傀儡(こんとらくと・きりんぐ)
ある由緒ある暗殺一族が当主就任の儀式を行うことになり、ショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋にも儀式への案内が来た。出席に丸をして、返送した。
贄――というのが一族の名だが――その一族は山と海に囲まれた古い町に住んでいて、自動車で通れる道がえげつない料金設定をしている県の有料道路しかなかった。出席に返送したら、汽車の往復切符が届いたので、殺し屋は涙色のクーペは車庫に入れたまま、汽車の車輪に身をゆだねた。
同じような案内が広くまわっていたらしく、殺し屋の乗った車両には同業者が多くいた。人殺しの幟を出しているわけではないが、よく知っている顔、多少覚えている顔、たぶんそうだと思う顔がミカンを食べたり、陶器に入ったお茶を飲んだり、車窓の景色を楽しんだり(と言っても、汽車は深い森と石垣に挟まれた切り通しを走っていた)、推理小説を読んだりして、退屈をまぎらわせていた。
殺し屋はと言うと、今度、当主になる贄アキトのことを思い出していた。五年前、臨時教師を務めたときに十二歳だったから、現在、十七歳、贄の一族を背負って立つには若すぎる気がしたが、五年前の時点で殺し屋よりもしっかりしていて、威厳があった。それに暗殺者としては八歳で完成されていたから、指導者としては知らないが、暗殺者としては問題ないはずだった。
殺し屋が尼宮を立ち去るとき、深々と頭を下げて見送ったアキトにとって五年は非常に変化に富んだものであっただろうな、と殺し屋は考えた。殺し屋自身はというと、殺して報酬を受け取っての繰り返しでうかうかしていると記憶のなかでターゲットと依頼人の顔が逆転してしまいそうになるくらい変化のない五年だった。
汽車が森を抜けると、山の中腹へと抜けて、尼宮が見えてきた。山と海に囲まれた小さな平地に塗屋造りの家店が集まった、汽車の窓からひと目で収められる小さな町だった。目立つのは木の多いことだった。水の都が水濠や水路をめぐらせて街を切るとしたら、尼宮は木立や林が町を切った。屋根や時計塔、丹塗りの鳥居は沈没船から投げ出された荷物や人間のように、緑の海でバラバラに浮いていて、尼宮のなかに木立があるというよりは、森のなかに尼宮があると言ったほうが正しかった。
「おい、あれが贄の家だ」
窓に集まった殺し屋の誰かが言った。贄一族の屋敷は町の中央にあり、四方を木に囲まれていた。母屋と離れと蔵があり、木は敷地にも入り込んでいた。その林には殺し屋がアキトにナイフ投げの訓練をしたときに刺さったナイフの痕が残っていることだろう。
汽車は山肌を弧を描きながら下っていき、尼宮の東の鉄道駅に着いた。スレートを葺いた屋根とガラス窓のある部屋があるだけの単線駅だ。
外に出ると、木立のなかから暑気と蝉のやかましい声がまとわりつき、殺し屋たちは大声を出さなければ、お互い何を言っているのか分からなくなっていた。駅の左、土蔵造りの人力車事務所から艶々した人力車が走ってきて、殺し屋のひとりを乗せた。贄家が既に手配済みで、人力車が次々と殺し屋たちをさらっていくなか、ショートヘアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋が最後に人力車に乗せられた。
染み出した汗で光る車夫の背中以外に眺められるのは楡や松の木立ばかりでときどき商店街に入ることもあるが、吊り下げランプを売り並べる荒物屋や両替商時代の看板をまだ掲げている銀行など、近代化を踏み外して大いに遅れてしまった様子が目についた。通行人は少ない。暑いのもあるが、見かけるのは老人ばかりで、たまに見る若者も影が薄く、蒲柳の質のありそうな貴公子然としたものばかりだった。
