13
勇樹は1人でアメジスト宮の廊下を歩いていた。
目的の部屋の前に立つと、そこには陶器のカップが落ちていた。
そのカップを起こったことを予想して微笑みながら拾い、ドアを開ける。
室内にいたのは、愛する妻だけ。そう思ったが、彼女の腕の中で食事中の娘がいた。
「おかえりなさい」
妻が気づいて笑顔を向けてくれる。
「戻ってたのか。話は終わったのか?」
「まだよ。アイのミルクの時間だから、戻ってきただけ」
「そうか」
彼女の返答を聞いて、勇樹は隣に座る。緑色の瞳を大きく見開き、口だけを動かしながら夢中で母乳に吸い付く娘に、優しい目を向けた。
「アイは今日も機嫌がいいな」
「そうね。助かるわ」
母乳を与え終わると、彼女はそばのゆりかごに娘を寝かせ、衣服を整える。
「今日の議題は、皇帝陛下の退位式か?」
「それもだけど、いろいろよ」
間もなく開かれる皇帝の退位式。52歳となった皇帝が、皇国での一般的な定年とされる50歳を2年過ぎてようやく、退位を決意したのだ。
同じ日に新しい皇帝の戴冠式も開かれ、他の皇子には公爵位が与えられる。
今回の退位式で最も注目されているのが、皇女に与えられる称号だ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「あぁ」
妻の言葉にうなずきながら、それでも彼女を抱き寄せる。
「ユウキ……」
彼女は呆れながら、それでも勇樹のキスに答えて、2人は唇を合わせた。
「愛してる」
「……もう子どもはいらないわよ」
「できるものはできるからな」
「せめて夜にしてちょうだい」
まだ日が高いせいか、軽くあしらわれてしまう。それでも離れることなく身を寄せ合っていると
「とーしゃま!」
勢いよくドアが開く。2人は揃って視線を送った。
ドアの前に立っていたのは、幼い少女。彼らの愛娘だ。
「あ!かーしゃま!」
「……レア……」
娘が来たことで、妻は離れてしまう。代わりに駆け寄ってきた妻は、すっかり母親の顔だ。
「かーしゃま、おしっと、おわぃ?」
「まだ終わってないわ。もう少しいい子に待てるかしら?」
「うん!」
「いい子ね」
「レアちゃん、どこぉ……。あ、おとうさま!」
そこへ妹を探していたらしい長女も部屋に入ってきた。
「おかあさま、おかえりなさい」
「ただいま、ルーナ。またすぐ戻るけど」
「……ん」
母親がいないとわかり寂しそうにするが、それでもイヤだとは言わない。
「すぐに帰ってくるわ。お父さまの言うことを聞いていい子にね」
皇女は抱いていた次女を勇樹に渡し、長女の頭を撫でて、部屋を出て行った。
あれから5年の月日が流れた。
あの時産まれた長女マリアルーナは5歳になり、来年には魔法士専用の学校であるアカデミーに入学することになる。
2歳の次女カトレアと、半年前に産まれたばかりの三女アイリスという魔法士の3人娘たちに囲まれ、勇樹は幸せな時間を過ごしていた。
妻である皇女との関係も良好で、今でも仲睦まじい。
しかしこの5年間は、そんな幸せばかりではなかった。
マリアルーナが産まれる前の1人の他に、次女が産まれる前に二度流産を経験した。
その度に落ち込む妻を励ますのが、勇樹の役目だった。
皇国内での大きな変化といえば、反皇帝派のテロ活動が急速に進んだこと。
民主主義を掲げる彼らの活動は、どんどん過激化していった。
魔法士の絶対的支配者である皇帝に逆らう人間など、絶対にいないというのが皇国の常識だ。
しかし皇女が言うには、勇樹が召喚される前からテロ活動のようなことは起こっていたらしい。
それが何十年と表在化しなかったのは、皇帝に逆らう思想がこの国で受け入れられなかったから、だそうだ。
それがなぜ突然表に出てくるようになったのか。
それは自称民主派のリーダーの言葉に黙らせる人が増えたせいだろう。
民主派を率いているのは、貴族家であるランネリウス侯爵。
皇帝は独裁主義的な政治を行い、国民の意見を全く聞いていない。魔法士だけを優遇する皇帝などいらない、というのが彼の言葉。
何が民主派だと、貴族家の多くは思っていた。いや、民衆の多くもそうだ。
