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クロワッサン

作者: 赤さぶろう

 僕はクロワッサンが好きだ。


あの渦を巻くような不思議な造形、焼き立てのカリッとした感触、生地に練り込まれた甘いバターの風味。朝食に食べてもいいし、昼食に食べてもいい。スープやサラダがあれば、夕食に出て来ても僕はまったく問題ないと思っている。


僕にとってクロワッサンとはまさしく幸せの象徴だ。幼稚園に通っていた頃、毎朝出て来たのはクロワッサンだった。母は共働きだったが懸命に僕に愛情を注いでくれた。朝早く起き、洗濯物を洗濯機に入れ、ペットの器に朝ごはんを入れ、会社へ向かう父に鞄を持たせ、そして僕にクロワッサンを出して幼稚園へ送ってくれる。


あぁ、なんという幸せだろう。クロワッサンに練り込まれたバターのように甘く芳醇でコクのある、それが母の愛だった。


中学生の頃も僕は変わらずクロワッサンが好きだ。母は腰を痛めてしまったがサポーターを巻きながら、時には苦痛に顔を歪めながらも僕にクロワッサンを出してくれる。朝早く起き、腰を労わりながら洗濯物を洗濯機になんとか放り込み、誰も散歩に行かなくなったペットの散歩に行き、ほとんど家に帰ってこない父親を想い、そうして僕にクロワッサンを出す。


あぁ、なんと芳醇な香りを放つのか、このクロワッサンは。この焼き色、まるで茶色に輝く宝石のようだ、色や照りや弾力もまさしく理想的だ。そう、僕はクロワッサンが好きだ。


 高校生になると少しクロワッサンが嫌になってきた。毎日、毎日、朝はクロワッサンだ。まるで仕事上顔を合わせないといけないがそれほど好きではない同僚との関係のようなものだ。辟易すると表現すると若干言い過ぎな気はするが、僕は辟易の一歩手前の状態でクロワッサンと向き合っていた。


高校生になると、母は病を患って常に寝たきりという状態だった。家の中にある洗濯物は溜まる一方でほとんど洗濯機は動かなくなった、ペットはいつの間にかリードが千切れており家からいなくなっていた、父は間違いなく母の事を愛していたが愛と性欲というのは別なようで愛人を作って家にはほとんどいなかった、僕は冷凍されたままのカチコチのクロワッサンをテーブルの上に出してそれをしゃりしゃりとかじっていた。


僕にとってクロワッサンとはかけがえのないものだ。それは日常の象徴であり、過去を思い出す符号のようなものだ。過去の想い出はいつまでも色あせず、時間が経つ毎に想い出の中でその彩りをまったくもって鮮やかにしていく。


大学生になると、僕はクロワッサンを見るのが嫌になっていた。どれだけ嚙んでも味の変わらない面白みと味の奥深さがかけらもないクロワッサンは、まるで僕のどうしようもない未来と現状を表しているようで僕はクロワッサンを見るのが嫌になっていた。


僕が大学に入学するのを待たずに、母は持病の悪化でこの世を去ってしまった。もう、母が用意してくれたクロワッサンを食べる事は永久に叶わなくなってしまった。父は母が死去した三日後に愛人と共に行方を眩ませた。葬式は親族が協力して執り行ってくれたが、父方の親族のなんとも言えない顔が僕の心に強く残っている。


 僕はクロワッサンが嫌いだ。あの形状は母との優しい記憶を思い出す、あの色は父との数少ない記憶を思い出す、あの味は僕が育ったあの家を思い出す。もう、何も残っていないあの空の箱を思い出して、胸にぽっかりと空虚な穴が現れるのを感じ取ってしまう。


僕はもうクロワッサンは食べない。そうして、僕は残っていたクロワッサンをゴミ箱に放り込み、静かにその蓋を閉じた。もう、ここには僕しか残っていなかった。


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