西洋の貴族制度についてのひとまとめ
文字数が多くなってしまっていますが、要旨部分は三千字程度にまとめてあります。
西洋の中世~近世についてあれこれと調べていたらWeb小説って「貴族と平民の身分の差」みたいな話が好きな割に随分と妙な貴族制度の使い方をしているなと気付いたので西洋の貴族制度について大雑把ながらもまとめてみました。
なお自分は創作でも歴史上と同じ貴族制度を採用すべきとは微塵も考えていません。細かい制度はわかりにくいところも多いですし、敬称の使い分けとかも当該国の人間でも間違えるほどで、翻訳でニュアンスが変わってきたりもしますから再現するなんてとても無理でしょう。一般的なイメージを踏まえた上で各国の制度を適当にミックスしたくらいがわかりやすいんじゃないかなと思っています。
とりあえず例によってひどく長くなったので言いたいところだけまとめた要旨を最初に持ってきて、その後にもう少し詳しい話を書いています。
〇要旨
「貴族」のイメージというと色々あるかとは思いますが、一般的なイメージとしては、国家から爵位を与えられた特権階級であり、使用人たちに傅かれる生活を送り、当主の主な仕事は領地経営で、妻や娘はお茶会や夜会といった社交を行う優雅な生活を送るお金持ち。例外的な存在として貧乏貴族だったり没落貴族が存在する、みたいなところになるのではないかなと思います。地域・時代を問わなければ歴史上の西洋貴族の中にこのイメージ通りの姿を見出すことは出来るのですが、一点、大きく異なる点があり、「貴族」である条件として爵位は必要ありませんでした。爵位保持者が「貴族」であるのは間違いないのですが、爵位を持たない貴族たちも大勢いました。
しばし貴族の解説として公爵~男爵までの爵位(五爵)を紹介した上で、准男爵・騎士爵(騎士)については貴族ではなく平民であるという解説がなされていることがありますが、これは現在も貴族制度が残るイギリスの法律上の貴族(世襲貴族)の説明としては間違いではないのですが、実質的な点を考慮すると間違いと言えます。イギリスの貴族制度は非常に独特で、確かに男爵以上の爵位保持者が「貴族」とされていましたが、これは言い換えると、爵位保持者以外は家族であっても貴族ではありませんでした。つまり、公爵令嬢も侯爵夫人も伯爵令息もみんな法律上は「平民」でした。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、一例として、選挙に当選した貴族の子息や夫人は貴族の入る貴族院ではなく庶民院で議員になっています。1963年の法改正まで貴族は庶民院の議員にはなれませんでしたから彼ら彼女らは「貴族」ではなかった、ということになります(そもそも貴族であるなら選挙に出ずに自動的に貴族院の議員になれたわけですが)。もちろん、貴族の家族が本当にただの平民として扱われたかというとそんなことはなく、「紳士淑女」として扱われました。これは法律によって保障された身分ではなく、イギリス独自の階級社会の中で慣習的に確立された身分であり、一般的な貴族イメージの中にある社交を繰り広げたのはこの「紳士淑女」たちでした。そしてこの「紳士淑女」には准男爵や騎士爵、ジェントリなどの爵位を持たない層も含まれており、実態を重視するならばこれらの層を「貴族」として数えないのは間違いであると言えます。
イギリス以外の西洋諸国の場合、中世以来の考え方として領地の規模を問わず領主は「貴族」でした。ですので爵位を持っていなくとも騎士や小規模な領主も貴族として扱われました。そして貴族と貴族の間に生まれた子供は自動的に貴族として扱われていましたので、近世以降に領主権を失っていたり、爵位を保持していなくても元領主だった家は貴族であり続けましたし、ドイツのように中央集権化が進まなかった地域では領主貴族として近代まで残り続けました。ユンカーと呼ばれる下級貴族とかこの類ですね。また、国によっては特定の集団を貴族に指定しても爵位制度を設けなかった国もありますので、そうした国では当然爵位を持たない貴族しか存在しませんでした。
