face each other
悪魔と契約してしまった水菜の夜。
まだ震えが止まらない…
警察の事情聴取の間もずっと震えていたが、おそらく暴漢に襲われたからだと思われているだろう。
とりあえずは怪我も無く、直接的な被害も無かったので「気を付けてお帰り下さい」で締めくくられた。
被害は幕の内弁当の中身がひどい事になってしまった程度。
帰宅した私はお弁当を温めて食べる事にする。こんな時でもお腹はへる。
レンジにお弁当を入れてタイマーをかけた時、携帯が鳴った。
「水菜!深夜にすまん!」
うちの事務所の副社長兼、マネジメント責任者の田中さんだ。
「マリが倒れた!さっき病院に運ばれた!入院だ!」
(な…!?)
「えっ?…ちょっ!…」
「とりあえず明日、朝イチ事務所に来てくれ!マリの代役お前でいくぞ!」
(う、嘘でしょ…)
明日の鞠子さんの仕事はゲームの発表イベントだ。
ただのイベントではない。
大手オンラインゲーム発信サイトを運営する会社の新作発表のイベント。
制作や運営資金、規模が他とは桁違い。
名だたる声優さんが揃い踏み。そのゲームに携わる声優さんの人数は10人や20人ではない。
鞠子さんはその中でも準主役級の役どころ、堂々たる演技が認められた実力派だ。
そのイベントに私が…? 鞠子さんの代役…?
(う…嘘でしょ…)
「おい!聞いてんのか水菜!」
「あ、はい…大丈夫です、すいません…」
「あ、いやすまん…驚くのも無理ないよな、こっちも今大変なんだ。」
それはそうだ…鞠子さん大丈夫なのかな…
「詳しい事は明日説明するから、なる早で朝入りしてくれ。頼んだぞ。」
突然降って湧いたような大役…
まさか…
全身にドッと汗が噴き出た。
冷たいもの物を食べた時のような痛みが眉間に走った。
「良かったじゃないか。」
ねっとりと…まとわりつくような声…
あの声だ!
もう逃げらない!契約を交わしてしまった以上もう逃げられない!
どんな物でも対峙する!どうせ逃げられない!
覚悟というスイッチが入った私は声のする方へ振り返った。
覚悟という勇気は一瞬で消え去った。
腰を抜かした私はその場にへたり込んでマラリア患者のようにガクガクと震えだした。
悪魔の姿がハッキリと見える!
目が隠れるほどの長い前髪…画用紙のように白い顔…漆黒の服装…
(見てしまった!見てしまった!見えてしまった!見えてしまった!)
(終わりだ!終わりだ!終わりだ!もう終わりだ!)
悪魔と私の間でどれくらいの沈黙が流れただろう…
悪魔は微動だにしない…
私はへたり込んだまま動けないでいるが、震えは次第に収まってきた。
それでもまだカクカクしているのが自分でもわかる…
どれくらいの時間が流れただろうか…悪魔が言った。
「弁当が冷めるぞ。」
(え…?)
悪魔のこのふざけたような一言で緊張と恐怖の糸が切れた。
でもまだかなり怖い…
「…うぅ…と…ま…ま……ま…」
上手く喋れない…
「どうした、質問か?」
「ま…ま…鞠子さんに…な、な、何したの…?」
「ひ…ひ…ひ、ひどい事しないで…」
「何の事だ。知らんな。」
「そもそもお前は知っているじゃないか。あの女が倒れた理由を…」
「な、何を言っているの!わ、わかるハズないじゃない!」
「悪魔に嘘は通じないよ」
そう、嘘だ。私は鞠子さんが倒れた理由を知っている。
鞠子さんの欠点はプレッシャーに弱い事。
鞠子さんは役を演じ切るため、役になりきるため、周囲の期待を裏切らないため。
色々なプレッシャーに押し潰されそうになった時、クスリに頼っていた…
台本や企画書に数え切れない付箋を貼り、青白い顔した鞠子さんが次の日別人のように自信に満ち溢れているのを何度も見ている。
そして、ドス黒い隈をメイクで隠していた事も…
クスリの使用頻度はどんどん高まった。
ただでさえ細身の体はさらに痩せていった。1人でブツブツと何か言っている事が増えた。
そしてとうとうあるイベの打ち上げの最中に倒れた。
その時の鞠子さんの目をみた田中さんが顔を歪めて舌打ちし、逃げるようにタクシーで連れ帰った。
それからは体調不良という事で休養を取っていたが、今回のゲームイベントの為に徐々に現場復帰し、準備を進めていたという訳だ。
その結果がこれだ…
「明日は早いのだろう?もう休んだらどうだ。」
「心配なんてしなくて良い…明日は必ず成功する…お前には私が付いている…」
そう言うと悪魔は消え去った…
悪魔が消えた途端、震えが止まり恐怖が消えた…
冷めてしまった幕の内弁当を食べながら考えてみた…
悪魔と契約した途端に転がりこんで来た大仕事。
とんでもない大役。
受けるべきなのか…断るべきか…
喜ぶべきなのか…代償を恐れるべきなのか…
一つだけわかっている事。
悪魔は既に私の生活に入り込んでしまっている事…
もう、後戻りはできない。
業界の事についてはほぼ無知です。
あくまでもフィクションです。