押し包む森の風音。人力車はときどき瀬音をまたいで、森のあいだにつけられた小道を走った。柳が髪をかすめて、さらさらという余韻を耳のなかに残した(殺し屋の喪服は外見の想定年齢から学生服だった)。
人力車が一台ずつ、あるいは二台ずつ、〈大根屋〉〈美作屋〉と書かれた角灯を吊るした宿屋へと曲がっていった。車夫の背中と楡と松に飽きたショートヘアの少女、あるいは長髪の少年に殺し屋は自分の宿はどんなところだろうとぼんやり考えていたが、殺し屋の俥だけはなかなか止まらず、ついには贄家の門前までやってきてしまった。
母屋から少女がやってきた。紺のセーラー服姿なので女中ではない。だが、以前来たときにはいなかった。一族の人間かと思ったが、少女は殺し屋の荷物を持って行ってしまったので、殺し屋もそれについていき、離れの二階をあてがわれた。
「どうして、ぼくはここに?」
机の灰皿の近くにマッチ箱と煙草を放りながらたずねた。
「アキトさんがそうするようにと」
「アキトはまだ籠ってるの?」
「明日のお披露目までは」
「うん。分かった。挨拶は明日にしようかな」
下男は荷物を置いて、帰るとき、殺し屋に行った。
「あなたがお見えになるとわかって、アキトさんは大変喜んだんですよ」
風と影のめぐりを計算したつくりの離れはとても涼しく、ときどき団扇を一枚ひとそよぎ、ふたそよぎすれば、それだけで過ごせた。ただ、することがなく、日が暮れるにつれて、暗がりが増していく森を見る。ひとりで出かけたら、迷子になるだろうと思いながら、縁側の欄干にもたれ、姿の見えぬ日暮らしの声に紫煙を吹きかけた。丸めた上着を枕にして横になる。黄昏に切り抜かれた森の影がほつれていく残照に溶けあうのが寂しい。スイッチを押して電灯をつけると、夕闇が押し出されて、縁側にしがみついた。残照はまだ華やかな紫色だ。
下男があらわれ、アキトが話したがっているという。籠っていなければいけないはずだが、別に外の人間と話すことは禁じられていない。家の人間は籠りに集中できるようにと黙っていたが、なぜかアキトは殺し屋がやってきたことを知ったのだ。
アキトが籠る部屋は母屋の裏手の井戸だった。
「若さま。先生さまをお連れしましたよ」
深い場所から声が響いてきた。地獄ほど深くないが、地獄ほど遠くない。
「ありがとう。下がってくれていい」
青銅の枠をはめた井戸の底に弟子がいる。声変わりしたので、覚えていたよりもずっと低かった。
「就任おめでとう」
「ありがとう。先生」
「五年前は小さかったのにね」
「今なら身長は先生よりも高いぞ」
「別に身長で人が殺せるわけじゃない」
井戸の底から軽快な笑いがきこえてきた。
「また、会えて嬉しい。いまは声しかきこえないが、会えるのを楽しみにしていた」
「うん。ぼくも楽しみにしていたし、あの女の子もきみが楽しみにしていたと言っていたよ」
すると、井戸が沈黙し、小さなため息が響いてきた。
「先生は見えるのか?」
「見えるって言うと、――きみはあの子を?」
「ああ、殺した。一か月前に。ただ、おれには見えない。他の人間は見えるらしい」
「野暮なことをきくけど、なんで?」
「仕事を見られた」
「殺されたにしては怒っていなかったようだけど」
「いずれ祟り殺すハラだろう。幽的はうすら笑っている類が一番怖い」
「きみがどういう表情でそれを言っているのか、見えないのがなんともね」
「見えては困る。おれは籠っている最中だ」
「では、そろそろ退散するよ。明日の襲名を楽しみにしてるよ」
「ああ。先生。あなたの弟子の晴れ舞台だ」
贄一族の当主の襲名は一族と招待された殺し屋たちの前で暗殺を行う。準備は入念に行われ、アキトのように両親が既にない場合は、一族の有力者や腕のある殺し屋の手を借りて、死んで当然の悪党を見積もって、連れてくる。
広い座敷の中央で払われた布の下から出てきたのは鉄道大臣の蒼白く肥満した腹だった。疑獄事件で身動きが取れなくなり、次官たちが逮捕されるなか、大臣は姿を消したので、高飛びしたにちがいないと新聞が書いていたが、実際はアキトに儀式に使う供物として捕らわれたのだ。
