3-13 玉座の間
リットがオフェルを引き離し、シグルドら戦士団がセッポ伯爵の私兵と衝突してから少しばかりの時間が経過した頃。
伯爵の軍を前に怯む事ないシグルドは、その身を戦士団が切り込む為の切先として先陣を切って敵の只中へと飛び込んでいた。
「クソぉ!止めろ!止めろ!」
「これ以上王子に進ませるな!」
丸太のような手脚を武器にして、獅子を模った黄金の籠手が怒涛の勢いで敵を薙ぎ倒す。
平均を大きく超える巨躯ながらもシグルドの身のこなしは軽く、槍を構えていたとしても素早く距離を詰められ悲鳴を上げる隙もなく兵士達は宙に舞う。
鎧袖一触とはまさにこの事と、両軍に畏怖を与える戦士の姿がそこにあった。
「何をしておるか!数で勝っておるのだから怯むでないわ!」
セッポの怒号が及び腰になりつつある兵士へ飛んで、やるしかないと腹を括った数名が目を見合わせて頷いた。
各々得物を握り締め、八面六臂の戦いぶりを見せるシグルドの意識の外から一撃加えようと近づいて──
「うおおお!"ヘヴィスマッシュ"!」
「同時攻撃を防げるかな!?"フェラルクロー"ッ!」
シグルドの首を狙わんと、大斧を構えで猛進する大柄な兵と鉤爪で空を切り裂きながら駆ける痩躯の兵が迫る。
どちらもセッポ配下の中では指折りの猛者だ。
その一撃は他とは比べ物にならない威力を湛えてシグルドを間合いに収めている。
このままではそのような攻撃をマトモに受けてしまう、そんな危機的状況でシグルドは……獰猛に笑った。
「な──?」
そのような強者の余裕を見せられて困惑を僅かに浮かべたふたりの兵士は、しかし押し切るしかないのだと得物を振るい続ける。
シグルドの首まであと少し、そんな距離まで斧が近付いて尚シグルドは緩く構えたまま不気味に行動を起こさずに、ジッと大柄な兵を睨み続けていた。
(な、なんだ!?何故王子は動かん!?)
大柄な兵士は困惑を強めつつ、しかしスキルによって加速した斧は狙い澄ましてシグルドの首を絶たんと振り下ろされ……シグルドがポツリと呟いた。
「"縮地"」
斧を振り下ろす兵士から見ればこうだ。
シグルドの姿が不意にブレ、次の瞬間には巨躯が音も無く間合いの内側、肘に近い位置で拳を構えていた。
弓の弦を引くように、腰だめにした拳は強烈な一撃を予感させ冷たいものが背筋を走る。
「重撃とはこうやるものだ──"ヘヴィブロウ"」
中級クラス【重拳士】の強烈なボディブロウが突き刺さる。
水面に拳を叩きつけたように腹へ籠手がめり込んで、やがて衝撃を吸収する限界に達した肉体が地面から浮かび上がった。
足の裏を地面から離し、配置を変える内蔵に耐え難い苦痛を感じた事すらほんの一瞬の出来事。
斧を振るっていた巨兵は木の葉を吹き飛ばすように容易く宙を舞い、ただの拳圧を浴びただけの鉤爪の兵士ですら全身を駆け抜ける恐怖によって動きに迷いが生じた。
そしてそのような一瞬の意識の空白が戦場では命取り。
僅かに遅れた攻撃に合わせて、シグルドは万全の構えで迎え討つ。
「"アイアンフィスト"!さあ来い!」
裂帛の気合いが大気を震わせ、シグルドは籠手へのバフを掛けて爪撃を……受け止める。
ガキリと金属がぶつかる音が鳴ったものの、黄金の籠手は同じく【重拳士】のスキルにより堅固な防御性能と、そして──
「その程度かッ!」
「ヒィ!?」
シグルドの剛腕が強烈な打突を見舞う。
いくらステータスによる補正があろうとも痩躯で受け止められるものではなく、スキルによって攻撃力をも強化したただの拳撃にて痩躯の兵士は弾き飛ばされた。
