第36話:出発前夜
サーシャとの模擬戦闘訓練を終えた太一郎は、夜中にベランダで物思いにふけるのですが、そこへサーシャがやってきます。
ふと太一郎は、サーシャなら自分たちにかけられた『呪い』を何とかしてくれるのではないかと思い、一か八かでサーシャに『呪い』について明かそうとするのですが…。
無事にサーシャとの模擬戦闘訓練を終えた太一郎は、サーシャの手作りの美味しい夕食を堪能した後、お風呂に入ってパジャマに着替え、城のベランダから美しい城下町の夜景を眺めていた。
いよいよだ。いよいよ明日の朝8時から、聖剣ティルフィングが安置されている聖地レイテルに、調査任務として赴く事になる。
聖地レイテルの詳細な地図も、聖剣ティルフィングが安置されている場所も、聖剣ティルフィングの使い方さえも、情報屋が提供してくれた情報を元に、全て完璧に太一郎の頭の中に入っていた。
ただし情報屋が懸念していたエルダードラゴンとの遭遇は、どうしても避ける事は難しそうではあるのだが。
出来れば話し合いに持ち込み、平和的に聖剣ティルフィングを手に入れる事が理想なのだが、それが無理なら戦う以外に道はない。
ドラゴンとの戦闘自体は、太一郎も実は初めてではない。近隣の村に住み着いた、知能の低い野良の低級ドラゴンなら、討伐した経験が何回かあるのだ。
だが今回の相手は、これまで太一郎が鼻クソをほじりながら討伐したような雑魚ドラゴンなどではない。
Aランクの冒険者6人を簡単に壊滅させる程の力を持った、伝説の聖獣なのだ。
例え太一郎と言えども、決して楽に戦えるような生易しい相手では無い。相当な苦戦を覚悟しなければならないだろう。
しかし肝心の問題は、その後だ。
今回の調査任務では、サーシャがヒーラー役として同行してくれる事になったのだが、肝心の聖剣ティルフィングを手に入れた後、サーシャが聖剣ティルフィングをどうしようと考えるかだ。
聖剣ティルフィングが聖地レイテルに安置されているという情報に関しては、シリウスの態度から考察するに、知っているのは太一郎と真由だけだと見て間違いはなさそうだ。
だが聖剣ティルフィングの存在を知ったサーシャが、国同士の醜い争いを避ける為、厳重に封印すると言い出してしまったら。
いや、サーシャの性格なら十中八九そうなるだろう。何故なら伝説の武器の所有権を巡り、国同士での醜い戦争にまで発展してしまった事例が実際にあるのだから。
その場合、せめて封印する前に、少しだけでも使わせてくれればいいのだが…もしサーシャがそれを拒否した場合は、また一から振り出しに逆戻りだ。
だから理想なのはサーシャよりも先に聖剣ティルフィングを手に入れ、とっとと『呪い』を解いてしまう事なのだが。
最悪の場合、サーシャから強引に、それこそサーシャと戦ってでも、聖剣ティルフィングを奪取する事を考えなければならないが…。
駄目だ。論外だ。太一郎はその考えを即座に否定したのだった。
何故ならそんな事をすれば、太一郎は即座に犯罪者の仲間入りだからだ。フォルトニカ王国には二度と戻れなくなってしまうだろう。
いや、それ以前の問題として、太一郎はサーシャと戦いたくなんかない。サーシャを敵に回したくなんかない。
利害関係だとか有利不利とか、そんなチャチな代物では断じて無い。
太一郎は、サーシャを傷つけたくないのだ。サーシャに嫌われたくないのだ。
その場合、何とかしてサーシャに事情を説明出来ればいいのだが…そんな事をすれば当然待ち受けるのは、『呪い』による報復、口封じが…。
「太一郎さん?」
必死に頭をフル回転させている太一郎に声を掛けて来たのは、自分と同じくパジャマ姿のサーシャだった。
風呂上り特有の色気、パジャマという薄着だからこそ強調されるサーシャの身体のボディライン、そしてシャンプーやボディーソープのとてもいい匂いが、太一郎の心をドキドキさせてしまう。
太一郎とて健全な男性だ。そりゃあ人並みの性欲位はしっかりと持ち合わせているのだ。
いきなり目の前にこんな無防備な姿を晒している可愛い女の子が現れたら、太一郎だってドキドキしてしまうのは当たり前だ。
それでも平静を装いながら、太一郎は穏やかな笑顔でサーシャに語り掛ける。
「サーシャ、こんな時間に一体どうしたんだい?」
「ちょっと、夜風に当たりたくて。太一郎さんも?」
「うん。僕もちょっと考え事をしていて、頭を冷やしたくてね。」
太一郎の隣に寄り添い、太一郎と同じように、ベランダから城下町の美しい夜景を見つめるサーシャ。
この3か月間、太一郎と真由が命懸けで戦い、守り抜いてくれた光景だ。
自分たちの勝手な都合でこの世界に召喚し、戦いの中に放り込んでしまった…だがそれでも太一郎も真由も3か月もの間、この国の為に命を賭けて戦ってくれたのだ。
