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翌週の土曜日、ちょうど仕事が休みの日に、マリアルーナの習い事の見学を入れた。
下2人は両親に預け、マリアルーナだけを連れて行く。
3姉妹を平等に扱うとなると、こうして1対1で向き合う時間も必要なのだ。
「“今日体験の予約を入れていた宮野ですが”」
「“あぁ!宮野翠月ちゃんですね!”」
小さな教室の講師は、レオタード姿で明るく言った。
「“初めまして。この教室の先生をしている森下郁恵です。郁恵先生って呼んでね”」
「“こんにちは、みやのマリアルーナみづきです”」
勇樹の隣で、マリアルーナもちゃんと挨拶ができる。
「“あ、ルーナちゃんだ!”」
「“ルーナちゃ~ん!なにしてるの~?”」
「“たいけんしにきたの”」
マリアルーナの友達なのか、女の子たちが2人駆け寄ってきた。
「“ルーナちゃんもバレエするの?”」
「“したいなーっておとうさんにおねがいした”」
「“いいねー!いっしょ、しよーよー!”」
「“うん、いいよ”」
友達とも仲良くできているようだ。
「“じゃあ宮野さん、動けるお洋服に着替えてきてね。ココアちゃん、ユカちゃん、更衣室の場所を教えてあげてくれる?”」
「“はーい!”」
「“こっちだよ!”」
マリアルーナは、勇樹を振り返ることもなく、友人たちと去っていった。
こういうものなのか。少し寂しくもある。
「”お父さんはこちらで見ていらしてください“」
「“あ、はい。ありがとうございます”」
通されたのは、レッスン室の隣にあるマジックミラーがついた部屋だった。
他にも保護者が何人かいる。が、ほとんどお母さんたちだ。
どうにもその輪の中に入る気にはなれず、ベンチの隅に座って、さっき玄関でもらってきたリーフレットを開いた。
「“あ、あの……”」
そこへあるお母さんが声をかけてきた。
「“ルーナちゃんのお父さん……?”」
「“そうですが……”」
「“あ、やっぱり!よかった!あ、私、松本です。松本由香の母です”」
「“あぁ、いつも娘がお世話になっています”」
「“こちらこそ!”」
マリアルーナの友達の母親だった。確かに友達の名前はよく聞くが、その母親に会ったのは初めてだ。
「“いつも娘が言ってるんですよ。ルーナちゃん、とってもかわいくて優しいって”」
「“そんな……”」
「“ルーナちゃんの妹ちゃんたちもまだ小さいですけど、お父さんがお1人で?”」
「“はい”」
「“失礼ですけど、奥様は……”」
「“単身赴任中なんです。海外を転々としているので、落ち着いた環境で育つ方がいいだろうってことで、引っ越してきて”」
「“そうなんですね!”」
気さくな人だ。が、勇樹はどちらかというと苦手なタイプだった。
なんとか体験授業が終わった。途中でもう1人の友達、高坂心愛の母親も登場し、勇樹は母親たちの会話に揉まれた。
授業が終わっても、マリアルーナはまだ友達とおしゃべりを楽しみたいらしく、なかなか勇樹の下に戻ってこない。
次のピアノ教室の体験もある。それを口実に無理やりにでも連れて帰ろうか迷っていると、他の友達もこれからピアノ教室に行くらしく、そのまま連れ立って移動することになった。
結局その日は一日中母親たちの波にもまれ、解放されたのはピアノ教室が終わって一時間後のことだった。
それもカトレアとアイリスが待っていることを口実にした逃げだ。
「ルーナ、楽しそうだったな」
車に乗った瞬間、勇樹はホッとしたのもあって、つい皇国語で声をかけてしまった。
「うん。たのしかった」
しかしマリアルーナも、それには特に疑問も抱かずに皇国語で答える。
「どうする?これからも通いたいか?」
「……だいじょぶ?」
「なんで?」
「あのね、おかね、いっぱいかかるって」
「あぁ、大丈夫だよ。お母さんから預かってるお金もあるからな」
「じゃあ、がんばる」
「そっか。今度からは、お父さんは仕事があると思うから、ばぁばかじぃじにお迎えに行ってもらうかもしれないんだ。いいか?」
「うん」
できればもう、あの波に揉まれたくはない。
仕事がなくても遠慮したいところだったが、マリアルーナは受け入れてくれた。
バレエ教室は週に二度、ピアノ教室は週に三度のレッスンに、マリアルーナは毎週楽しそうに通った。
自宅に電子ピアノと等身大の鏡を買ったことで、その日のレッスンで習ったことを見せてくれる。
おかげで平日の放課後の自由な時間がなくなってしまったが、マリアルーナはその方がいいらしかった。
お友達と遊べない日もあるだろうに、なぜか回数を少なくしようかと聞いても、今のままがいいと言ったのだ。
2歳のカトレアも姉の真似をしてバレエを始め、間もなく従兄を真似しているのかサッカーをやりたいと言い始めてしまった。
それはもう少し大きくなってからと説得するのが、大変だった。
そんな忙しい春は慌ただしく過ぎていき、季節は夏に移り変わっていた。