手脚を振り乱して進路上の複数人を巻き込みながら吹っ飛ぶその様が、この一撃がどれ程の威力であったのかを物語っている。
こうして容易く2人を倒したシグルドは拳を突き出したまま、残心のようにゆっくりと息を整えて再び構え直そうとした刹那。
背後から迫る影があった。
「如何に強くとも背後からなら──!"シャドウストライク"……"クリーピングヴァイパー"」
息を潜めて近付いたのは短剣を手にした兵。
奇襲の際にダメージボーナスが掛かるスキル2種を重ね掛けして鈍色の刃がシグルドの背へと突き立てられ──凛と響く鍔鳴りがひとつ。
「──!?何が……?」
短剣は力なくシグルドの背に切先を当てたあと、そのまま地面に転がり落ちた。
短剣の主も同様に……首を地面に落とし、遅れて胴体も。
僅かに意識を繋ぐ死体のそばには紫の髪を戦場の風で靡かせるウィスタリアが、鞘と柄に手を当ててたおやかに立っていた。
「不要な手出しだったかもしれないけれど」
「ウィスタリア殿か。いや助かった」
明らかな強者2人のの存在に兵士達はどよめき、後ずさる。
口から漏れる吐息には戦いに向かう荒々しいものよりも恐怖の方が多く含まれていた。
混沌とした戦場にぽっかりと穴が空き、誰しも自ら死にに行くような真似はしたくはなかったのだ。
「この程度か?予想を下回るな……妙だ」
シグルドは疑問を溢す。
予想ではもっと苦戦するような相手が多く居るのだと考えていたのだが、実際はそのような相手はひとりもおらず、シグルドの歩みを止める事すら出来ていない。
セッポは確かに自信過剰な男だが、それを養ったのは精強な軍勢という受け継いだ資産に裏打ちされたもの。
そこまで考えて、シグルドはこの時間稼ぎにどのような意図があるのかを察して眉を顰めた。
「セッポは捨て駒。我等を足止めしている間に兵力を自領に集めて内戦の準備をするつもりか」
「果たして、竜と戦う気はあったのかしら?」
「ドラゲンティアに頼れなくなった段階で我等に押し付けるつもりだったのだろう。そして疲弊した所を……と」
会話の最中に、意を決した兵士が散発的に襲い掛かるが片手間に倒されていた。
拳で捩じ伏せ、刀で斬り伏せる。
ジワジワと歩み進めて押し込んで、立ち並ぶ兵士の頭の向こうに怒りや屈辱に顔を真っ赤にさせたセッポがよく見えるようになった頃、シグルドは肩を回して大きく一歩踏み込んだ。
「では、終わらせてくる」
絶大な力を地面に叩き付け、シグルドの跳躍は人垣を飛び越えセッポの眼前まで一息に……着地。
ズシンと腹の底を揺らす衝撃が周囲に伝わり、思わず護衛の役割を忘れて兵士達は後退る。
シグルドを阻む者は誰も居ない。
遮るものなくシグルドを直視し、馬上で慌てふためいたセッポは唾を飛ばしながら懸命に叫ぶ。
「こ、殺せ!こんなに近くまで来ておるのだぞ!だれ、誰か──」
「観念しろ。もはや逃げ場は無い……もしくは自分で戦うか、だが」
シグルドの言葉にハッとしたセッポは腰に下げた手斧を取り出そうとして……馬から転がり落ちた。
綺麗に磨かれた鎧を騒々しく鳴らしながら転がって、這いつくばって手斧を構える。
「せ、正々堂々しょう──」
シグルドは無言のまま、ただ拳を振るった。
狙うはセッポの手斧。
美術的な価値の方が高いであろう代物は、薄氷のように容易く砕け……セッポの自尊心すら粉々になる。