太一郎と真由がいてくれなかったら、本当にこの国は今頃どうなっていたか…それを思うとサーシャは今になってゾッとしたのだった。
そんな太一郎と真由を、サーシャは聖地レイテルという危険地帯に、調査任務として連れて行かなければならない。
何しろ相手は伝説の聖獣とまで呼ばれているエルダードラゴンだ。生半端な戦力では調査に向かわせた所で、逆に殺されるだけだろう。
だからこそ、太一郎と真由を連れて行かなければならない。いや、他に頼れる人材がおらず、連れて行かざるを得ないのだ。それがサーシャには何よりも心苦しかった。
「明日はいよいよ、聖地レイテルに足を踏み入れるのですね。」
「うん。出来ればエルダードラゴンとは戦わずに済めばいいんだけど…。」
「そうですね。ですがもしエルダードラゴンが人々に危害を加えるというのなら、私たちは人々を守る為に討伐しなければなりません。」
「そこに善も悪も無い…守る為に…か…。」
「ええ…。」
エルダードラゴンとて自分の住処を守る為に、不法侵入してきた冒険者たちを壊滅させただけなのかもしれない。
あるいは冒険者たちが自分に危害を加えようとしたから、正当防衛として壊滅させただけなのかもしれない。
詳細は実際に聖地レイテルでエルダードラゴンに聞いてみないと分からないが、それでも太一郎が言うように、そこには善も悪も無いのだ。
仮にエルダードラゴンに悪意が無かったとしても、仮に自らの守りたい物の為に人々を襲うのだとしても、それでも人々の脅威と成り得るのであれば、エルダードラゴンを討伐しなければならない。
残酷な話だが、話し合いが通じないのであれば、サーシャもこの国の王女として、調査任務の指揮官として、太一郎たちにそう命令するしかないのだから。
それでも昨日の模擬戦で証明されたように、サーシャとて一馬を圧倒し、太一郎と互角に渡り合った程の、優秀な剣術と精霊術の使い手だ。
エルダードラゴンが相手といえども、そう簡単に後れを取ったりは…。
(…いや、ちょっと待て。)
ふと、太一郎は思いついた。思いついてしまった。
そう…サーシャは『優秀な精霊術の使い手』なのだ。
もしかしたら…もしかしたらサーシャなら、シリウスが自分たちに掛けた『呪い』を、精霊術で何とかしてくれるのではないだろうか。
今ここでサーシャに『呪い』について話そうとした場合、一体どれだけの苦痛が太一郎たちに襲い掛かる事になるのか。それは太一郎にも想像は付かない。
当然だろう。太一郎は『呪い』の発動条件を全て完璧に把握しており、だからこそ他の第三者に『呪い』について話そうとした事など、ただの一度も無いのだから。
だがそれでも、試してみる価値はあるのではないか。
真由や一馬たちには一時的に『呪い』による苦痛が、どうしても襲い掛かってしまう事になるだろうが。
それでも本当に可哀想だが、今この場では我慢して貰う事にしよう。
「サーシャ。」
「はい?」
真由や一馬たちには本当に申し訳無いと心の中で謝罪しながら、覚悟を決めて意を決した表情で、太一郎はサーシャに向き直る。
きょとんとした表情のサーシャに、太一郎が真実を明かそうとした…その瞬間。
「実は、僕たち転生者は…っ!?」
突然太一郎に襲い掛かった、何かに心臓をわし掴みにされたかのような、凄まじいまでの悪寒、目眩、恐怖、吐き気、拒絶反応。
肉体的な苦痛は一切無い。だが太一郎の精神に突如襲い掛かった、言いようのない理不尽な「圧力」。
【ファファファファファ…。】
そして太一郎の頭の中に、女性の醜い笑い声のような物が響き渡った。
耳にしただけで気分を害するような、凄まじい悪意に満ちた、太一郎を馬鹿にするかのような、気持ち悪い笑い声。
【死にたいのかえ?】
太一郎の耳元に囁くかのように、『呪い』に苦しむ太一郎を嘲笑いながら、『呪い』からの警告が告げられた。
駄目だ。これ以上サーシャに『呪い』について話す訳にはいかない。
太一郎は直観的に感じたのだ。もし太一郎がサーシャに『呪い』について明かした際に襲い掛かる強烈な苦痛は、太一郎なら数分程度なら耐えられる自信はある。
だが真由や一馬たちでは突然のたうち回り、数秒持たずに発狂し、最悪地獄のような苦しみから逃れる為に自殺しかねない…到底耐えられるような代物ではないという事に。
「…はぁっ…はぁっ…はぁっ…!!」
全身から冷や汗がタラタラ流れている太一郎を、サーシャがとても心配そうな表情で見つめていたのだった。
「た、太一郎さん!?一体どうなされたんですか!?顔色が凄く悪いですよ!?」
(くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそおっ!!)
