第80話:一時の安らぎ
仁戦組での戦いの日々から久しぶりに解放された休日の夜、真美の嫁ぎ先である小鳥遊家の者たちを招き、結婚祝いとしてささやかな宴会を開く事になった渡辺家。
その最中に鈴音は酒を勧められるのですが…。
鈴音が久しぶりに仁戦組での戦いの日々から解放された、休日の夜。
鈴音の娘の真美が、かねてより親交のあった小鳥遊家への嫁入りが決まったという事で、小鳥遊家の親族たちを鈴音の自宅に招き、結婚祝いという事でささやかな宴が行われる事となった。
新鮮な野菜や山の幸、そして猪肉や魚をふんだんに使った、鈴音と真美の手作りの料理が乗せられた皿を、鈴音の息子の心太が次々とお膳の上に乗せていく。
これらの食材は全て心太が狩猟&収穫した物ばかりなので、材料費は全てタダだ。
そしてまだ収穫期では無いが、渡辺家の敷地内にある広大な田んぼでは、心太が精魂かけて育て上げた稲が伸び伸びと力強く生い茂っている。きっと秋になれば米が沢山実る事だろう。
普段は鈴音が仁戦組の用心棒としての仕事で収入を得てはいるのだが、基本的に渡辺家はこうした農作業や林業での自給自足によって暮らしているのだ。
「直樹君、しばらくぶりだなあ。」
「おおっ、紳助殿。壮健そうで何よりだ。」
そんな最中、今日の農作業を一通り終えて汗だくになって玄関まで辿り着いた、鈴音の夫の直樹に笑顔で話しかけてきたのは、小鳥遊家の当主の小鳥遊紳助だ。
他の小鳥遊家の者たちを引き連れた紳助が、がっしりと直樹と握手を交わす。
「今日は宴の席に我々を招いてくれて、本当にありがとう。」
「何、礼には及ばんよ。今日は真美の結婚祝いなのだからな。嫁ぎ先の小鳥遊家の皆さんを招くのは当然の事さ。ささ、どうぞ皆さん、遠慮しないで上がってくれ。」
直樹に促され、小鳥遊家の者たちが次から次へと渡辺家の玄関へと入っていく。
そんな愛する夫を、鈴音が穏やかな笑顔で出迎えたのだが。
「ただいま鈴音。今戻ったぞ。」
「お帰り、直樹…っと、紳助殿たちも来ていたのだな。いらっしゃい。」
「おお、これはいい匂いだ。」
「うむ。真美と一緒に腕に縒りをかけて作っている最中でな。もう少しで出来上がるから待っていてくれ。」
「何か手伝える事はあるかい?」
「いや、心太がほとんどやってくれた。直樹も紳助殿たちもしばらくの間、ゆるりとくつろいでいてくれ。」
「そうか。じゃあ是非そうさせて貰うよ。」
普段から親交があるというのもあるだろうが、仮にも客人である紳助ら小鳥遊家の者たちに対しての、鈴音のこのフランクな態度。
紳助たちも特に気にする事無く笑顔で応じている事から、小鳥遊家とは随分と友好的な付き合いをしているのだろう。
鈴音に案内されて大広間にやってきた紳助たちが、直樹と他愛無い雑談をしている最中、心太と真美が出来立ての料理を乗せたお膳を次々と運んでくる。
とても香ばしい香りが、直樹たちの食欲をそそったのだった。
「おおっ、これは美味そうだ。」
「待たせて済まなかったな、直樹。では早速頂こうか。」
「それじゃあ皆、今日は無礼講だ。鈴音と真美の料理を存分に楽しんでくれ。」
かくして直樹の音頭を合図に、真美の小鳥遊家への嫁入りが決まった事に対する祝いとして、ささやかな宴が行われたのだった。
鈴音と真美の手作りの料理を、誰もが太鼓判を押しながら口に運ぶ。
カボチャの煮物、肉じゃが、野菜の天ぷら、ほうれん草の和え物、猪肉のしぐれ煮、魚の塩焼き、雑穀米、らっきょう。
どれもこれも質素なメニューばかりだが、その全てが鈴音と真美の想いが込められている代物ばかりだ。
「ささ、鈴音君も、どうぞ一杯。」
そうして皆がとても楽しそうに鈴音と真美の料理を堪能している最中、自宅から持参した徳利から米焼酎を豪快に器に注ぎ、直樹と談笑しながら食事をしていた鈴音に差し出した紳助だったのだが。
「済まぬが私は下戸でな。酒は飲めぬのだ。」