破片がパラパラと落ちる様を見て、セッポは喉の奥から空気の抜ける高い音を漏らして手を下ろす。
何かを言おうと口を動かせども言葉にはならず、シグルドが溜め息をひとつ。
「はあ……さて、勝負はついたな。大人しく──」
降伏しろ、と続けるよりも先に、シグルドを取り囲んでいた兵士達が次々と武器を地面に放り出した。
抵抗する気はないと、降伏を示すその行動は次々と伝播して殆ど全員まで広がり、最後のひとりであるセッポを前にシグルドはひと睨み効かせて一言。
「降伏するか?」
セッポは手の中に残った手斧の柄を地面に転がした。
◆◆◆
王都トエリコ、その中心たる王城でもより中心と呼べる場所……玉座の間。
複数人の大貴族が集まる今日、この場で何が行われているにしろそれは中止となるだろう。
何故ならば、大きな扉の前から赤いカーペットが玉座まで敷かれた王への拝謁が叶うその道へ、まさに今足を踏み入れる者がひとり扉を力強く開け放ったからだ。
「火急の用にて失礼する!ご無礼を許していただきたい!」
扉を突き飛ばすようにして開けたのはシグルド。
あまりにも豪快な現れ方の為に室内に居た全員が視線を奪われ目を丸くした。
しかしシグルドは構わずズンズンと玉座へと近づいて、後ろには場にそぐわない身綺麗とは言えない戦士達や戦いの最中でも汚れひとつ無いままだったウィスタリア……そして縄で縛られたセッポが続く。
そんな物々しい様子を見れば、面食らった大貴族が慌ててシグルドを諌めようと声を上げるのも道理だった。
「何をしておいでですかシグルド殿下!いくら王子といえども王の御前ですぞ!」
「火急の用だと言った筈だ。であるからこそ王の御前にて片付けねばならない事がある」
シグルドは仁王立ちして玉座に深く腰掛け肘を突く王の目を見据える。
隈が多く、落ち窪んだような瞳に生気は無い。
ただ黙してシグルドを見ているだけで何ひとつ言葉を発する気配もないまま、代わりにその隣に立つ気品ある女性が前へと歩み出てきた。
「王族たるものが、そのような礼を失する振舞いをしてはなりません。模範となるべき存在がこうも相応しくない事の数々を……」
口に手を当て、嫌悪感を隠そうともしないその女性を前にシグルドは一層険しい顔をする。
怯むような事はないが、それでも緊張で鋼の心臓が鼓動を早めるのを感じながらゆっくりと息を吸い、合図を出してセッポを王の前へと突き出した。
「アウロラ殿下、相応しいか相応しくないかは後で幾らでも自省いたしましょう。ですが今は──セッポ伯爵、貴殿に申し開きの機会を与えよう」
「はっははー!まっことありがたき事!このセッポ、愚かしくも姦計に加担いたしました!シグルド殿下を殺せとの命に従ったのでございます!」
どよめきが場を支配する。
顰めた声や慌てたような人影に、玉座の間は騒然となるがしかし、この世の全てに無関心な厭世的な王と毅然としたアウロラは動じていなかった。
どんどんと騒めく声が大きくなる様子を見かねたアウロラは槍を持った近衛兵らへと指示を出し、柄頭を床へと打ち付ける音にて場に秩序をもたらし、頷く。
「騒々しい……そのように取り乱したところで何の解決にもならないでしょうに……シグルド殿下、それは災難でしたね。しかし叛徒は果断に処置しなければなりません。生きていれば必ずや嘘偽りを口にして不和の種を植え付けますもの」
まるで自分に火の粉が掛かる事はないと確信しているかのような余裕の態度。
美しく整えられた化粧を流すような汗をひとつとして流す事はなく、端正な顔には微笑すら浮かべて説得力というものを生み出す。
