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その日、勇樹は1人で皇城内を歩いていた。
皇女はあれから元気になり、アメジスト宮で大人しくしているものの、産まれてくる子どものためにと編み物や刺繍に忙しい毎日。
勇樹も時間があればそれを手伝うが、今日は息抜きに散歩していた。
その足が向かった先は、過去に一度だけ、皇女が連れてきてくれた場所、エメラルド宮。
かつて皇妃宮でありながら、主を失った今は使われない“開かずの間”と化している。
広い廊下を歩き、ちょうど中央に当たる部屋の前に立つ。
そのドアは珍しくわずかに隙間ができていた。
不思議に思って覗き込んでみると、壁にかけられた大きな肖像画の前に、人影が1つ。
「……皇帝陛下」
その影が振り返った姿を見て、勇樹は慌てて頭を下げた。
「……いい」
皇帝から短い言葉が聞こえてきて、顔を上げる。
肖像画に描かれている美しい女性は、皇帝の唯一の妻であり皇女たちの母、マリアローズ皇妃。
「……男は、いつになっても女に弱いものだ」
突然、普段は寡黙な皇帝が口を開いた。
「陛下も、皇妃殿下には弱かったのですか?」
「過去ではない。進行形だ」
「……申し訳ございません。しかし、一国の皇帝をも弱さを認める女性とは……。皇妃殿下はお強い方だったのですか?」
「いや、弱かった」
「は……」
「幼い頃からの友人のような関係だった。大人たちに仕組まれた関係だったのにな」
「それは、どういう……」
「皇妃は公爵家の娘だった。公爵に連れられて皇城に遊びに来ることもよくあった。私は年の近い彼女に興味を示し、遊び相手にした」
公爵令嬢だったという皇妃。おそらく皇太子と公爵令嬢の年齢が近いため、将来の夫婦にと周りが画策したのだろう。
「同じアカデミーに通い、同じように学んだ。1つ魔法を使えるようになる度に、皇妃は私に勝負を挑んできた。何度負けても懲りず、一度手を抜いて勝たせてやると怒る。何がしたいのかわからなかったが、そんなことをしてくる人間は、私の周りには彼女以外にいなかった」
「なるほど……。皇妃殿下は陛下に勝ったことがあったのですか?」
「一度だけな。その時にはもういい年になっていたはずだが、子どものように喜んでいた。大人に仕組まれた関係だとわかっていても、愛さずにはいられない。そんな女だった」
たった一度。その言い方では、おそらく何度も勝負を挑んできたのだろう。
一国の皇太子相手に勝負を挑む公爵令嬢など、本当にいたのかと思ってしまうが。
「結婚してからも、私が政務を言い訳にする度に、皇妃は怒った。幼い頃と変わらない顔でな。おかげで、皇妃を亡くした後も、怒られるかもしれないと家族を優先せずにはいられなくなった。……リリィにはよく怒られたがな」
盗賊により愛する人の命を奪われた皇帝。悲しくなかったはずはない。悔しくなかったはずはないのだ。
おそらくそんな皇帝を支えたのが、1人娘であり、皇妃によく似た顔立ちの皇女だったのだろう。
「おかしなものだろう。今まで怒られるかもしれないと怯えた相手に、今は自ら会いに来ている。怒られるはずもないのに、怒られに来ている」
「……おかしくはありません。それに今の皇帝陛下を見て、皇妃殿下がお怒りになることはないでしょう。陛下はご家族をとても大切にされています」
会いたい。そんな気持ちが伝わってくるようだった。
勇樹の返答に皇帝はわずかに驚き、そしてその顔のシワを深くした。
「気を付けろ。女は子どもを持ってからが本性だ。子どもを守ろうとするからな」
「どんな彼女でも、自分は彼女を愛しますよ」
最後の言葉は、皇帝ではない、1人の父親としての言葉だったに違いない。
未だ皇女にも言っていない愛の言葉を、義父に告白してしまうとは。
しかし皇帝の横顔は、なぜか嬉しそうに見えた。
エメラルド宮を出た勇樹は、また1人で歩いていた。
そろそろアメジスト宮に戻ろうか。それとも、もう少し散歩をしていこうか。
そういえば、しばらく備品庫に行っていなかった。様子を見て皇女に伝えれば、喜ぶだろう。
勇樹の足が備品庫に向いた時
「ユウキ殿下!」
アメジスト宮の宮女の1人が、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうした?」
「殿下、大変でございます。皇女殿下が……!」
その口から出たのは、信じたくない言葉だった。
「リリィ!」
慌ててアメジスト宮に戻ると、皇女はベッドに座っていた。
その周りにいる宮女、そして皇城助産師たち。
「リリィ……」
ベッドに歩み寄ると、皇女はただ黙って視線を送る。その目の奥に潜む涙に気づいた。
「ユウキ殿下、拝謁致します」
助産師の1人が口を開く。
「皇女殿下におかれましては、この度のご懐妊、残念ながら流産ということに」
「……わかった。下がってくれ」
「……は」
「失礼いたします」
助産師たちと宮女、全員を外に出し、皇女を見つめる。
どう声をかけたらいいのだろう。ベッドの枕元には、つい先ほどまで作っていたのだろう産着が置かれていた。
「……リリィ」
もう一度声をかけると、皇女の目にまるで堰を切ったように涙があふれ始め、その手が勇樹めがけて伸びてくる。
「リリィ……」
何も言えないまま、その体を抱きしめた。
「……なんで……」
耳元で涙に染まった声が聞こえる。
「……赤ちゃん……どうして……っ!」
「リリィは悪くない。タイミングが合わなかったんだ」
安静にしていた。大好きな仕事もせず、産まれてくる子を思ってたくさんの産着に刺繍を入れた。
「……ごめんなさい、ユウキ……わたし……赤ちゃんが……」
「大丈夫。リリィが悪いわけじゃない」
楽しみにしすぎたのか。皇女が楽しむからと一緒に誕生を心待ちにしたのが、彼女に罪悪感を与えてしまっているのか。
「きっとまた戻ってきてくれるから」
何をどう伝えるのが正解か。どれが彼女の心を救うのか。
「リリィ、愛してる」
そんな疑問ばかりの中で、口をついて出たのはそんな言葉だった。
「愛してる、リリィ」
「……ユウキ……」
皇女はついに泣き出してしまった。