このように、歴史上の西洋貴族には爵位を持たない貴族が多数いました。創作で西洋風の貴族制度を使う場合、このあたりも気にすると作中での貴族の地位や爵位の価値を調整できるかなと思います。貴族の人口というのは少ない国で総人口の二%程度、多い国では十%程度だったと言われています。貴族人口の多さと貴族の特権の強さが反比例したわけではないですが、それでも数が多ければ貴族という立場の価値は低くなりがちでした。また、地位や財産の相続制度によっても貴族の価値は大きく影響を受け、特に爵位貴族の数を絞っていたイギリスとその他の西洋諸国では時代を重ねると大きな差がつくようになっていました。大雑把な計算によるものではありますが、十八世紀末のイギリスの男爵の平均収入は同時代のフランスの公爵と同程度だったという話もあるくらいで、近代以前のイギリスには貧乏な爵位貴族はまず存在しませんでした。一方、他の西洋諸国では親の爵位を子供が自動的に継承できる国もあり、そのような国ではアパルタメント住まいの侯爵や狭い畑を自分で耕すしかない零細貴族といった没落貴族・貧乏貴族もしばし存在しました。
以上、西洋の貴族制度を簡単にまとめてみたのですが、創作において、貴族を強大な権力層という扱いにしたいのならばイギリスの貴族制度を、裕福な貴族から貧乏貴族まで幅のある職業としたいのならその他の西洋諸国の制度を参考にすると良いと思われます。爵位のない下級貴族の扱いについては、貴族制度が話の主題でないのであればWeb小説で一番多いのは五爵のみを使う設定なのですから、わかりやすいように五爵のみを使うのが良いと思います。散々爵位を持たない貴族が存在すると説明してきましたが、最初に書いた通り創作でも歴史上と同じようにするべきとは思っていませんので。逆に貴族制度にこだわるのであれば、准男爵・士爵・勲爵士などの五爵以外の称号を利用する、あるいは何らかの独自の呼称を作るのがわかりやすいと思います。なお創作でしばし使われる「辺境伯」については本来的には五爵とはまた別の制度の役職ですので、使わない方がわかりやすいと思っています。特に「辺境伯爵」なんて妙な使い方を見かけるとなんだそれは、となってしまいますし(辺境伯の「伯」はフランク王国の地方長官的な役職の「伯」であって伯爵の省略ではない)。
以下では上記のようにまとめるに至ったイギリスや他の西洋諸国の貴族制度についての細かいところを書いていますので興味のある方は読んでもらえればと思います。
〇イギリスの貴族制度について
イギリスでは国王から勅許状(特許状とも)を与えられた男爵以上の爵位貴族が「貴族」として扱われました。勅許状によって継承の条件が厳格に定められており、大半は男子しか継承できませんでした。「貴族」の男子は全員が貴族院への登院資格を持っており、その時代毎の貴族院の議席数=爵位貴族の人数であると考えて差し支えありませんでした。その数は時代を重ねる毎に増えてはいきましたが、そう言っても十八世紀末で三百人程度、十九世紀末で五百人程度でした。そしてこの人数の少なさもイギリスの「貴族」を他国と同じ貴族として扱えない一因でもあります。要旨の方で貴族人口について少し触れましたが、十八世紀末のイギリスの人口は一千万人程度だったと推測されており、三百人程度の人数ではたとえ実際には「貴族」ではないその家族を含めたとしても人口の一%にすらまったく届きません。同時代のフランスを見てみると、第二身分(貴族層)は総人口二千六百万人に対して二万家、約四十万人程度いたと言われており(もう少し少なめの説もありますが)、総人口に対して貴族が占める割合が約一・五%と平均程度の人数になります。三百人と四十万人、これだけの人数差があるものを同じ『貴族』だと扱うべきではないでしょう。こうした点を踏まえると実態としてのイギリス貴族は範囲をもっと拡大してとらえるべきだと考えます。とはいえその話の前に、まずはイギリスの爵位貴族の特徴について触れておこうと思います。
イギリス貴族の特徴としては、特権の少なさ、裕福さ、権力の担い手と言ったところが挙げられます。
特権の少なさは歴史の積み重ねによるところが大きいのですが(ノルマンコンクエスト後に国王から任命されたところからのスタート、権利の章典などの国王と貴族との権利を巡る争いの繰り返し、薔薇戦争のような内乱)、イギリス貴族は名誉に関する特権は持っていても、近世以降は領主権を持っていませんでしたし、ヨーロッパ大陸諸国の貴族とは違って免税特権なども持っていませんでした。本当に実利的な特権が何もないわけではないですが、貴族であっても平民から裁判に訴えられることがあるなど、平民身分と隔絶した存在であるとは言えませんでした。