元々皇帝という存在はいても、崇拝する神のような対象であるだけ。
皇帝の役割というのは、代々受け継がれる強い魔法で国を守ること。
本当に政治を行う政治家は国民の投票で選ばれ、政界に常に関わる家は皇族とカルティエート公爵家だけだ。
皇帝の兄弟である公爵家は、皇族の血が薄くなる度に侯爵、伯爵と称号を変えられていくため、家として常に関わることはできないようになっている。
そんな民主主義的な制度は、皇国が創立した時からあり、それで何百年と国が続いてきたのだ。
民主主義を掲げるランネリウス侯爵の思惑は、皇帝を廃し、いずれは自らがこの国のリーダーになること。
それがわかってしまう貴族家からは、皇帝に並ぶ魔法を持っているわけでもないのに、白い目を向ける人間が多い。
しかし侯爵家よりも弱い魔法しか持たない庶民、特に非魔法士たちには、それを知ることはできない。
そのため、ランネリウス侯爵に従う人間が増えてしまった。
「とーしゃま、とーしゃま」
皇女がいなくなってすぐ、考え込んでいた勇樹に、足元からカトレアが呼ぶ。
「ん?」
慌てて笑顔を見せると、
「あんね!あんね!」
と嬉しそうな顔だ。
「レア、けーきつくれるんらよ!」
「そうか。じゃあ、お父さんに作ってくれるか?」
「いーよ!」
舌ったらずな喋り方で、得意気に教えてくれる。
当然厨房に入れたことはないため、それが遊びでのことだとすぐにわかった。
さっそく隣の子ども部屋に戻っていく次女を目だけで見送り、勇樹も後を追おうと三女を抱き上げる。
「……おとうさま……」
するとその場にいた長女が、寂しそうな声を出す。
三姉妹の中でしっかり者の長女でありながら、一番の寂しがり屋だ。
「どうした?」
長女には、その場に膝をついて視線を合わせ、顔を覗き込む。
「おとうさま……、おかあさま、たいへん?」
「あぁ。もうすぐお祖父様の退位式があるだろう?その準備で忙しいんだ」
「……あのね、あたし、おかあさまのおかお、かいたの」
「夜には帰ってくるから、後で見てもらおうな」
「……んー……」
「じゃあ、お母さんに見せる前に、お父さんに見せてくれるか?」
「……ん」
誰かに見せて褒められたかったのだろう。長女は渋々ながら頷き、さっと踵を返した。
勇樹もまた、三女を抱いて、娘たちの後を追う。
夫婦の居室の隣の部屋では、たくさんのおもちゃが広がっている。
子どもたちの世話を任せている宮女が、勇樹が入ってきたのを見て恭しく頭を下げた。
勇樹は特に気にせずに、まずは2つ並んだ子ども用の低い机のそばに座る。
「これ……」
マリアルーナがお絵かき用のスケッチブックを差し出してくる。
そこには子どもらしい似顔絵が描かれていた。
「上手に描けてるな。お母さんも喜ぶと思うぞ」
「これ、おかあさまにみせる」
「そうだな」
「とーしゃま!けーき!」
続いてカトレアがおもちゃのケーキを載せた皿を持ってくる。
子どもたちの遊び相手も、勇樹は慣れたものだった。
夜遅くになって、皇女が帰ってきた。
「おかえり」
子どもたちを寝かしつけていた勇樹は、疲れた様子を隠さない妻に歩み寄る。
「まだ起きていたのね。子どもたちは?」
「もう寝てる。ルーナがリリィの似顔絵を描いたから見せたがっていた。あとレアはケーキを食べてほしいって」
「……そう」
そばの机に置かれたおもちゃのケーキとスケッチブックを、皇女は軽く一瞥し、そばのソファに座った。
「何かあったのか?」
「特に何も。今日も中央広場で反皇帝派の集会が開かれていたくらいよ」
「そうか。お疲れ」
どんどん過激化してくる敵対勢力にどう対抗するか。
敵勢力とはいえ彼らも皇国民。皇族は彼らを傷つけずに制圧する方法を探し、毎日話し合いを開いているのだ。
「ユウキ、来週の退位式の日、子どもたちから目を離さないでちょうだい」
「それは当たり前だが……。侯爵か」
「直接手を出すことはないと思うけど、念のためよ」
侯爵が皇帝の廃位を望んでいる以上、皇族に手を出さないとは限らない。
その時標的となるのは、まだ力がない幼い子どもたちだ。




