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皇女は備品庫に籠もりきりになることが減り、一日のうちの数時間は勇樹と時間を共有することも増えた。
彼女なりに勇樹に歩み寄ろうとしている姿勢に、勇樹は徐々に彼女を愛おしく思うようになっていた。
結婚後もマーガレット公爵夫人による教育は続いていた。
しかし時々、その舅であるテオドールが来ることもある。
テオドールは現在64歳。60歳を平均寿命とする皇国では長生きの方で、さらに50歳で退職することが多いため、彼は退職後も望んで皇族に関わることが許されている異例中の異例だった。
「ここまでお分かりですか?」
「……あぁ」
「じい、あまり難しい話は、異世界人にはわからないわよ」
「とんでもございません、皇女殿下。ユウキ様は非常に覚えがお早い。幼少期の殿下に勝るとも劣らない程でございますよ」
「わたしに勝るですって?よくそんなことが言えるわね。わたしはアカデミーの先生方も認めた優等生よ」
「えぇ、えぇ、このじい、それはよくわかっておりますよ。しかし、アカデミーに入られる前はよくお勉強を抜け出されていましたからねぇ」
「それはじいや先生方の話が長くてつまらないせいだわ」
「そうですねぇ。しかしユウキ様は、そんなじいの長くてつまらない話も、全て耳を傾けてくださる。このじい、感激で涙が出るほどでございますよ」
「じいは生意気ね。お祖父様の側近でなければ、今すぐ解雇したいくらいだわ」
「それは困りますねぇ。ご成婚なされても、殿下にはまだまだじいの手が必要なようですから」
「そんなことは言ってないじゃない。死にぞこないに頼るほど、皇室は落ちぶれていないわよ」
売り言葉に買い言葉、皇女にこれほどの言葉が言えるテオドールは、かなりの人物であると言える。
「じい、そろそろ下がりなさい。死にそこなった心臓が悲鳴を上げるわよ」
「それはそれは、この老体をお気遣いいただき、恐れ入ります。それでは、そろそろ失礼させていただきましょうか」
テオドールが出て行くと、勇樹はようやく口を開いた。
「意外だな。高齢者を気遣う気持ちがあるなんて」
言葉はどうであれ、彼女はテオドールの体を心配していたと感じ、笑顔を見せる。
「気遣ってなんかないわ。これ以上ここにいられるとうるさくなると判断したからよ。だいたいあの人、ああ言ってたけど、絶対に帰らないわ。この後はルブ兄様のお守りにでも行くんじゃない?」
「うるさくって、リリィのことを思うから言ってるんだろ」
「そんなの知らないわ。おせっかいっていうのよ」
どうやら機嫌を損ねてしまったらしく、皇女は子どものように唇を尖らせて顔を背ける。
勇樹が折れて謝ろうとした時、ドアがノックされた。
「どうぞ」
不機嫌そうな皇女が応える様子はなかったため、勇樹が応える。
「失礼いたします。皇女殿下、ユウキ様、お部屋のお掃除を致してもよろしゅうございますか?」
入ってきたのはまだ年若いとも言える女性。皇女が入室を許可した侍女の1人だ。
「頼む」
「……出てくるわ」
皇女は一言そう告げて、席を立った。
不機嫌なまま放置して喧嘩になっても困るため、後を追おうとしたが、この部屋の管理を皇女に任せてもらっている身として、侍女がいる部屋を空けるわけにもいかない。
どうやってご機嫌取りをしようか考えていると、また次のノックの直後、ドアが開いた。
「あれ?リリィはここにもいないみたいだね」
「皇太子殿下」
入ってきた人物に、勇樹は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「あぁ、いいよ。義兄弟じゃないか。それより、リリィはどこにいるかわかるかい?備品庫にいなかったから、ここかと思ったんだけど」
「先程出てくると告げてどこかに」
「……そうか。まぁ、急ぎでもないし、いいんだけどね」
皇太子が探しているとなると、何か大事な用事がありそうだ。
勇樹はそばにいた侍女に視線だけを送る。それだけで侍女は察して、深々とお辞儀をして出て行った。
「それより、リリィがいないならちょうどいい。ユウキくん、突然召喚してしまったから、あちらの世界に何かやり残したことはないかい?もし何かあれば、あちらに送り返すことはできるからね」
「召喚って、そんなこともできるんですか?」
「んー……正確に言うと、ユウキくんは召喚したわけじゃないんだよね。ちなみに、ここは異世界でもない」
「え?」
