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「リリィ!」
皇女のアメジスト宮に半ば飛び込むように入ると、室内には数人のメイドたちに囲まれ、ベッドに皇女が座っていた。
「うるさいわよ、ユウキ」
のんきにお茶を飲んでいる皇女の姿に、倒れたと聞いていた勇樹は戸惑いを示す。
「リリィ……倒れたって……」
「倒れてはいないわ。ちょっと目眩がしただけで」
「大丈夫なのか?」
「わたしは魔法士よ。甘く見ないで」
「そうじゃなくて……」
皇女からの説明は得られなさそうだ。アメジスト宮の宮女長であるメイドに説明を求めると、彼女は黙って頭を下げた。
「おめでとうございます、ユウキ殿下。皇女殿下はご懐妊されています」
それに倣って、他の宮女たちもその場で膝をつく。
「……かい、にん……」
信じられない言葉に、勇樹はまずその言葉の意味を理解できなかった。
「……懐妊……って……リリィ……!」
ようやく頭の中で適切な漢字が思い浮かび、ハッと皇女を見る。
「そういうことね」
皇女はあっさりしているが、勇樹はすぐに皇女を抱きしめる。
「リリィ!リリィ、ありがとう……ありがとう……!」
「……ちょっと」
「あ……ごめん、苦しかったか?」
「苦しくはないけど……あなた、そんな暑苦しいキャラだったかしら」
「そ、そりゃあ、自分の子どもができたって知れば、嬉しくもなる」
「そういうもの?わたしは……まだわからないわ。ここに、子どもがいるなんて……」
お腹に手を当ててそう呟く皇女に、勇樹はそっとその手を覆う。
「俺にもまだわからない。が、男はそういうものだ。親心っていうのは、これから育っていくものだろ?」
「……そうね」
「リリィ、ユウキくん」
知らせを聞いたのか、皇太子と皇子2人もアメジスト宮に入ってきた。
「聞いたよ。おめでとう」
「リリィ~、おめでとう~!リリィの子なら、男でも女でもかわいいだろうな~」
「リリィ、ユウキくん、おめでとう。これから大変だと思うけど、頑張れよ」
「ありがとう、お兄様」
「ありがとうございます」
兄たちからの祝いの言葉に、皇女は冷静に答える。が、その顔は嬉しそうではない。
「しばらくは備品庫の仕事もしないようにね。あそこは忙しすぎる。仕事がしたいなら、もっと安静にできる部署ならいいから」
「……えぇ」
「代わりの人間を探さないとな。父上とキリエールに話してくる」
第三皇子ラキエルが、皇女が頷いたのを見て、宮を出ていく。
「あの……、リリィの代理なら、できます」
勇樹が名乗りを上げるが、
「いや、いいよ。人手がないわけじゃないんだ。ユウキくんは他にもやることがあるだろうし、備品庫のことは他に任せるよ」
「……わかりました」
それでは皇女が安心できないだろうと思ったが、皇太子に言われては反論できない。
それに、皇女に元気がないのにも気になる。せっかくだから、甘えることにした。
「ユウキ殿下、皇女殿下のご懐妊、おめでとうございます」
翌日、いつものように講義にきた公爵夫人も、まずそう言って頭を下げた。
「ありがとう。夫人、そのことで相談があるんだが」
「はい。なんでしょうか」
「こういう時、俺はどうすればいいのかわからなくて。妊娠がわかってから、リリィの元気がないのも気になるんだ」
勇樹の暗い顔に、公爵夫人は微笑みとともに答えた。
「簡単なことですよ。皇女殿下は心を許せる方が少ないとお聞きしております。初めての身体の変化に戸惑っていても、それを相談できる方が身近にいらっしゃらないのではないでしょうか。寄り添って気持ちをお聞きになるだけでも、皇女殿下は喜ばれるはずです」
あれからふさぎ込んだようになってしまった皇女が、簡単に口を開いてくれるとも思えないが。
公爵夫人はアメジスト宮への立ち入りを許されていないため、その状態を知らないのだ。
「夫人、この国の妊娠や出産はどういうふうに進んでいくんだ?男が関わることはあるのか?」
「もちろんでございます。庶民には男性の立ち合い出産というものが流行っているそうですよ。育児については、昔から男性が関わるのが当たり前です。殿下の祖国ではそうではなかったのですね」
「あ、いや……」
自分より下に弟や妹がいるわけではないため、詳しいことは知らないが、父は積極的に子どもに関わるような人間ではなかった。
しかしそれは、父がそういう人間だったというだけで、国としてそれを推奨しているわけではない。
「皇女殿下は魔法士ですから、立ち合い出産は不可能でしょう。しかしそれまでにできることはたくさんあります。これからしばらくは、そちらのお勉強を致しましょうか」
「あぁ、頼む。まず、この国の出産に関する医療は?どこまで発展しているんだ?」
「妊娠や出産は病気ではありませんから、医療に関係はありません。病院とは別の助産院という機関が関わります。しかし皇族の方々の出産には、助産院とは別の皇城助産師が関わるということになっています。陛下に任命頂いた選ばれた魔法士の女性のみで構成されるものです」