それを鈴音は苦笑いしながら、丁重に拒否したのだった。
それでも紳助は全く聞く耳持たず、執拗に鈴音に米焼酎を飲むよう強要してくる。
「折角の祝いの席だというのに酒が飲めないだなんて、何を馬鹿な事を言ってるんだ。ほらほら鈴音君、ググッと一気に。」
これから100年以上もの長い年月が過ぎた後、この紳助の鈴音に対する行為はアルコールハラスメントと呼ばれ、社会的に問題視される事になるのだが。
見かねた直樹が鈴音を守る為に、執拗に器を差し出す紳助に訴えたのだった。
「紳助殿。鈴音は本当に酒が飲めない体質でな。以前、熱燗を一口飲んだだけで、べろんべろんに酔い潰れてしまった事があるんだ。」
「熱燗を一口飲んだだけで!?いやいやいやいやいや幾ら何でも弱過ぎるだろ!?」
「だから紳助殿のお気持ちは有り難いのだが、鈴音に酒を勧めるのだけは、どうか勘弁してくれないか?」
「そうか。あれだけの居合の達人だってのに、そんなに酒が弱いだなんてな。」
夢幻一刀流の正当継承者であり、この国で最強の戦闘能力を誇るとされる鈴音が、よもや熱燗を一口飲んだだけで酔い潰れてしまう程までに、酒をまともに飲めないとは。
つまりは鈴音を殺したければ、酒を一口飲ませれば済むという訳だ。
「鈴音の御父上も、生前は酒を飲めなかったと鈴音が語っていたしな。恐らく鈴音が酒を飲めないのは遺伝だろう。」
「うーむ…しかし宴の席で酒が飲めぬというのは、礼儀作法の面で色々と問題だと思うぞ?もし鈴音君が将軍様の酒席に招かれた時はどうするんだ?」
「こればかりは体質だからな。どうか鈴音を責めないでやっておくれ。」
そこまで酒が飲めない鈴音に対して、流石に無理に飲酒を勧める訳にはいかない。
仮にも鈴音は自分たち小鳥遊家の元に嫁ぐ真美の母親という、今後も縁を深めていかなければならない大切な存在なのだから。
自分のエゴのせいで鈴音の体調にまで悪影響を及ぼしてしまい、それに直樹や心太、真美が激怒して結婚が破談なんて事になってしまったら、洒落にならないのだ。
「鈴音君が酒を飲めないのが遺伝だというのであれば、もしかしたら心太君と真美ちゃんも…。」
「恐らくそうだろうな。心太は先月成人したばかりなのだが、俺が誘っても全然飲みたがらんし。真美はまだ18だから飲ませた事は無いのだが。」
「分かった。なら2人に無理に酒は飲ませないと約束するよ。」
「感謝する、紳助殿。」
鈴音が酒が飲めないと主張してもなお、
『酒を飲むというのは、大切な社交辞令や礼儀作法の一種だ。』
と言わんばかりに、鈴音に対して頑なに酒を無理矢理飲ませようとする者たちも本当に多いのだが。
そんな中で紳助は話が分かる男性で本当に良かったと、直樹は心の底から安堵したのだった。
「よし、ならばうちの店で最近取り扱いを始めたばかりの、この新製品の宇治茶を振舞おうじゃあないか。おい広子。こいつを鈴音君に出してやってくれないか?」
「おおっ、こんな高価そうな茶葉を鈴音の為に、かたじけない。」
「何、鈴音君には新製品の実験台…じゃなかった、味見をして貰おうと思ってな。」
「おいおい物騒だな。一体この茶葉に何が入っているんだよ。はっはっは。」
笑い合う直樹と紳助を、鈴音がとても幸せそうな笑顔で見つめていたのだった。
やがて宴が終わり、小鳥遊家の者たちが帰宅し、心太と真美がすっかり寝静まってしまった、もうすぐ日付けが変わろうとしている夜。
同じ敷布団の上に座りながら、寝巻に着替えた鈴音と直樹が穏やかな笑顔で見つめ合っていた。
先程まで騒がしかった渡辺家の敷地内は一気に静まり返り、リーンリーンというコオロギの心地よい鳴き声が響き渡っている。
庭ではホタルが淡い光を放ちながら飛び回っており、美しい月と星々の光に包まれながら。とても幻想的な光景が繰り広げられていた。
「先程の宴の際は助かった。礼を言うぞ、直樹。」
「何、礼には及ばんよ。妻を守るのは夫としての当然の責務さ。」