特権の代わりにイギリス貴族の力の源泉となったのはその裕福さでした。そもそも貴族として認められるには広大な土地を保有する大地主であり、莫大な収入源があることが必要でした。財産が無ければそれを理由に相続が認められなかった事例もあります(ただし対象人物は落ち目の家系だったので名目に過ぎない可能性もありますが)。十九世紀あたりから財政が苦しい家は増えていたようですが、それでも近代以前のイギリスの爵位貴族には貧乏貴族は存在しなかった、と言って良いでしょう。イギリスの爵位貴族の名簿はそのまま同時代のイギリスの長者番付とイコールであるとも言えます。この裕福さの秘訣は限嗣相続と呼ばれる一人の相続人に地位とほぼ全ての財産を相続させる相続制度にありました。この相続制度により財産の分散を防ぎ、後継者さえ存在すれば確実に地位と財産が子孫に受け継がれていきました。なおこの限嗣相続は准男爵のような「貴族」ではない立場であっても世襲する地位の場合は適用されました。
その莫大な財産を生活の基盤としつつ、イギリス貴族は貴族院議員を含めいくつもの公職を無報酬で引き受け、国家運営に欠かせない権力の担い手となりました。特権の一環としての官職の独占ではなく、「ノブレス・オブリージュ」として面倒な役目を時に無報酬でも引き受ける、という形式をとったことは平民からの貴族に対する悪感情を防ぎ、現在までイギリスの貴族制度が残る一助となったとも言われています。
そして要旨にも書いた通りこの「貴族」の地位は爵位を持つ当主だけのものでした。当主が複数の爵位を持つ場合、嫡男などの相続人が低い爵位(従属爵位)の称号を名乗ることもありましたが、これはあくまでも儀礼称号であり、当人の地位は平民のままでした。一応、当主が健康上などの理由で登院できなくなった時のために法定相続人が従属爵位を相続し、貴族院に登院できるようにする制度もありましたが、これは例外的な存在でした。貴族の子供であっても爵位を継げないと平民になる、みたいな説明がされることもありますが、貴族か平民かという二分論で言えば、貴族の子供も平民として生まれて爵位を継げなければ平民のまま終わる、という方が正しい説明と言えます。しかし、貴族子弟が本当にただの平民であったかというとそんなことはなく、彼ら彼女らは「紳士淑女」という社交界の参加者であり、広義の貴族と言える存在でした。
詳しい「紳士淑女」の話に入る前に、まずは前提となるイギリスの社会階級の説明をしておきます。イギリスでは主に家長の地位や職業により所属する階級が決まり、大きく分けて三つの階級がありました。それが上流階級・中流階級・労働者階級の三つです。
上流階級は爵位貴族や准男爵、騎士爵、ジェントリといった地主層が該当し、不労所得で暮らせる富裕層でした。爵位貴族以外の三者の違いとしては所持している称号の違いやその世襲の可否といった点になります。とはいえ貴族としての特権こそ持たないものの一定以上の資産を持ち、時に公職に就くという点では「貴族」と同じような生活を送っており、同じ階級意識を持つのも当然の存在でした。上流階級の人口は総人口の一%程度でしたが、時代によっては上流階級だけでイングランドの過半数の土地を所有していました。
中流階級は商人(経営者)や、聖職者や学者、軍人(将校)、法律家、医師などの専門職が該当します。豪商や高位聖職者、高位軍人などの上位層はアッパーミドルクラス(上層中流階級)と呼ばれるなど、中流階級の中でも更に細分化されることもあります。中流階級全体の人数は総人口の三割程度でした。
労働者階級はそのままの意味で使用人や工場労働者、農民などになります。人数的には人口の七割程度を占めており、大半の国民はこの階級でした。貧困層なども暫定的にこの階級に含まれています。