鷹揚に腕を組み、眼光鋭くシグルドを睨む様などアウロラに分があると思わせるような説得力に満ちている……が、しかし。
組んだ腕を抑えるように手は上腕を掴み、そして僅かに震えている。
微笑もよく見れば、その形に固く結んでいるぎこちなさを感じさせた。
そんな様子を知ってか知らずか、セッポは懸命に弁明を続ける。
「な、何を平然と……!そんな他人事のように言うかアウロラ殿下!そもそも首謀者は貴女ではないか!我々は貴女がドラゲンティアの後ろ盾を得た確実な計画だと聞いたから力を貸したのだ!それがどうか!まんまとドラゲンティアに逃げられているではないかっ!?」
騒めきが、再び。
しかし今度は先程の比ではない大きさの波が玉座の間を反響している。
アウロラが事前に嘘を言うかもしれないのだから口を塞げ、と言ったら事は果たしてどちらの意味だったのか。
本当に惑わせる事を言うのかもしれないという危惧から来たのか、はたまた不都合な事実が暴露される事を恐れての発言だったのかが口々に囁かれ……徐々に高まる騒めきをシグルドの豪快な拍手の一拍がかき消した。
「さて、アウロラ殿下。今この時も竜は王都へと迫っているのです。我々は人間同士で争っている場合ではないかと思いますが」
「……その企み事に私が加担しているとはそのセッポのみが語っている事ではありませんか。むしろ貴方の方こそ怪しいのでは?かねてより不審に思っておりましたが、なにやら私兵を育て地方貴族との繋がりを強めている様子」
獲物を絡め取る蛇のような視線を向けるアウロラだが、シグルドそれに怯む事なく胸を張る。
「ハッキリと仰られればよろしい。このシグルドが貴女を陥れ、兄上……第一王子を蹴落とし玉座に手を掛けようとしていると」
アウロラが言いたい事とはつまりそういう事だろうと、シグルドは何でもないように言い放った。
この後に及びアウロラは全ての罪をなすりつけようとしているのだが、一切怯む事なくシグルドは自身の胸を叩き吠える。
「だが断じてそのような事は無いと言える!我が身はこの国の為に捧げた!目的はただひとつ、降り掛かる災禍を払うこと!だからこそ、迫る竜を討つまでの万難を排する為ならばこの身は幾らでも貶めても構わん。首でも持って行くがよい」
「それは随分と……武人らしい事」
シグルドの突拍子もない発言に目を丸くして、アウロラは腕を抱く。
「このまま竜を討った後、貴女は内戦に持ち込むつもりか?そのような事に意味があるかは分からないが、大勢の命が潰える事になるだろう……それを避ける為に俺は命を捧げても良い、と考えている」
竜という外敵を退けたミスルトに待つのはシグルドを旗頭とする派閥とアウロラの派閥の内戦だ。
負けた方が賊軍となるこの戦でアウロラが引く事はないだろう。
なにせ今この状況だ。
最後に逆転の目があるならば内戦で勝つ事しか無い。
その一縷の望みに賭けたなら、それに巻き込まれた大勢が死ぬ。
兵士は当然数多く死ぬだろう、戦場となる場所次第では住む場所を追いやられる民が居るかもしれない。
そんな事を考えれば、シグルドは断固として戦うという選択肢以外も浮かぶ……が、しかし。
「だが、それはこの身を犠牲にして救われる命がある場合だ!ドラゲンティアは既に手を切ったのだろう!その状況で貴女の後ろ盾になるものは!?全てを掌握する力を失った貴女に選べるものは少ないぞ……」