アキトは横たわる汚職大臣の横に立っている。白いシャツに紺のズボンの平服で贄の家に伝わる短刀を逆手に持ち、あわれなターゲットを見下ろしている。大臣は浅葱の帷子一枚、縛り上げられ、猿轡をかまされているが、薬で意識を奪うことはされなかったので、激しく呻きながら、身をよじっていた。アキトの目と短刀に気づいたときは足掻きはさらにひどくなり、目を見開いた。
どうやらここで見えているのはショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋だけらしい。短刀を握るアキトの手に、あの少女がそっと手を添えている。少女が少し力をくわえただけで、刃はバターを刺すみたいにスルスルと肥った腹のなかに差し込まれ、少女がアキトの手の甲を撫でると、刃は下腹から、肋骨などないかのごとく喉へと裂いた。そのあいだ、大臣は生きていて、自分の喉ぼとけがえぐり出されるのを見るまで死ねなかった。
沐浴で返り血を流してきたアキトにきいたら、自分が殺した自覚が持てないと言っていた。まるで何者かが手をふれて、あの大臣を殺させたみたいに思えた。
「あの少女、大臣に関係あるのかい?」
「娘だ」
「じゃあ、ぼくは少女が父親殺しをきみの体を使って成し遂げたのを見たことになる」
「申し訳ないが、話せない」
「もちろんきかないよ。この仕事やっていると、こういうことはつきものだし」
「それより、先生。何か予定があるのか?」
「特にないけど、なんで?」
「よければ、もう少しここに滞在してくれないだろうか?」
「構わないよ。医者に働き過ぎだから、休養しろって言われたところだ。政治三件、軍事八件、財閥十三件。この一年、馬車馬みたいに働いたからね」
「いつか、おれも追いつくぞ。先生」
「楽しみに待ってるよ、愛弟子くん」
アキトはその後、眠ってしまった。離れに戻ると、少女が待っていた。生きている少女とするような会話はしたが、さすがに父親を裂いた感想をきくほど野暮ではなかった。とはいえ、好奇心もあって、突っ込んだ話に水を向けようかと思ったことが何度かあった。だが、こうして気の置けない話をする顔とアキトの手に指を添えて、自分の父親を切り裂かせた顔にまったく変化がないのは気味が悪く、少女のまわりは手を触れたら、割れてしまい、もとには戻れない細胞膜に守られているような気がした。
次の日、女中の作る朝食をとった後、アキトは町の外れにある城跡を案内したいと言ってきた。五年前に来たときは明確な任務があり、たまの散歩の他に、あまり市内を見てまわるようなことはしなかったが、今回の逗留は夏休みのようなものだ。アキトの誘いに乗るのもいいだろうと、殺し屋は誘いに乗った。
城跡は町の東の丘にあった。森を抜けた先、いまは苔にまみれた石垣の上に団子屋とねじれ松があるだけの場所だが、高台にあって景色がよかった。少女はついてこなかった。殺し屋とアキトを送り出して振る手がまぶしく白かった。
石垣の最上まで来ると、年寄りと孫らしい子どもがふたり、団子屋の露台に座って、みたらしを食べている。他にも若い男女連れなど人はいて、北西に開けた大海にさまよう釣り船を指で差していた。遠海には青い陰を差した入道雲がくっきりと盛り上がっている。サトウキビでも取れそうなくらい見事な夏の景色だが、潮風が足元の森をざわめかせていた。
ふたりで石垣の縁に立つと、眼下には汽車の窓からの一望とはまた違った尼宮が広がっていた。瓦のきらめきが、葉の群れを照り返し、薬屋の自動車が古い屋敷のある町でラッパを鳴らしている。竹林に隠れた古井戸の底で怪異が夜を待ち、閉じた洋館の窓から赤い服の女がこちらを見ていた。
「贄の一族も嫡系はおれだけになってしまった。まさか父母が一度に亡くなるとはな」