この社会階級は法律で明確に決められているわけではなく、長年の慣習の積み重ねにより出来上がったものでした。そして所属する階級は決して固定ではなく、条件を満たせば階級を移動することができました。例えば労働者階級の使用人でも貯金を貯めて自分の店を開くことができれば中流階級の仲間入りを果たせましたし、中流階級の豪商は一定以上の土地を買ってジェントリの称号を手に入れることができれば上流階級に所属することができました(実際はもうちょっと条件が色々ありますが)。もちろん逆に転落することもあり、ジェントリも資格がないと見做されれば称号を剥奪されることもありましたし、資産を失って人を使う立場ではなくなれば中流階級から労働者階級へと転落しました。他にも、所属する階級は主に家長の地位や職業によって決まると書いた通り、例えば男爵令嬢は上流階級の所属になりますが、その令嬢が特に称号を持たないアッパーミドルクラスの裕福な商人と結婚した場合、アッパーミドルクラス(中流階級)に所属することになりました。
前提となる社会階級の説明をしたところで「紳士淑女」の説明に戻ると、前述の社会階級のうち、社交界を構成していた上流階級の人々と中流階級の一部のアッパーミドルクラスに所属する人々が「紳士淑女」と呼ばれる存在でした(学術的表現に寄せるとジェントルマン/ジェントルウーマンという呼び方になるようですがジェントリと紛らわしいですし、本稿はただのエッセイなので「紳士淑女」という言葉を充てることにします)。
イギリスの社交界は法律上の「貴族」だけのものではなく、先の社会階級の説明のところで少し触れた准男爵や騎士爵、ジェントリといった地主とその家族、さらには一部のアッパーミドルクラスたちも参加する場でした。イギリスの社交界は創作の「貴族社会」と同じくお茶会や夜会が繰り広げられる場であり、社交デビューのイベントとしてデビュタントもありましたが、これらすべてがそうでした。こうしたイギリス社交界の実情と、詳しくは後述しますが他の西洋諸国では騎士爵やジェントリに相当する人々も貴族として扱われており、さらに「紳士淑女」に求められた規範意識や礼儀作法も西洋諸国の貴族とほぼ同様のものだったことを踏まえると、この「紳士淑女」という言葉は一般的にイメージされるところの『貴族』という言葉の言い換えのようなものであると解するべきだと考えます。つまり、准男爵や騎士爵、ジェントリ、あるいは爵位貴族の妻子は法律上は「貴族」ではありませんでしたが、「紳士淑女」と呼ばれる実質的には貴族であった、ということです。しかもこの「紳士淑女」の対象範囲は法律に依ったものではないこともあって変化することがあり、時代と共に新興してきた層を「紳士的な職業」として取り込むことが可能でした。こうした流動性は従来の社会制度の維持に寄与し、かつイギリスの貴族制に対する反発の緩衝材になったと目されています。
なお日本語版のWikipediaなどには「準貴族」という項目がありジェントリなどを貴族と庶民の間に位置する階層として説明していますが、この記事には出典が見当たりませんし、いくつか英国貴族関係の書籍を読みましたが特にこの言葉を見かけたことはありませんので独自研究の類なのでは?と考えています。いやまあこのエッセイも独自研究の類ではあるのですが。
爵位を継げなかった爵位貴族の次男三男(「ヤンガーサン」と呼ばれる存在)は平民になる、と言われますが、これらのヤンガーサンの成人後を見てみると、資産があればジェントリになることもありましたし、親のコネを使ったり、長男のスペアとして同等の教育は施されていましたのでそれを活かして聖職者や法律家、軍人となることでアッパーミドルクラスの範囲に留まることも多々ありました。つまり、ヤンガーサンであっても「紳士」として社交界に留まり、実質的には貴族(に近い存在)であり続けることもできました。もちろん、他の道に進んで平民になる場合も多かったようですが。
長くなってきたのでこの辺でイギリスの貴族制度についてまとめると、イギリスでは法律で「貴族」の条件が定められているもののその範囲は極めて狭く、「紳士淑女」と呼ばれる人々が一般的な意味での貴族と呼ばれる存在でした。数少ないイギリスの爵位貴族は特権が少ない代わりに徹底した限嗣相続により財産の分散を防ぎ、他国の貴族よりも裕福であり、多くの公職を担うことで国家運営に深く関わっていました。
