ…みかん一つで千両…世の千両役者もこのくらい稼いでいるん
だろうか…?
千両役者の反対は大根役者と言うそうだけど、さしずめ自分などは
大番頭なんて柄じゃない、芋番頭だ…。
今度の事でつくづくそう思った…。
…そろそろお店だね。
亀吉、大八車を片付けておいておくれ。
わたしは大旦那様に用があるから。
…ただいま戻りました!
大旦那:ああお帰り、番頭さん。
暑いなか何度もご苦労様だったね。
ありがとうありがとう。
それで、みかんは…?
番頭:はい、こちらでございます。
大旦那:おぉ…ほんとにみかんだ…。
夏に見るみかんというのも、また奇妙なものだ。
さ、これを一刻も早く倅に食べさせてやっておくれ!
番頭:はい、では失礼しまして…。
【二拍】
若旦那! 若旦那、みかんございましたよ!
若旦那:ぇっ……本物かい?
番頭:ええ、さ、お手に取って…。
若旦那:あぁ…この暑い盛りに…番頭さん、ありがとう…。
これだよ…肌艶が良くて…ふっくらとしてて…。
ぴちぴち…ぷりぷりしていて…。
すぅ~~…はぁ…いい匂いだ…。
よく見つけてくれたね…心から、礼を言うよ。
番頭:若旦那、礼は大旦那様に申し上げて下さい。
わたくしは奉公人ですから、当たり前なんでございます!
若旦那、それ、いくらだかわかりますか?
一個ですよ? たった一個なのに……千両もしたんでございます!
若旦那:…あ…そう…。
番頭:……ま、まぁ、よろしいですけど…。
さ、皮をお剥きいたしましょう…。
これを食べて、元気になって下さいね若旦那。
ええと…ひいふうみ…十房ある…。
【つぶやく】
一房、百両か…。
この皮だって、五両か十両はする…。
このすじだって…一分金いや二分金くらいはする…。
さ、若旦那、どうぞ、召し上がって下さい。
若旦那:ありがとう…。
【ゆっくり味わって食べている】
はぁぁ~~……おいしいよ…!
番頭:【つぶやく】
ぁ…ひ、一房…。
…百両…。
若旦那:【ゆっくり味わって食べている】
あぁ…生き返りましたよ…!
番頭:【つぶやく】
ふ…二房…それで二百両…。
…三百両…。
っ、四百両…!
ああ五百両と六百両まとめて…!!
っっ、な、七百両も…‥!
若旦那:あぁぁ…おいしかった…ごちそう様…。
これでもう、すっかりよくなります。
番頭さん、この残った三房のみかんを一つはおとっつぁんに、
もう一つはおっかさんに、最後の一つはこの暑いなか江戸じゅう
を探し回ってくれた番頭さん、お前さんが食べとくれ。
番頭:ぇ…いや、いいんですよ若旦那、みんな若旦那が食べていいんです
よ、もう…子供の頃からそういうところは変わりませんね。
何があったって皆あたくし達、下々の者に分けてくだすった。
…わかりました、頂戴いたします。
早く良くなってください、若旦那。
店の者はみーんな心配してるんですからね。
では失礼します。
【二拍】
立派に大きくなられた…。
みかん…三房、か…。
そういえば来年の春いよいよ年季が明けて、暖簾分けさせてもらえ
るが…その時にもらえる金が三十両、多くて五十両…。
いま、この手の中にはみかん三房、三百両…。
五十両…三百両…五十両ッ…ああ…ッ!!
【三拍】
亀吉:番頭さん! 大旦那様がお呼びですよ!
番頭:ああ、今行くよ。
失礼します。佐兵衛でございます。
大旦那:ああ番頭さん。
さ、中へ入って座っておくれ。
…よく今日まで辛抱してくれた。
番頭さんあってのうちの商売だ。
これからも、暖簾分けをした先で一生懸命働いておくれ。
番頭:は、はいッ、今までお世話になりました…!!
大旦那:これが暖簾分けの支度金…五十両だよ、受け取りなさい。
番頭:ありがとう存じます…!
大旦那:…それからね、番頭さん。
いろいろと嫌な思いをさせたね。
昨年の夏、倅が患った時にあの暑い中、江戸じゅうを駆けずり回
って、季節はずれのみかんを探してくれた。
倅も今はもうすっかり元気になって、ちゃんとあたしの跡を継い
でくれている。番頭さんのおかげだ。
…実はみかんを買って来た時ね、あたしは心配で心配で…
いても立ってもいられなくて廊下に出たんだ。
その時、番頭さんがみかん三房を手の上にのせて、五十両…三百
両…五十両…と悩んでいるのを見てしまってね…。
番頭:!!ぁ、いや、その、あれは…。
大旦那:あのまま、いなくなってしまうんじゃないかと思ったが…、
番頭さん…よく、辛抱してくれたね…辛い思いをさせた…。
それでね、
あの時の三百両…暖簾分けの支度金に付けましょう!
番頭:そんな…もったいない…もったいない事でございます!
大旦那:いいんだよ。
みかん三房三百両、番頭さんの性根は、値千両だ。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
金原亭馬生(十代目)
柳家小三治(十代目)
林家たい平