今まで理解したことが、全て覆されそうな言葉だった。
「リリィが異世界人となら結婚するなんて言うから、召喚なんていう方法を取っただけ。確かユウキくんの世界には日本という国があるだろう?ウィクダリア皇国は、その土地の一部を間借りしてできているんだ。少し面倒だけど、車でも行き来ができると思うよ」
「日本のどこに、そんな……」
「詳しいことは僕らもわからないんだ。日本っていう国の地形を全て理解しているわけじゃないからね。まぁ詳しいことは、おいおいこの国の歴史として学んでもらうとして。そういうことだから、もし必要なものを取りに戻りたかったり、挨拶したい人がいたりするなら、帰してあげることはできるよ。リリィがキミを気に入ったみたいだし、一定期間が過ぎればまた呼び戻すことになると思うけど」
「はぁ……でも、リリィには秘密なんですか?」
「ユウキくんが異世界人じゃないとわかったら、離婚すると言い出しかねないだろう?結婚から逃げるためにそんな無理難題を出してきたくらいだから」
さすがは兄、妹の考えは理解していたらしい。しかしそれをわかっていながら、本当にそれを実現してしまう辺り、あの皇女の兄だと思ってしまう。
「……そういうことね」
その時、静かな声が響いた。
「リリィ、戻ってきたのかい?」
「近くを散歩していただけよ」
聞かれてはいけない話を聞かれてしまったはずなのに、皇太子は穏やかに笑って妹を迎える。彼女の後ろから、途中で会ったのか第二皇子と第三皇子も入ってきた。
「話は聞いたわ。それで?ユウキ。故郷に帰るの?」
「……帰っていいのか?」
「言ったでしょう?いずれこちらに戻ってくるなら、わたしたちは何も言わないわ。嫁いできた人間の里帰りなんて、こっちにもよくある話だもの」
「それなら、一度だけ……。いろいろと清算しに戻りたいと思う」
「そう」
勇樹の口からその言葉が出た瞬間、皇女が嬉しそうに笑う。
「だったら、わたしも一緒に行くわ」
「え?」
「は?」
さすがのこの言葉には、皇子3人が揃って驚いた。
「夫の里帰りに付き合ってもおかしくないでしょう?」
「いや、おかしいだろ」
「ラキエルの言う通りだ。リリィ、さすがにそれは無理だよ。ユウキくんの里帰りっていっても、誰も知らない国なんだから」
「ユウキは知ってるわ。それに、荷物持ちの1人や2人、連れて行った方がいいと思うの。こっちに持ってくる荷物がどれだけあるかわからないけど」
「リリィがついていったって、荷物が増えるだけだからな」
「荷物持ちが必要なら、人員はこっちで出すよ」
「あっちがどういうところかわからない以上、かわいいリリィを行かせるわけにはいかないな!」
この国で、勇樹が住む日本という国はどう思われているのか。
あまり良く思われていないのだろうということは、この会話から充分わかる。
皇女だからではない。このウィクダリア皇国の人間だから、日本に行くことはできないのだ。
「いいわ。お父様の許可を取れば問題ないでしょう?」
皇女はまるで許可が下りるのを確信しているかのように、そう言い放つ。
「そりゃあ、父上が許可を出すなら、僕らに反論する権利はないけど……」
「絶対無理だろ。いくら父上がリリィに甘いからって、そんなこと、許可するわけがない」
「ってか、オレが許可しない!リリィ、オレと一緒にいてくれるだろ?!」
「ルブ兄様といたって何の得もないわ。ユウキとの方が楽しいの」
それほどまでに気に入ってくれたのは嬉しいが、こんな状態で皇女を任されても、勇樹は困るだけだ。
せめて皇帝が反対してくれればいいが、おそらくそれも、皇女はどうにかあしらう手段があるのだろう。
万が一皇女を日本に連れて行くことになった場合、いったいどうすればいいのだろうか。
この閉鎖された国だからこそ、皇女が国外に出るという前例など、当然ない。
「お父様に話してくるわ」
皇女は楽しそうに部屋を出て行った。
「兄上、どうするんだ?もしリリィが外に出るとかなったら……」
「父上が許可するはずがないよ」
「あーぁ、またリリィが荒れる。俺、逃げておこうかな」
「メイドにお菓子用意するように言っておかないとな!」
「そうやって甘やかすから、あんなになるんだよ」
皇子たちは認められるとは思っていないようで、妹をどう慰めようか話している。
しかし、そんな皇子たちの期待も、間もなく打ち砕かれた。
皇帝が、皇女の気迫に押されて、拓馬の里帰りに付き合うことを許可したのだ。
それでもすぐにというわけにはいかず、準備のためにとまた1ヶ月待たされることになった。