間話 ミライと母
「ねぇミライ。お母さんと森へ探検しに行こっか」
ミライは作業机に向かって薬草を煎じている母よりそんな言葉を掛けられた。
これはよく晴れた日の事。
その日は夏にしては比較的に涼しい風が吹く日で、幼きミライはその風を朝一番に浴びた時から今日は外で遊びたいと思ってウズウズとしていた。
しかし母から課される課題もあるし、その風を窓から取り込んで母と並んでする勉強はそれはそれとして嫌いではなかったから、小さな頭はその2つを選ぶ事が出来ずにグルグルと空回っていたのだ。
「探検!?行きたい!」
だからこそ、まさか母の方からそんな素敵な提案をされるとは思っていなかったミライの返事は快活だ。
小さな身体を弾ませて、床板が軋む程にはしゃいで喜ぶ。
溢れんばかりの眩しい笑顔で応えたミライはクスクスと笑う母を見ると、ミライと同じ蒼い瞳を細く覗かせ優しく微笑む姿が。
「じゃあ準備して!おやつも持っていこっか」
「やったぁー!」
長い銀髪に薬草の優しい香り。
ミライの母は村で頼られる薬師であり、家の庭では様々な薬草を育ててその効能や煎じ方などをミライに教えている。
その知識量は途方もなく、村一番と言って差し支えない程。
そしてミライは自分の母は世界一の美人だろうと内心自慢に思っている。
ミライにも遺伝した銀の髪は珍しく、この辺境の村ともなれば好奇の目に晒されるもの。
だが村の中で遊んでいても母の姿は間違えようもなくすぐに分かり、そんな銀髪が村の人々に見つけられると感謝の言葉が飛んでくる事もミライは知っていた。
珍しい、目立つ、他とは違う。
それでも頼りになる村の薬師の象徴として、母とその銀髪は自慢だったのだ。
そんな母と行く楽しい探検。
ミライの気分は上々だ。
家を出て、顔馴染みの村人──この村に暮らすものは皆顔見知りのようなものだが──と挨拶を交わしながら門を潜る。
心配症のロンおじさんと二、三言葉を交わしてから森へと入れば木々が日差しを遮って刺すような暑さは無くなった。
代わりに肌に纏わり付く暑さを感じ始めるが、今日は風の日。
木の葉を揺らしながら森を走り抜ける風が湿った空気を吹き飛ばし、清涼な空気を届けてくれる。
「ミライ、なんでお母さんが村の外や森の奥に行くのをダメー!って言ってるか分かる?」
「んー……危ないから?」
まだ成長の余地を残したミライの思考で思い付くのは森に住む獣達の姿。
子供とそう変わらない大きさの獣などありふれているこの大森林ではミライは喰われる側の存在だ。
それ以外にも自然の脅威や人の悪意など、様々な危険があるのだが、ミライにはまだ想像が出来ない事ばかりだった。
「そう、危ないから。今まではお父さんが守ってくれたけど、ちょっとの間はそうじゃないからね」
「うん……ちょっとってどれくらい?」
「ちょっとは……ちょっと。そうだなぁ、こっちおいで」
森の中を僅かに押し広げたような、道のような、そうでないような場所を歩く中で見つけた何気ない木。
母に誘われてミライはその木の根元を見る。
「ほら、この木わかる?」
「なんか……変な感じする」
言葉に出来ない不思議な感覚。
気持ち悪くなるような波打つ感覚と、包み込まれるような暖かさ。
ミライの感じ取ったものはこのふたつだが、それらに対して嫌な感情は抱かなかった。
「この木にはね、村の外や森の奥にいる怖いモノからミライを守る為の魔法が掛けてあるの」
「魔法!すごい!