仮にアウロラが戦に勝ったとして、支配するミスルトには同盟相手が居ない。
元がドラゲンティアと手を組もうとした者達だ。
その動きを都市連合は把握してウィスタリアらを送っているのだから、新しいミスルトが信頼できる相手だとは思われないだろう。
ドラゲンティアと戦いながら背後のミスルトを気にするくらいならば、と戦にまで発展するかもしれない。
それを踏まえてなお、アウロラは怯む事なく毅然と言葉を返す。
「ならばその少ない選択肢に首を垂れて屈するようなものは必要ないわ。竜はシグルド殿下が倒せばよろしい。それが貴方の価値ですものね?私達はその後を見据えさせて貰うわ」
それはこれら姦計の首謀者は自分だと認めたようなものであり貴族達は大いに騒めくが、事ここに至りそれは重要ではない。
これは明確な宣戦布告。
しかしシグルドには竜と戦わないという選択肢は存在しない、戦う以外にない為に舌戦にてアウロラが考えを変えるしか勝ち筋が見出せなかった。
「その後などという都合の良いモノが存在しないと何故分からない!?」
「そちらも手を汚さずに済む決着などないと理解しては?シグルド殿下、貴方は昔からそう。王宮での権力闘争に立ち向かう勇気を持てずに練兵場へ逃げ、自らは戦士だなどと嘯いて地方へ逃げた」
「そうだ……俺は臆病な男だ。俺がもっと色々なものに立ち向かい、果たすべき事を果たしていたのならばこうはならなかったのだろうな。だからもう、その過ちを繰り返しはしない」
シグルドの纏う気配に、鋭いものが混じる。
空気が張り詰め肌がピリつくようなソレが殺気である事はもう疑いようもなく、この王宮がアウロラの手中に落ちた敵地の只中であろうともこうして敵意を見せるのは、交渉はもう決裂したのだと明確に示すもの。
アウロラが一歩下がり、周囲の兵士達が剣呑な雰囲気で一歩前へ。
自らをこの争いとは無関係としたい貴族達は壁際へと後退り、戦士団も一触即発の空気に当てられて手を武器に近づける。
「ま、まさかここで事を構えるおつもり?そこまで愚かだとは思いませんでしたわシグルド殿下」
「そちら次第だ。我等が竜を討つ間に背後に気を取られていれば共倒れの可能性がある。今ここで後顧の憂いを断つ事もアリだ……それに愚かさで言えば貴女とて同じ事」
「なにを──」
理解が出来ないといった様子でアウロラは強張った表情に動揺を隠さなくなり、腕は僅かに震えている。
結局のところシグルドが眼前に居る、という状況が個人の生存においては詰みなのだ。
アウロラはそこで大局を見ろと言って様々な可能性を提示したが、万が一シグルドがなりふり構わず自身を殺しにかかったなら対抗手段は極めて乏しい。
手駒の兵士を幾らか犠牲にして決死で逃げればある程度は逃走の目もあるのだが、それでも賭けに出るにはアウロラは失いたくない手持ちが多すぎた。
だがそれしかないのならば、と逡巡した僅かな時間。
それが運命の分かれ目だった。
「──アウロラ様ッ!」
玉座の間の扉が再び力強く開け放たれた。
開放された扉から勢いよく歩いてくるのは真紅の鎧を身に付けた白髪混じりの男、オフェル。
彼が現れた事でアウロラは僅かに安心した顔をして、しかしすぐに怪訝さも浮かべる。
何故我が騎士がこの場に居るのか、と。
その疑問を浮かべた時にはオフェルは既に足元に跪き、鎧を身に付けていても分かる程に肩を震わせながら顔を伏せていた。
「申し訳ございません……!アウロラ様の騎士オフェルは敗北致しました……っ!」