創作上の西洋風貴族制度はイギリスの貴族制度を参考にしている部分が多々見受けられますが(爵位貴族のみを貴族とする点など)、実際のイギリスの貴族制度は社会階級という枠組みや、その枠組みを超えて柔軟に現実に対応できる「紳士淑女」という概念があってこそ成立できていた、という点はしっかり認識しておくべきでしょう。
〇ヨーロッパ大陸の西洋諸国の貴族制度について
ヨーロッパ大陸の西洋諸国の貴族制度は当然国によって違いがありましたが、ある程度の共通項というか共通認識も存在し、貴族と認められる人々は以下のどれか、あるいは複数の条件を満たしていました。詳しくは個別に見ていきますが、爵位は貴族であるための必要条件ではなく、爵位を持たない貴族が大量にいました。
①貴族と貴族の間に生まれた子は貴族
一般的な感覚にも合致すると思いますが、貴族同士の夫婦の間に生まれた子供は自動的に貴族として認められました。貴族と平民の間にできた子供の場合でも父親が貴族あり、かつ認知されれば貴族として認められました。しかも国によっては親の爵位を兄弟全員が自動的に名乗ることができました。貴族令嬢も爵位を相続できるかどうかは国や地方毎の継承制度によって違いがありましたが、夫人や令嬢もイギリスの法律上の扱いと違って貴族として認められていたのは確実でした(そうじゃないと貴族同士の夫婦というのが滅多に成立しないので)。そしてこの原則により爵位の有無に関係なく一度当主が貴族だと見做されればその子孫も当然貴族と見做され続けていきました(一代限りの貴族の場合は除く)。
②領主である
中世以降の基本的な考え方として、領主であれば貴族でした。ですので中世の爵位貴族たちは土地を領有しているからこそ爵位を名乗ることができました(例外もありますが)。近世以降に国家の中央集権化が進むと領主たちの領主権は国家に取り上げられて大地主へと変わっていきましたが、貴族としての身分はそのままであり、国家(国王)から認められれば爵位もそのまま引き継いでいました。また、諸侯たちによって軍役のために各地に領地を与えられた騎士たちも領主である以上は爵位がなくとも貴族であり、こちらも近世以降も貴族であり続けました。特にハンガリーやスペインなど異教徒との最前線だった地域では領主として任命された騎士の数が多く、それにより他国より人口に占める貴族の割合が多くなっていました(フランスの貴族人口が総人口の二%程度に対してこれらの国では五~十%)。中央集権化が進まなかったドイツなどではこういった領主貴族層が近代まで残り続けました。ユンカーと呼ばれる最下級の貴族とかもこの類ですね。こうした騎士階級=小領主由来の貴族は爵位を持っていることは少なく、前述のユンカーも「フォン」の称号は氏名に入っていても爵位は持っていませんでした。こうした事例からも貴族であることと爵位の有無が無関係であることを確認できます。なおイギリスのジェントリなどの上流階級の非爵位貴族も地位の由来としてはこの小領主層になります。
③官職に就いている
多くの西洋諸国では近世以降、官職と貴族位が結び付き、国の官職に就くことで貴族になることができました。しばしこの地位は金銭で売買され、多くの新興貴族が誕生しました。制度としては非世襲の一代貴族であることが多かったですが、財産やコネにより実質的には世襲化していきました。
また職と地位が直結する別のパターンとして共和国貴族が挙げられます。イタリアのヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国では議会の議員の家系を貴族と定めており、議員職は世襲でしたので議員の家に生まれれば貴族となることができました。こうした共和国には爵位制度はなく、全員がただの貴族でした。もちろん爵位がないからといって貴族内に序列がなかったわけではなく、役職や家の権勢によってその時々の勢力図が形成され、貴族の中でも貧富の差がありました。
④貴族らしい生活を送っている
