カルダモン・コーヒー
秋の歴史2023参加作品です。
テーマは『食事』。カルダモンの歴史にかこつけた短編です。
【登場人物】
ベン・ジャムス
セイラ 新人メイド
ヒース ベンの友人
自宅の台所に降りてきたベン・ジャムスは、思っていたのと違う人物を見つけて首をかしげた。
「コッド夫人、カルダモンはあるかな……君は?」
よくあるこげ茶色の髪は肩につかない長さで、前髪は切りそろえている。瞳はヘーゼルナッツのような淡い薄茶、活発というよりは年齢の割に落ち着いた印象を与えるメイドがそこにいた。
(陶磁器の人形みたいだ……)
ベンはそんな感想を抱いた。整った顔立ちなせいか、どこか人形ぽさを漂わせたメイドは、母がコレクションしているリヤドロの人形が、そのまま人間になったようだ。
ふっくらした頬は初々しさを感じさせ、やわらかそうな唇はふるりとみずみずしい。
きちんとエプロンをつけているからには、ここで働く使用人だろうが、主人であるはずのベンはその顔に見覚えがない。
そして台所の主ともいえる家政婦、コッド夫人の姿もどこにも見当たらない。
人形のような整った顔立ちの娘は、背筋をすっと伸ばしてエプロンをつまみ腰を落とす。ベンが主人だということは知っているらしく、彼女の赤い唇が動いた。
「セイラと申します、ご主人様。もうお茶の時間でございますが、おはようございます。コッド夫人はひとり暮らしの叔母様が馬車の事故でケガをされたそうで、しばらく休暇をとり郷里に向かいました」
「それは大変だ」
ベンが驚いていると、セイラはよどみなく言葉を続ける。
「私は先週こちらのお屋敷に、ハウスメイドとして雇っていただいたばかりですが……そのためしばらくの間、台所も任されることになりました」
「そうか……知らなかったな」
「ご主人様は旅行中でしたから」
顔も知らぬメイドなど不審人物極まりないが、セイラの説明は完璧で疑問をはさむ余地もない。
ベン・ジャムスは二ヵ月ほど留守にしていて、チェルシーにあるこの家に戻ったのはつい二日前だ。そのときも帰ってきてすぐ内務省に出向き、なおかつ昨日はパブリックスクール時代の悪友ヒースとハメを外した。
新しく雇い入れたメイドの顔など見る時間はなかったのである。
もう既に台所には慣れているのか、セイラはためらう素振りもなくスパイスラックから、カルダモンのホールが入ったガラス瓶を取りだす。
「どうぞ」
「ありがとう」
カルダモンは胡椒とも相性がよく、肉や魚の臭みをとるために古くからヨーロッパでも人気があるスパイスだ。
インド辺りが原産のスパイスが持ちこまれたのは、北欧のバイキングがトルコから戦利品として持ち帰ったのが由来とされていて、パンやお菓子の香りづけにも使われてきた。
朝になり酒は抜けたが口の中に粘りを感じる。ベンはカルダモンを摘むと皮をむき、出てきた小粒の種を口に放りこんだ。
かめば清涼感のある爽やかな甘い香りが口に広がるが、カルダモンは独特の苦味がある。なんとも形容しがたい表情になったベンを、セイラはじっと見つめた。
「カルダモンは二日酔いの気つけなのですね」
「そうだ。きみもコッド夫人みたいにお説教かい?」
ベンは皮肉っぽく口の端を持ちあげたが、彼女は小言をいうでもなく首をかしげただけだ。
「よろしければカルダモン・コーヒーをお淹れしましょうか」
「カルダモン・コーヒー……カフワか?」
カフワと呼ばれるアラビアコーヒーにはカルダモンやクローブ、ショウガなどを入れる。灼熱というべき太陽にさらされる土地では、発汗作用のあるカルダモンを摂ることで汗をかき体を冷ますのだ。
セイラは首を振り、ベンが返して寄越した瓶から、数粒のホールを取りだしポットにいれた。
「もっと手軽なものですよ。カルダモンを入れたお湯で、コーヒーをドリップします」
「ほう」
そのまま2人で湯が沸くのを待つ感じになる。
セイラは戸棚からカップやコーヒーミルを取りだし、スプーンで量った豆をミルにセットして取っ手をくるくると回す。
あたりにふわりと漂うコーヒーのいい香りを堪能していると、セイラは困ったようにベンの顔を見上げた。
「あの、書斎までお持ちしますから」
台所などに家の主人が長時間居るものではないと言いたいのだろう。
「それじゃ書斎に運んでくれ」
「かしこまりました」
書斎の椅子に座れば、まだ荷ほどきの済んでいない旅行鞄が目にはいる。
極秘任務を終えたベンは内務省に報告を済ませ、ヒースとも祝杯をあげた。仕事の内容は満足のいくものだったが、まだひとつ報告していない案件があった。
これは専門家の意見を仰ぎ、さらに調査を重ねることになりそうだ。偶然手にいれた重要書類だが、まず誰に見せるかも慎重に決めなければならない……思案していると書斎のドアがノックされた。
「ポリッジがいいかとも思いましたが、ご主人様の受け答えがしっかりしておられましたので、きちんと朝食を摂られるべきかと。コッド夫人からレシピ帳をお預かりしています」
ワゴンにコーヒーポットと朝食を載せて入ってきたセイラは、片づいていない書斎を無表情に見回した。
「ああ、じゃあそこに置いてくれ」
「失礼いたします」
書類のあるデスクは避け小机に置かせ、そちらに移動して目をみはる。