アウロラは戸惑いがちに視線を動かし、オフェルの背後に着いていた茶髪の男がシグルドの側に行った事で、オフェルは何事かの思惑により生かされたのだと察する。
それは即ち説得なのだと、気を引き締め直したアウロラの視界に零れ落ちる光が目に入った。
それは涙。
オフェルが、大の大人が、一度も泣いたところを見た事がない信頼する騎士が涙を流していると、その様を見てアウロラは少なからぬ動揺を受ける。
「オフェルお前は……」
「20年……貴女様にお支えした事を後悔した事はありません。ですが、ただ自分自身に対して悔いを抱いております。貴女は私を救って下さった……それに報いたい思いはあれど、足りなかった……っ!」
オフェルが滂沱の涙を溢す中、アウロラはオロオロと手を当てどもなく動かしてなんと声を掛けてよいものかと迷っている。
それは先程までの毅然とした王妃アウロラの姿ではなく、かつての都市連合の令嬢のもの。
風変わりな流れ者を騎士にした、未熟な過去へと引き戻されていた。
「昔は共に考えて、貴女の冒険に付き合っていたのに……いつしかただ貴女の言葉に従うだけの無機質な道具になっていた。いつしか忠言すらも言わなくなって、私は貴女をひとりきりに追い込んだ……」
「そんな、そんな事はないわオフェル。私はいつも貴方に助けられて──」
「ならばこのような破滅的な計画の助けなどするべきではなかったッ!昔の貴女は理想と現実の間でより良い選択肢を選べる人だった筈、ドラゲンティアの甘い言葉に耳を貸すような人ではないでしょう……!」
「──いえ、違う。これこそがより良い選択なの。私には守らなければいけないモノが沢山あるのだから」
跪くオフェルから一歩離れて、アウロラは毅然とした態度を取り戻す。
「分かるでしょう?母であるのだから、私はあの子を守らねばならないの。第一王子とは名ばかりで、宮中はあの子の敵ばかり!そして肝心のシグルド王子は武器を振り回して放蕩三昧!そんな状態で誰がこの国を都市連合の魔の手から守る!?」
「都市連合だと?」
アウロラの激情に任せた言葉の中に、シグルドは気になるものを見つけて思わず聞き返す。
都市連合とはアウロラの出身。
ミスルトとは同盟関係にあり、アウロラもその関係を強固に維持し続ける為に送られてきた政略結婚の筈なのだが。
「ハッ!シグルド殿下!貴方のような高貴な方には分からないでしょう!都市連合の事……あそこで生み出された家畜まがいの私の事などっ!」
息を切らし、頭に血を昇らせたアウロラが胸を抑えてシグルドを睨む。
今のアウロラに上位者が放つ威圧は無くとも、鬼気迫るモノは大いに放たれてシグルドも思わずたじろぐ程。
「私は商品……ミスルトの王家に売られる為に生み出された値札付きの胎。都市連合は人の命すら物のように扱える巨大な化物なのよ。ミスルトが、この国が隙を見せればきっと呑み込まれてしまうわ……」
今度は顔を青白く、心の底から湧き上がる恐怖によって身を震わせる。
アウロラの行動原理とは恐怖や危機感。
役目を果たさねば、隙を見せないようにしなければ……それらは全て都市連合への警戒から来るもの。
竜が全てのドラゲンティアの方が余程マシだと思うほどには、都市連合の事をアウロラは恐れていたのだ。
「アウロラ様、まさかそこまで……」
「ごめんなさいオフェル。でも始めたからにはやらなくてはならないの」
追い詰められたアウロラは不退転の覚悟を持ってミスルトに混乱や死を齎す選択をした。
ならばシグルドはどうか?