貴族らしい生活とは何か、というのは難しいところなのですが、自分で直接何かを行うのではなく、人を差配して何かを行わせるのは貴族らしさの一つと考えられていました。前々項の領主が貴族として認識されていたのも人を支配する立場だったからですね。逆に貴族らしくない生活としては、まず生活のために働くということ自体が貴族らしくないとされており、畑を耕すことや調理場・洗濯場に立つことは貴族のすることではないとされていました。そしてこれはイギリスの紳士淑女の規範でも同じでした。また貴族が商売を行うことも貴族らしくないこととされており、国によっては法律で強く規制されていました。ただ領主貴族の場合、税として納められた現物を売買することは認められていました。この辺は正直アウト・セーフの線引きがよくわからないところではあります。少し話が横道に逸れましたが、そういうわけで、例えば地方の裕福な家が地域の代表として活動を行ううちに名士として認められて周囲から貴族として扱われるようになる、なんてこともありました。ただしこれは数年間そういう活動をすれば、という話ではなく、世代単位で地位を保つうちにいくつかの節目もあって貴族として名を連ねる、という流れでしたので、そうなる前に官職を得るなど別の方法で貴族になることも多々ありました。
ほかにも類似の事例としては都市の有力者がしばし貴族と認められたことが挙げられます(都市貴族)。歴史上の有名どころだとメディチ家とかですね。創作上だと「ロミオとジュリエット」のモンタギュー家とキャピュレット家もモデルを考えると都市貴族でしょう。こういった貴族はその誕生に国が関わることが少ないのもあって爵位を持っていないことが多くありました。
以上、四つほど貴族と認められる条件を挙げました。③は国家から認証される必要があるとはいえ、①は生まれ、②④は事実関係が重視されるところがあり、貴族として認められるためには公的な認証が必須というわけではありませんでした。貴族を名乗るなら紋章は欠かせませんでしたし、古い家系図は伝統ある家であることの証明にもなりましたが、よりひと目でわかりやすいのは当人の礼儀作法や財産でもありました。貴族年鑑のようなものは存在しなかったのもあいまって貴族の詐称者が登場することもしばしありました。当然詐称が露見すれば罰が与えられましたが、金銭やコネによって官職に就くなどの公的な認証を得ることで詐称者が本当に貴族になることもあったようです。イギリスの場合、上流階級と認められるためには国家との関わりが必須でしたので国家と貴族との距離がイギリスと大陸の西洋諸国では少々違うということが見てとれます。
ここまで大陸の西洋諸国の貴族と見做される条件の話をしてきましたが、次に貴族制度の内実に目を向けてその特徴を端的に挙げると、人数が多い、同じ貴族でも貧富の格差がある、特権が手厚い、というあたりになります。
人数の多さの理由は色々ありますがやはり前述の①の条件は大きく、子供が爵位も自動的に名乗れる国では爵位の価値も下がりがちでした。また一度世襲貴族の地位に就くことができれば貴族の地位が失われることがまず無かったという理由もあります。先ほど貴族と認められる条件として④に貴族らしい生活を挙げましたが、一度貴族になってしまえばその後に没落して貴族らしい生活が送れなくなったとしても貴族の肩書や特権は残り続けました。ですので爵位と家の権勢は必ずしも一致せず、アパルタメント暮らしの侯爵もいれば豪華な邸宅を構えて悠々暮らす伯爵もいました。人数の少ないイギリスの爵位貴族は爵位と財産がほぼ比例していましたが、他の西洋諸国の爵位貴族はその人数が多い分だけその財力は様々でした。
貴族の間に貧富の格差が生まれたのは、婚姻などを通じて上手く勢力を広げる貴族がいた一方で、代を重ねる毎に相続制度が原因で財産を減らしていく貴族も多くいたからです。大陸の西洋諸国では分割相続の習慣が根強く、そうした制度を採用している地域では、兄弟その他での分割相続により代を重ねる毎に家の資産が目減りしていきました。イギリスと同じような長子相続制度が採用されることもありましたが、その場合でも長男の取り分は三割~七割程度であり、九割以上の相続が約束されたイギリスの制度と比べると財産保持の確実性に欠けました。資産の分散を防ぐために、「貴族の相続」と呼ばれる長男以外の子供は結婚させない習慣もありましたが、常にうまくいくとは限りませんでした(結婚させないことで一度資産が弟妹に分散してもまた本家に戻ってくる)。余談として、貴族といえば政略結婚のイメージがありますが、持参金を惜しんで娘は結婚させなかったり、一族同士で結婚させることで財産の散逸を防ぐこともあったようです。しかし婚姻で一族を拡大させない場合、爵位の継承問題が起きた時に助力してくれる親族を欠くことにも繋がり、婚姻が貴族にとって一大事であることは間違いありませんでした。