コーヒーとともに準備したのだろうが、温かい食事がでてくるとは思わなかった。
「ご朝食を終えられましたら、ベルを鳴らしてお呼びください」
「ああ」
メイドはかぐわしいコーヒーをカップに注ぐとデスクの脇を通り、礼儀正しく一礼して退室したが、もうペンはそちらを見ていなかった。
ワンプレートで用意されたのは、ジャガイモのクランペットに、塩気が強いガモンのスライスと目玉焼き、さらには焼きトマトが載せられたフルブレクファストだ。
コッド夫人だったら否応なく味気ないポリッジがでてきたろう……ベンはくすりと笑い、ナプキンを取りあげた。
飲んだ翌日はハッシュポテトだと胃にずしりと重たく感じるが、ミルクで練って焼いたクランペットはやわらかく、マスタードとメープルシロップを塗ったガモンは、かみしめると肉のふくよかなうま味が滲みだす。
焼きトマトは火を通したぶん酸味が抜け、しっかりとした自然な甘さが舌に心地よい。
食欲はそれほどなかったのに完食してしまい、ベンは満足してセイラの淹れたカルダモン・コーヒーを口に運ぶ。甘さと清涼感がある香りは、いつものコーヒーの味を格段に引き上げていた。
「なんともぜいたくな気分になるな。これはいい」
料理自慢のコッド夫人のレシピを、あのセイラというメイドはきちんと読んだらしい。そのうえカルダモン・コーヒーとは……スパイスにも詳しそうだし、毎日の食事が楽しみになる。
まずは満足のいく朝食を用意した機転をほめてやらねば……そんなことを考えつつ、ベンはベルを鳴らした。
ベンの母ジャムス夫人や執事のウェーバーもでかけており、コッド夫人だけでなく家中の者がその日留守にしており、ベルはひと気のないジャムス邸に鳴り響いた。
だがいくらベルを鳴らしても、それに応えてセイラは現れなかった。
「それでこれが問題のカルダモン・コーヒーか」
昨夜会ったばかりのヒースが、すっかり冷めてしまったコーヒーをカップに注ぐ。
「ふむ、なるほどうまい。きみは朝食に夢中だったのだろう?」
ヒースはカルダモンの風味に納得してから、悄然としたまま長椅子に座るベンを、憐れむように見おろした。
「台所ではバッチリ見たさ。髪はこげ茶で肩につかない程度の長さ、瞳はヘーゼルナッツのような淡い薄茶」
「瞳はともかく髪はカツラかもしれん。消えたのは持ち帰った重要書類だけか?」
「それだけではない……コッド夫人のレシピも消えた」
セイラの持参した身上書や紹介状、すべてが偽物だった。
口数は少ないが仕事覚えもよく、手がすくと台所に行き、コッド夫人から熱心に料理を習っていたらしい。
彼女の勤務態度に不審なところは何もなかったが、ベンの帰宅に合わせ家人がみな外出するように仕向けたのは彼女の采配のようだ。
コッド夫人の叔母は馬車の事故にあい、ベンの母ジャムス夫人には行きたがっていたコンサートのチケットが届く。執事のウェーバーは壊れた時計を修理するためでかけていた。
あのとき彼女はコーヒーを、他のどの部屋でもなく「書斎にお待ちします」と言った。
どうしてもベンに書斎の鍵を開けさせたかったのだろう。ずいぶん巧みに誘導されたものだ。
朝食を終えた彼が書類を持ってでかけてしまえば、取り戻すことは不可能になる。彼女にとってはベンが書斎の扉を開け、外出するまでの時間が勝負だった。
「場合によってはコッド夫人の叔母が遭遇した、馬車の事故とやらも調べねばならん……どうした、そんなに美人だったか?」
「美人というか……印象的な子だった。陶磁器のように整った顔立ちで」
困ったようにつぶやくベンの眼差しに、焦がれるような熱を感じ取り、ヒースは目を丸くした。
「おやおや、まだ酒が抜けてなかったのか?君の帰国に合わせて準備したなら、それなりに腕の立つ工作員だろう。足取りもつかめぬし、もう会うこともあるまいよ。レシピを持ち去るぐらいだ、料理好きかもしれんが」
「コッド夫人は料理上手だが、レシピといっても昔からある家庭料理ばかりだぞ?」
「それが良かったのかもしれないだろ」
肩をすくめるヒースをよそに、ベンは記憶に残るセイラの姿を思い返した。
よくあるこげ茶色の髪は肩につかない程度の長さで、やわらかそうな唇はふるりとみずみずしく、ふっくらした頬は初々しさすら感じさせた。
台所にやってきたベンを、ヘーゼルナッツのような淡い薄茶の瞳でじっと見あげ、「ご主人様」と彼に呼びかけた。
彼女はたった一皿のためにレシピを覚え、入念な準備をしてベンを台所で待っていたのだ。カルダモンはとっさの思いつきだったのだろう。
スパイスにも詳しく、カフワのことも知っているようだった。
コッド夫人が戻れば、あの料理はまた食べられる。だがカルダモンのコーヒーは、やり方を教わったベンが自分で淹れるしかない。
気が合いそうな気がした。
なぜ最後に彼女を振り向かなかったのだろう。
セイラは消えた。
ただひとつ、簡単なカルダモン・コーヒーの淹れかただけを伝授して。
書斎にはまだふわりと、スパイスの女王と呼ばれる甘く優しい香りが漂っていた。
香りは記憶と結びつきます。
ベンはカルダモンの香りに何を想うでしょうか。
お読みいただきありがとうございました!