アウロラの恐れに突き動かされるという、シンプルな衝動を前に……冷静に頭を回している。
「いくら都市連合に怯えていようとも貴女は愚かではない。この段階でドラゲンティアに交渉材料となる〈竜髄〉を渡すような事はしない筈だ」
「〈竜髄〉?何を言って──」
「ドラゲンティアとの外交で使えるカードは竜、ただひとつ。それを大義名分として戦争という最も過激な外交手段に出る程には奴らにとって重要なモノ……それが手札にあるのなら、可能な限り出し惜しみするべきだ。所詮ミスルトが使えるカードなどそう多くはないのだから」
出し惜しみし過ぎて怒りを買っては本末転倒だが、ドラゲンティアを味方に付けるならば〈竜髄〉を渡すのはもっと後、それこそシグルドの死を確認してミスルトを完全に掌握したタイミングが良いだろうか。
しかしドラゲンティアは国境を接する全ての国と戦争状態になっても構わず竜を求める国だ。
ならず者のように報酬だけ受け取って去ってしまうような不義を平気で行った。
「貴女は事態の制御に失敗している。何故切り札が早々に切られてしまっている?有効でない場面で使われて、ドラゲンティアは早々に手を引いてしまった……貴女はドラゲンティアとの交渉材料にミスルトの秘密の宝物庫に隠された〈竜髄〉を提示したのだろうが、あの黄金の腕輪は既に聖騎士が手にしていた。ドラゲンティアに出し抜かれたのか、あるいは別の誰かなのか」
「馬鹿な!あの扉は王家の者でなくては開けられない魔法の扉!いくらドラゲンティアと言えども悟られずに開ける事など叶わぬ筈……」
ならばどうやって開けたのか。
なんて事はなく正規の手段で開ければよいのだ。
王家の者……現在は3人が鍵に該当するのだが、シグルドは王都を離れていた為に開ける事は不可能。
第一王子などはアウロラが特に気に掛けている為に無理に移動させようとすれば、アウロラが信頼する兵士達と共に警護に着くオフェルが気が付くだろう。
ならば、とその場の視線は最後のひとりへと集まった。
「──そうだ。我こそが」
豪華な玉座に深々と腰掛ける王冠を載せた骸のような生気を感じさせない男。
頬杖を付き、酷い隈と落ち窪んだ目は井戸の底のように深く闇を湛えている。
脂肪の乏しい口元から深々と息を漏らし、地の底から響くような絶望や諦観を滲ませる声は不思議とよく聞こえた。
「……我こそがミスルトの王。名すら残らぬ亡国の最後の王になる筈だったのだがなぁ……」
まるで拗ねた子供のように、視線を落としてダラリと脱力する。
国を滅ぼすつもりだったと、そう溢した人とは思えない程に無気力で、絶望に打ちひしがれた男。
否、だからこそ国を滅ぼそうと思ったのかと納得すら覚える生への無頓着。
「父上、何故──!?」
「何故?それは聞くまでもないだろう。愛を失ったからだとも。お前の母は生きる理由とするのに十分過ぎる程に良き人だった……だが、それが居ない世界に意味があるのか?太陽が無い世界に命は無く、風の無い世界で鳥が飛ぶだろうか」
「それで……貴方ひとりの絶望で、国を巻き込んだ心中をするつもりだったのですか!?」
「ドラゲンティアの計画が渡りに船だっただけだとも。だが一度芽生えたモノはそう簡単に消えはしない。王都に迫るあの竜……朱竜と言ったか?アレが全てを飲み込むのなら、それで良いと思った」
「そ、そんな……」
アウロラは自身の計画を破綻させた思わぬ裏切りの存在にへたり込む。
大貴族たちも動揺が激しく、言葉を忘れて王やアウロラを交互に見やっている。
まさか王と王妃が揃って国賊であったのだ。
これではミスルトという国の頭が腐って転がり落ちてしまって、残された身体はどうすればよいのか。
そのような時にちょうど良く、新たな頭がそこにあった。
「ハァ……お前が来たからには解決してしまうのだろうな、シグルド」
「それが責務と心得ております」
「ならばこの王冠は持っていけ。果断な処置をしろ、躊躇うな」
「体良く死にたいだけでしょう。考える事は多くあるが、今は竜だ。父上には王冠の置き場所として今暫く生きていてもらう」
眉間を押さえてシグルドは悩ましげにそう言った事で、事態は一旦の終結となった。
アウロラは呆然とし、王は諦め、国を動かす大貴族達はどうして良いものかと頭を捻っているが……
だがそれでも決定的な破綻だけは免れて、幾分マシな結末に近づいたのだ。
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