「きみは才能があるんだから、大いに家名を盛り上げればいいさ」
「あの少女は?」
「きみの儀式を手伝うくらいだから、すぐに祟り殺すつもりもないのだろう」
「殺した少女と見えない同居とは、奇態なことだ。これまで贄は何百人と屠ってきたのに、なぜ彼女だけがあらわれたのだろう」
「幽霊の考えることは分からない」
「先生はあるのか?」
「人並みには。でも、こっちに何にも害を及ぼせないと分かると、睨みながら消えていく。幽霊というのはこちらが思ったよりも融通が利かないらしい。ぼくのまわりでぐずぐずするよりはとっとと成仏するほうが得だと思ったのだろう。もっともぼくが殺した人間で無事成仏できそうなものは少ない。気になるなら、除霊でもしてもらうか?」
「それはしない。自分の業から逃げるようで悔しい」
次の日の朝、目覚めて、服を着替えると、アキトのいない席で朝食が出た。女中にきくと、浜へ泳ぎに出ているという。離れに戻ると、少女がいた。
「浜辺に行きましょう」
「うん。ぼくも行こうかと思ったところだ」
贄の屋敷の裏手に海までつながる細い道があり、川沿いに柳の葉の隧道をくぐると、まばゆい白砂の海が広がった。見ると、少し沖をアキトが古式の泳法を試している。殺し屋が砂に腰を下ろすと、少女も隣に座った。
「ああ、空が青くて、身が消えてしまいそうです」
「きみはなぜ贄に残るのかな?」
「アキトさまをお慕い申し上げているからです」
「うん」
「父は――ひどい男でございました。父はわたしを娘ではなく、愛人にするようなことをしたのでございます。だから、父をさらうアキトさまを見たとき、わたしはひと目で、この方と離れたくない、この方に殺されて、この方の記憶に残りたいと思ったのです」
「あー、それは、また。なんというか――」
「つらいこともありました。でも、いま、わたしは幸せです」
「そうかい」
「でも、ひとつだけ」
そう言って、幽霊は殺し屋のほうを見た。目が切なげに潤み、殺し屋が横を向くと、少女はすぐ視線を外した。
「アキトさまはあなたをお慕いしているのです」
「ぼくを?」
「はい。師弟ではなく、もっともっとお慕いしているのです」
先生!と沖から声がした。
「先生も泳がないか?」
少女は消えていた。
入り江の端から端まで、ずいぶん泳いで、砂がまとわりつくのも知らずにふたりで仰向けに寝ると肩で息をしながら、アキトが言った。
「つらいな」
「うん」
「ああ、つらい」
「うん」
「先生」
「うん」
「おれを殺してくれないか」
「うん」
「冗談だ」
「うん」
その夜、アキトは自殺した。
贄の分家や名高い殺し屋たちがまた屋敷に集まって、大騒ぎになった。
結局、由緒ある贄の血を絶やしてはならないということで、従兄に当たるものが生前アキトが養子にしたことにして、当主となり、それで収めることが一族の会議で決まった。そのあいだ、ショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見える殺し屋はしばらく事情聴取に残されて、痛くもない腹を探られた。
殺し屋が自殺したアキトを見かけて、すぐ立ち去らなかったのは、それをすれば、殺し屋がアキトを殺し、逃走したと疑われるからだった。それはあながち外れではなく、何度も話したいことがあるのではないかともったいぶった口調できかれた。
殺し屋はアキトが好きだったが、贄の一族は嫌いだった。
それともうひとつ、殺し屋には確かめておきたいことがあった。
屋敷を出て、門をふりかえる。
そこには殺し屋に別れの手をふるアキトがいて、その手に少女の手が添えられていた。アキトの眼には光がなく、表情がなかった。
首筋を伝い落ちる汗に塩気がない。蝉の声が耳に直接ひっかかって、まとわりつく。
短刀で自分の首を切り裂くアキトの手に、少女の白い手が添えられ、アキトの指にからみつく蝋のように白い指。
――傀儡。