中世の貴族の主な収入源だった各種徴税権と引き換えに貴族に与えられたのが免税特権をはじめとした種々の特権でした。国家による領主権の回収は地域別に段階的に進展することが多く、個々の貴族に与えられている特権は必ずしも同じものであるとは限りませんでした。また、特権に関して補足すると、免税特権のような一部の特権は貴族以外に対しても付与されることがあり、名誉的な特権も含めて言えば特権を持たない貴族はいませんでしたが、同時に何かしらの特権を持っているからといって貴族であるとは限りませんでした。その他に特権化したものとして、近世以降に貴族位と役職が結びつく中で、貴族しか就くことのできない役職が設けられるようになり、そうした役職は貴族の生活を支えるために高給に設定されがちでした。義務として公職に就いたイギリス貴族に対して、大陸諸国の貴族は特権として公職の地位とそれに伴う役割を独占していたと言えます。こうした様々な特権は庶民の怒りを買う原因ともなり、革命と一連の改革の中で貴族制度とその特権がすべてが吹き飛ぶことにも繋がりました。
またも長くなってきましたのでこの辺でまとめると、大陸の西洋諸国では貴族の家に生まれれば貴族と認められるなど「貴族」の範囲がイギリスより広いものでした。それだけでなく、騎士を含めた領主層が貴族と見做されたという点では一般のイメージよりも対象範囲が広いと言えます。しかしその分だけ貴族の層も幅広く、裕福な貴族から貧乏貴族まで様々な貴族が存在しました。この点では一般イメージの貴族に近いと言えます。
国家の中央集権化が進むと貴族の収入源は自領の収入から様々な特権がもたらす利益と自身が務める役職の報酬へと切り替わっていきました。全体としてみると世代を経る毎に財産を減らしていく貴族家が多くあり、家を存続させるために特権に頼りきり、悪く言えば国家に寄生して存続する貴族家が多数ありました。このため、フランス革命とその余波によって各種の特権が廃止されるとそれに伴って貴族制度も姿を消していきました。
以上、大陸諸国の貴族制度についてあれこれ書いてみました。イギリスの貴族制度と似ているところ、似ていないところ、色々あったかなと思います。特に、貴族であるにも関わらず爵位を持たない貴族が大勢いるという点ではイギリスの法律上の貴族制度とも、一般イメージの貴族ともかなり違うところかなと思います。ヨーロッパ大陸の国ではないので触れなかったのですが、近代以降の話としてアメリカの富豪たちもイギリスや他の西洋諸国の社交界に参加して貴族と同様に扱われており、これもある種の爵位を持たない貴族だと言うこともできるかなと思います。
要旨のところでも書きましたが、このような爵位を持たない貴族たちについては、創作でとりあえず昔の西洋風の世界にしたい、というだけであれば存在を無視してしまった方がわかりやすいと思います。けれども西洋風の貴族社会をしっかり描きたいと思うのであれば意識した方がわかる人からは好印象でしょうし、登場する貴族の家格の幅を広げられるのではないでしょうか。例えば、五爵の中で一番下位ということで木っ端貴族の男爵というのが創作ではしばし登場しますが、実際の西洋諸国には男爵よりもっと狭い領地しか持たない無爵位の貴族が多数いましたし、イギリスの男爵の場合は国内の資産格付けで見て三桁には確実に入る存在だったわけでとても木っ端貴族と言える存在ではありませんでした。この点を踏まえると、小貴族だからってとりあえず男爵にしておけば良いというものではないのではないかなと思います。
大分と長くあれこれと書いた上に要旨を最初に書いてしまったせいで最後に何を書いたものかなというところではありますが、再度書いておくと、創作の多くが架空の世界が舞台ですから、その世界毎に自由に貴族制度を設定して構わないと思っています。とはいえ実際のところ完全に独自設定の形を取ることは稀で、歴史上の制度を参考にしつつ作りあげていることがほとんどかなと思います。ですので、その設定を考える際にこの文章が何かしらの参考になることがあれば幸いです。