「……魔法士なのか……。魔法士と非魔法士で出産に違いはあるのか?」
「そうですね。魔法士の出産には、非魔法士が関わることはできません。命の危険を感じた時、万が一魔法が暴走してしまうと、魔法士でないと命に係わりますから」
先程言っていた『皇女は魔法士だから立ち合い出産は不可能』というのは、そういうことだったのか。
「出産とは命がけでございます。特に魔法士は、母や子の命に係わることがよくあります」
「……それは、どういう……」
「魔法士が妊娠すると、無事に出産まで終えられるのは50%。残りの半分では、流産や死産として子どもが生まれてこれない場合、そして出産直後や妊娠の途中で母親が命を落としてしまう場合が存在します。私も3人の子どもを亡くしましたし、私の妹は産後に子どもを残して死にました」
「……そうか……。すまない。辛いことを聞いてしまった」
「いいえ。これが現状ですから。幸い皇族の長い歴史の中で、母親が命を落とすケースは低いと聞いています。皇妃殿下は4人ものお子様をご出産されましたし、皇太子妃殿下も2人のお子様をご出産されています」
「……だが、子どもが生まれない可能性は……」
「ないとは言えません。魔法士の割合が高い皇族と公爵家にのみ独自の助産師がつくのは、それが原因なのです。ですから、どうか安心して皇城助産師にお任せください」
もっと前もって知りたかった。それを知っていれば、もっと皇女の身体を気遣ってあげられたのに。
「子どもが無事に生まれたとして、その後はどうなる?健康に産まれるのはどれくらいだ?何事もなく無事に育つのは?」
「魔法士が大きな病気をすることはありません。それは魔法を持って生まれた直後から変わりません。産まれてしまえば、多少の風邪や怪我を除けば、無事に育つと断言してもいいくらいでしょう」
「そうか……」
しかしそれまでのことを考えれば、決して安心はできない。
知ってよかったのか、知らなければよかったのか。
そんな複雑な気持ちが、勇樹には辛かった。
「リリィ」
アメジスト宮に戻り、ベッドに横になる皇女のそばに座る。
「リリィ、大丈夫か?」
「……そう、見える?」
ベッドの中から、弱々しい声が返ってきた。
「いや……見えない。なぁ、何を考えているんだ?俺にも言えないか?」
「……言ったところで、何が変わるの?」
「何も変わらないかもしれないが、何か変わるかもしれない。少なくとも、心が楽になる可能性はあると思う」
その言葉が届いたのか、皇女から返事が戻らなくなった。
「リリィ?」
寝てしまったのかと思い、確かめる意味で声をかけてみる。
「……わからないの」
その時、皇女の声が聞こえてきた。ベッドの上の膨らみに手を当て、勇樹は静かにその声に耳を傾ける。
「……子どもが、わたしのお腹にいるとは思えない。子どもを産むってことが、わからないの。もうお腹の中にいるのに。こんな母親、他にいると思う?」
「……いるだろう」
「いいえ、いないわ。世の中の母親は、子どもができた時からみんな幸せそう。わたしはダメな母親よ」
「それは違う」
「違くないわ。わたしは……わたしは、母親になれない」
これがマタニティーブルーというものだろうか。あんなに強い彼女でさえこうなってしまう。
「それを言うなら、俺だって父親になれないだろ」
「……え……?」
ようやく皇女の顔が布団から出てきた。
「俺に言わせれば、リリィは充分母親になる準備ができていると思う。そうやって落ち込んでしまうのも、俺がいたところではマタニティーブルーって言って、妊娠中の女性ホルモンの変動がどうとかで起きるものだ」
「……マタニティーブルー……?」
「そうだ。身体は母親になる準備を進めてるんだよ。ちなみに俺がリリィみたいに落ち込んでないのは、たぶんまだ父親になるっていう実感がないからだと思う。俺、子どもはけっこう好きな方だから、自分に子どもができるって聞いて嬉しいけど、正直弟とか妹みたいに思ってるのかもしれない」
「……」
「リリィ、焦らなくていい。十月十日っていって、子どもは1年近くお腹の中にいるって聞く。……あぁ、いや、こっちでは違うのか?でもまぁ、出てくるまでに時間はかかるだろ。だから、2人で親になっていこう。ベビーベッドとかおもちゃとか買ったり、名前考えたりさ。ゆっくりでいいんだ。リリィが1人で頑張ることもない。俺はリリィと違ってお腹の中で子どもが育つ感覚もないからさ、リリィがいろいろ教えてくれ。世の中の親は、そうやって親になっていくと思う」
「……ユウキ……」
皇女はまるで幼い子どものように、勇樹に手を伸ばす。彼はそんな彼女をしっかりと抱きしめた。
「大丈夫。俺も頑張るから。リリィ1人に頑張らせないように、今まで以上に頑張るからさ」
「……ん……」
皇女は短い言葉とともに、コクンと頷いた。
皇女の華奢な身体を抱きしめながら、勇樹も親になる決意を固めていた。