恐らくはシリウスが口封じの為に仕込んだ、自白防止機能か何かなのだろう。
そしてこの『呪い』は連帯責任系の代物…自分1人だけなら耐えられるが、それで真由や一馬たちにまで地獄のような苦しみを味合わせる訳にはいかないのだ。
全くとんでもない事をしてくれた物だと…太一郎は苦虫を噛み締めたような表情になる。
「…な、何でも無い、何でも無いんだ。大丈夫だよ、サーシャ。」
「…太一郎さん…。」
本当は大丈夫じゃないのに。目の前のサーシャに助けを求めたいのに。
それが出来ない悔しさ、もどかしさ、理不尽さが、太一郎を心を容赦無く削っていく。太一郎の精神を容赦無く追い詰めていく。
だが、それでも。
真由や一馬たちの為にも、こんな事で太一郎が『呪い』に屈してしまう訳にはいかないのだ。
「そんな事より、明日は早い。今日はもう休もう。」
「え、ええ…。」
「お休み、サーシャ。また明日な。」
「お、お休みなさい、太一郎さん。」
務めて冷静を装い、穏やかな笑顔でサーシャに手を振り、自室へと戻る太一郎。
そんな太一郎の後ろ姿を、心配そうな表情で見つめるサーシャ。
(太一郎さん、貴方は一体何を抱えていらっしゃるのですか…?どうしてそんなに辛そうな顔をしていらっしゃるのですか…?)
もう3か月も太一郎とずっと一緒にいるのだ。太一郎は自分やクレアの事をとても頼りにしてくれているという事を、サーシャは充分に理解していた。
そして何かあったら遠慮せずに、情け容赦無くズケズケと、すぐに自分やクレアに相談を持ち掛けてくれるはずだという事も。
その太一郎が明らかに悩み、苦しんでいる事があるのに、自分には一切相談しようとしないのだ。
それはつまり太一郎が、自分には相談出来ない『何か』を抱えているという事だと…サーシャは即座に理解したのだった。
(大丈夫…大丈夫だ…!!聖地レイテルで聖剣ティルフィングさえ手に入れてしまえば…!!僕たちはこんな理不尽な苦しみから解放されるかもしれないんだ…!!)
心の中でそう言い聞かせながら、自室に戻った太一郎はよろめきながらベッドの上に倒れ込み、心を落ち着かせる為に深呼吸したのだった…。
そして、翌日の朝8時前。
ケイトが運転する馬車に乗ったサーシャを取り囲むように、防衛フォーメーションを敷く、馬に乗った太一郎、真由、一馬ら転生者たち。
彼らの後方には伝令役や物資の運搬役などを担当する、サポート役の5名の兵士たちが随従している。
そんな彼らを大勢の王都の人々が、盛大な歓声を上げながら見送りに来ていたのだった。
いかにエルダードラゴンと言えども、『閃光の救世主』なら必ず何とかしてくれるはずだと…この時の国民の誰もが、それを信じて疑ってはいなかった。
まさかこの数日後に、あのような理不尽な悲劇が国中に広まる事になるなど…この時の誰もが思いもよらないまま…。
「それでは女王陛下。行ってきます。」
「いいわね?安全第一に。そして必ずここに帰ってくるのよ?貴方たちの帰る場所はここなのだから。」
「はっ!!」
見送りにやって来たクレアに、決意の表情で敬礼する太一郎。
そして午前8時を告げる鐘の音が、盛大に王都中に鳴り響いた。
それを合図に馬車から顔を出したサーシャが、太一郎たちに命令を下す。
「時間です!!聖地レイテル調査部隊、出発します!!」
「「「「了解!!」」」
サーシャの呼びかけに応じる、太一郎、真由、ケイト。
呼びかけに答えず、サーシャに対して不服そうな表情を見せながらも素直に従う、一馬ら『ブラックロータス』の少年たち。
(いよいよだ…遂にこの時がやって来たんだ…!!必ず聖地レイテルで聖剣ティルフィングを手に入れるんだ…!!)
決意に満ちた表情で、太一郎は自らが搭乗する馬に優しく鞭を当て、軽快に馬を走らせたのだった…。
次回はパンデモニウムが舞台です。
聖剣ティルフィングの情報を掴んだ魔王カーミラですが、同時にフォルトニカ王国の転生者たちが聖地レイテルに向かっている事も知らされ、イリヤとアリスに聖剣ティルフィングの入手と、『閃光の救世主』との対話を命じます。
快く引き受けるイリヤとアリスですが…。