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10年間。勇樹は日本で10年もの時間を過ごした。
毎年夏休みにイギリスに旅行に行く以外、皇国に関わることはなかった。
子どもたちは一度も母親に会うことなく成長し、マリアルーナは中学生、カトレアとアイリスは小学生になった。
といっても、マリアルーナはもうすぐ高校生、カトレアももうすぐ中学生だ。
父親として娘の成長を喜びながら、それを妻と共有できないのが悲しかった。
日本での仕事にも慣れてきて、巨大な倉庫の管理を任される立場になった。
それでも勇樹は自分から体を動かす方が好きで、部下からの信頼は厚かった。
「“係長―!”」
その日も、事務職の若い女性社員が駆け寄ってくる。
「“係長、今夜、お時間ありますかぁ?”」
「“あー……すみません。娘たちに夕食を作らないと”」
「“あら、上のお嬢さんはもう高校生でしょう?たまには自由にさせてあげないと、嫌われちゃいますよ!”」
「“いえ……でも……その……。自分には、妻がいますので……”」
そう言ってあからさまに色目を使う女性から離れる。
「“ダメよー、あの人、単身赴任中の奥さんに一途だから”」
「“本当に奥さんがいるのかって、もっぱらの噂だけどね”」
そんな女性たちの声が聞こえてきたが、反論する気はない。
10年間一度も会っていないのだ。イギリスからもなんとか連絡を取ってくれているらしいが、いい返事はない。
ここまで来れば、皇国に戻れなくてもいいと思った。
子どもたちが自立するまで日本で過ごし、その後はイギリスに移住して、故郷を疑似体験できればいい、と。
激しいテロで妻や義実家の人間が生きている保証はないのだ。
これ以上迎えが来ないなら、その霊を弔うのが自分の役目だと。
仕事を終えてすぐ、残業もせずに帰宅する。
「ただいま」
家に帰ると、自然と漏れるのは皇国語だ。その瞬間、スリッパの音が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
そこにいたのは、銀髪に緑色の瞳という妻を彷彿とさせる美少女、マリアルーナだ。
エプロン姿がよく似合うのは、妻もきっとそうなのだと想像できる。
「レアとアイは?」
「アイは帰ってて部屋で宿題かな。レアは友達と遊んでくるって」
「またか……。あ、ごめん、夕飯」
「作ったわ。あと買い物も」
「ごめん、ルーナ。ありがとう」
「これくらい大丈夫」
「あ、おとうさまー!」
階段を駆け下りてくるのはアイリスだけだ。こちらは黒髪に黒い瞳。でも顔立ちは皇国風という、容姿はほとんど変わらない。
「おかえりなさい、おとうさま!」
「ただいま。宿題は終わったか?」
「うん!」
「そっか。いい子だ」
「えへへ」
まだ10歳で、父親には素直に甘え褒められれば素直に喜んでくれる。
「ルーナ、かつらとコンタクトは?」
「その言い方やめてって言ってるでしょう。ウィッグだから」
「あ、ごめん」
「家ではつけなくていいじゃない。疲れるのよ」
マリアルーナは口調までもリリアンローズに似てきた。
「それと、おとうさま、明日の三者面談なんだけど」
「あぁ、そうだったな。大丈夫。午後からだったよな」
「……別に来なくてもいいのに。わたし、問題は起こしてないわ」
「進路の話とかいろいろあるだろ」
「ルーナ姉さまだけずるいー。お父さま、アイの学校にも来てー」
「授業参観にはいつも行ってるだろ?」
「違うのー」
「ルーナのも遊びで行くわけじゃないんだから……」
「そうよ、アイ。お父様を困らせないの」
年相応に扱いが難しくなった長女と、かわいらしく甘えてくれる三女に挟まれて、勇樹は幸せそうに笑った。
「ただいまー」
夕飯の後、カトレアが帰ってきた。
「おかえり。ご飯は?」
リビングで待っていた勇樹は、すぐに出迎える。
「食べてきたー」
「小遣いで?そんなにやってないけど」
「いろいろ上手にやってるからね。あ、これ、たぶん壊れちゃった」
中学生になったばかりで、小学生にはなかった解放感からか、毎日遊び歩く次女。
差し出されたのは、魔力の放出を抑える補助具だ。
「壊れたって……どんな使い方したら、これが壊れるんだ?」
「バスケしてたら当たったの。ブレスレット型はやっぱりイヤ。ねぇ、チョーカー型とかないの?」
「皇国にはあったかもしれないけど、持ってきてない。ネックレスじゃダメなのか?」
「イヤだ。ダサい」
「ダサいって……」
「レア、わがまま言わないで。それも数は限られてるんだから、大事に使ってよね」
妹が帰ってきた音を聞いて、マリアルーナが階段を降りてきた。