ミライには魔法の才がある。
とはいえ、その秘めたる力の多くはこれからゆっくりと紐解かなければならない未だ眠ったままのもの。
そんな状態であっても、ミライは漠然とした感覚で魔法という世界に起こる違和を感じとっていた。
「でしょ?ほら、目を閉じて……これがお母さんの魔法。覚えてね、ここから外には出てはいけない」
「覚えた。わかった」
「よし!良い子!」
「わあぁ!」
撫で回されて、もみくちゃに抱きしめられてミライは声を上げて喜んだ。
魔法に感じた暖かさと同じ物を感じ取り、そして昔よりも少し骨ばった母の体に泣きそうにもなる。
「……ねえねえ!他には!?」
「他?魔法の事?いっぱいあるよ。ミライも使ってみたい?」
「うん!綺麗なのが使いたい!」
「ミライなら、きっとどんな魔法だって使えるね」
想像の中に素敵な光景に目を輝かせるミライは顔が赤くなる程興奮し、表現しきれない感情も胸の中を渦巻いている。
だが魔法の才能は比較的に遺伝しにくい。
偉大な魔法使いの子供がまるで魔法が使えない、などはよくある話で魔法の名家というのは興しづらいもの。
ミライとて母親と同じように魔法が扱えるなどとは限らず、魔法を感じ取った感覚はあれどもそれ以上が備わっている可能性は未知なのだ。
しかし未知とは可能性に満ちているとも言い換えられる。
ミライの可能性信じたこの言葉も親バカであったり、希望的感想による慰めではなかった。
とても人には計り知れない事ではあるが、ミライには確実にそのような力が備わっている事を確信して、母の手はミライを撫でる。
「えへへ……魔法、見たいなぁ」
「仕方ないなぁ……ほら、おいで」
ミライは母親の側に抱き寄せられ、その眼前に緩く握った細指を出される。
白く繊細な指からは薬草の香りが漂ってミライの鼻腔をくすぐった。
「この手をよく見ていて──」
ミライは何やら小さく呟く声を聞きながら息を呑む。
それは聞き慣れた母の声でありながら、明らかに普段とは違うモノが含まれた声。
密やかでありながら力があり、短いがそこに多くが含まれた言葉が唱えられた後、ゆっくりと手が開かれた。
「わああ!」
指の隙間から小さな橙の灯火が、我先にと幾つも飛び出し宙を踊る。
それは簡素な意思を持った魔法生物。
単純な火の魔法に魔力で編んだ意思を宿らせ、花火のように賑やかす。
「きれーい!」
「まだまだ、見てて……」
術者が指を振れば、小さな灯火はそれに合わせて左右に揺れる。
上へ下へ、空を回って自在に動く。
「すごい……」
ミライが見よう見まねで手を動かしているのを見て、ひっそりとそれに魔法生物の動きを合わせてやれば、感動もひとしお。
「ねぇねぇ!名前は!?」
「名前?」
「すごい魔法には名前が付いてるんだよ!」
ミライが読むにはまだ少し難しい本に載っていた物語には、魔法使いが多くの魔法を唱えている様子が記されていた。
それは現実を誇張したような英雄譚だが、ミライの目には物語の魔法使いと母の姿が重なって見える。
ミライにとって母は間違いなくキラキラと輝く存在だ。
しかし、そんな純粋な目では困った表情で視線を泳がせる様子など意識の内には入らなかった。
「えー……名前、なまえー……即席で作った魔法だしなぁ」
この言葉を記憶の片隅に置いていたミライは後に成長した時に思い知る事になる。
即席で魔法を作るなど常人からは遥かに隔絶した技巧の為せる技であると。
それを我が子に見せる些細な賑やかしに使うなど、どれほどの技を積めばその高みに辿り着けるのかとあらゆる魔法使いが羨む程だ。
「"ファイアフライ"……適当だけどね」
「いいなぁ……教えて?」
「魔法の勉強は大変だよ?ミライに出来るかな?」
「できるもん!」
だがそんな技の持ち主は、これこそが最も正しい使い方だと信じている。
人を焼き殺す炎ではなく、明るく賑やかな灯火こそが自らの技の真髄であれと、そう願う。
「そっか……ねえミライ。木に刻んだ魔法が消えた時、ミライはきっと素敵な大人になっている……その時はこの木の外の世界を見ても大丈夫」
「ほんとに?怖いのは?」
「その時にはお母さんみたいに魔法が使えるようになってるし……お父さんはね、その怖いのを退治しに行ったの」
「ほんと!?そうしたらお母さんも良くなる!?」
涙で潤んだ瞳で見上げてミライは願望混じりの言葉を発する。
体調が次第に悪くなる母の姿をミライは毎日見続けていた。
村中から頼られる薬師自身がこのような状態になり、そしてそれを本人すら治せないのだと知ったらミライはどんな悲しい顔をするだろう。
「うーん……そうだね、きっと良くなる。お父さんはね、お母さんの騎士様なんだから」
しかしこの約束は果たされなかった。
ミライの母はこのまま衰弱して亡くなり、魔法の結界は異世界から転移したモノによって破壊されて、外の世界にはミライの命を狙う者が居て……何ひとつ、果たされる事はなかった。