酒が飲めない鈴音に対して紳助が酒を振舞おうとした際に、直樹が止めてくれた事を鈴音は感謝しているのだが。
今後、鈴音が仁戦組で八面六臂の活躍を続ける内に、紳助が苦言を呈したように、その功績を労おうと徳山家に酒席に招かれる機会が有り得るかもしれない。
その際、仮にもこの国の頂点に立つ征夷大将軍からの誘いを、酒が飲めないからという理由で断るなどという事になったのなら、
『将軍様からの直々の誘いを断るとは、何という無礼な女なのだ。』
『こんな奴が仁戦組に加わっているのか。』
『隊長の権藤は一体どういう教育をしているんだ。』
などというように、鈴音の…いいや、下手をしたら仁戦組全体の評判にも影響しかねないのだ。
『飲みニケーション』という言葉があるように、いつの時代も『酒を飲む』というのは、大人の社交の場において絶対に必要不可欠だとされている代物だ。それくらいの事は鈴音とて理解はしていた。
だが、それでも。
「そなたも知っているように、私は酒だけはどうにも駄目でな。」
「鈴音が気にする事じゃないさ。周りから何を言われようが、鈴音の健康が一番大事に決まっているじゃないか。」
鈴音の右手を両手で優しく包み込み、じっ…と鈴音を見つめる直樹。
男顔負けの居合の達人である鈴音ではあるが、その右手は直樹が強く握ると壊れてしまいそうな程までに、女性特有の細くて美しい代物だった。
鈴音が酒が飲めない事をどれだけ周りから誹謗中傷されようとも、鈴音の健康が一番大事に決まっている。
熱燗を一口飲んだだけでべろんべろんに酔っぱらってしまうような鈴音が、周囲に強く勧められたからと言って無理に酒を飲んだ結果、最悪命を落とすような事態になっては洒落にならないのだ。
今、直樹の目の前にいる大切な女性を、そんな下らない事で死なせてしまう訳にはいかない。
「もし鈴音に無理に酒を飲ませようとする連中がいたら、俺が猛烈に抗議してやるよ。例え将軍様が相手でもな。」
「そなたは本当に心強いな、直樹。」
「はっはっは。ただの農家でしかない俺如きでは、腕っぷしでは夢幻一刀流を極めた鈴音には全然敵わないけどな。だけどこんな俺でも、鈴音を守る盾くらいにはなってやれるよ。」
目の前で豪快に笑う直樹は、単純な戦闘能力では鈴音よりも遥かに劣る。
だがそんな直樹の笑顔を、鈴音はとても頼もしく感じていたのだった。
この人の妻になる事が出来て、私は本当に幸せ者だと。
明日になれば鈴音には、また仁戦組での反幕府連合との激しい戦いが待ち受けている。
こんな仕事をしているのだ。鈴音はいつ戦場で命を散らしてしまうか分からない。
それでも鈴音は夢幻一刀流の免許皆伝を果たした際、師匠の元を去った際に1つだけ言われた事があるのだ。
死ぬ覚悟ではなく、貴女が愛する人たちの為に、生きる覚悟で戦いなさい…と。
そう、鈴音はまだ死ぬ訳にはいかない。愛する直樹と、そして心太や真美の為にも。
自分が戦死した時の為に幕府に色々と根回しをしてはいるが、それでも鈴音はむざむざと殺されるつもりなど微塵も無いのだ。
今、自分の目の前にいる愛しい人と、生涯を共に暮らしていく為に。
「…直樹。」
鈴音が自らの上着を静かに脱ぎ、顕わになった美しく豊満な左胸を、直樹の右手首を優しく掴んで右手で揉ませる。
鈴音は幸せそうな笑顔で、甘い吐息を漏らしながら小さく喘いだ。
「私はもう既に40になってしまったBBAだが…。」
「何を言っているんだ。鈴音は世界で一番美しい、俺だけのBBAだよ。」
「…馬鹿。」
顔を赤らめながら、鈴音は直樹の首に両手を回し、唇を重ねる。
身を絡め愛し合う直樹と鈴音を、月と星々の光が優しく包み込んでいたのだった。
次回、ラスボス登場。
仁戦組の勢いは止まる事を知らず、次から次へと反幕府連合の浪士たちが倒されていきます。
その状況を打破する為に、反幕府連合に用心棒として雇われたのは…。