「別にいいじゃん。使えなくなったら売ればいいんだし」
「売ってお金にはなるけど、魔力抑制補助具が買えるわけじゃないわ。これ以上無駄に壊してくるなら、あなたは補助具なしの自力でどうにかしてもらうわよ」
「うわ!鬼畜!」
「だったら大切に使って」
地元の中学校で昔からの親しい友達が多いカトレアと、中学校、高校と自ら受験を選んで名門校に通い、最低限の人付き合いはするが親しいと言える程の友達はいないマリアルーナ。
同じように育ててきたはずなのに、姉妹でこんなにも違うのか。
翌日、午前中を仕事に費やした勇樹は、少し早くに退勤し、車を運転してマリアルーナの学校に向かった。
そこは私立の進学校。学費もかなり高いが、マリアルーナが優秀な成績を収めてくれるおかげで半額になっている。
「“お父さん”」
家の外では日本語を流暢に扱うマリアルーナと合流し、指定された教室に入っていく。
「“余計なこと言わないでよ”」
「“余計なことってなんだ?”」
「“……いろいろ”」
聞いてみようとしても詳しくは教えてくれない。
「“宮野翠月さんのお父様ですね。初めまして、担任の松村と申します”」
「“宮野です。娘がお世話になっております”」
マリアルーナはいつからか、学校で皇国名を名乗らなくなった。
それに従うように、今ではカトレアとアイリスの2人も日本名だけで通している。
「“翠月さんはですね、とても優秀な生徒で、授業も真面目に聞いてくれています”」
「“そうですか”」
「“クラスメイトにも優しくできていて、前期には学級委員に推薦されていましたね。ただ今回は自信がないということで辞退して”」
マリアルーナが教えてくれない学校での様子は、予想外だった。
確かに大人しい方ではあるが、クラスメイトからの推薦を断ったとは。
「“翠月さん、クラスで特に仲のいいお友達はいますか?”」
「“……いえ。クラスメイトとは幅広く付き合いたいので、特別という子はいません”」
教師からの質問に対しての娘の返答に、勇樹は父親としてどう受け取っていいかわからなかった。
帰りの車の中で、勇樹は聞いてみた。
「なぁ、ルーナ。友達いないのか?」
「いないとは言ってないわ。ただ幅広く関わってるだけ。何か問題でも?」
「友達がいないと寂しいだろ……」
「別に」
「じゃあクラスの委員長に推薦されたのに断ったって話は?」
「本当よ。だって意義が見出せなかったんだもの」
「意義って、お前な……」
「事実じゃない?それに、いつお母様がお迎えに来てくれるかわからないでしょう?在任中に退学なんてことになったら、クラスメイトにも迷惑だわ」
「……それは……」
マリアルーナはまだ母が迎えに来てくれることを望んでいるのだ。
「大丈夫。怪しまれないように、適当な理由はつけてるわ。だから、お父様は何も心配しないで」
あのおとなしく静かだったマリアルーナが、時間の経過でこうなってしまうのか。
時間というものは恐ろしいものだと、勇樹は実感した。
「ねぇ、聞いて、聞いて!」
「……レア、うるさい」
カトレアが楽しそうに姉に何やら話しかけている。
「今日ね、クラスの男子に告白されちゃった!」
「……は?」
何気なく新聞を見ていた勇樹も、これにはハッと顔を上げた。
「付き合っちゃおうかな~。どうしようかな~」
「……バカじゃない?さっさと断ればいいわ」
「えー、なんでー?」
「そんな特別な存在なんて作る方が無駄よ。皇国に帰る時、面倒なことになるだけじゃない」
「別にいいじゃん~。お母様、ずっと来てくれないし。……生きてるかどうかも……」
「レア!」
ボソリと呟いた妹を、マリアルーナは強い口調で止めた。
「変なこと言わないで。お母様は必ず迎えに来てくれるわ。今は皇国が忙しくて、ちょっと遅れてるけど……絶対……」
「……」
リビングで宿題をしていたアイリスも、姉たちの喧嘩に驚いている。
「……ルーナ」
勇樹はマリアルーナに近づき、そっと抱き寄せた。
「大丈夫だ。お母さんは頑張っているからな。きっともうすぐ迎えが来るはずだ」
「……ん」
父の腕の中で、マリアルーナは静かに流れてきた涙を拭う。
「レア、日本での生活を楽しむのはいいが、お母さんを信じてほしい」
「……っ」
カトレアは何も答えることなく、悔しそうに唇を噛んで、リビングを飛び出していった。
彼女も母親を信じていないはずはない。ただ、もうこれ以上待つのは辛いのだろう。
これが人生の分岐点だ。これ以上日本に留まることになれば、皇国に戻れる日が来たとしても、選択肢が少なくとも2つ、出てくる。それは彼女たちそれぞれが選ばなければいけないのだ。




