『やまない音』
「雨、止まないね」
雨樋を伝って春雨がドパドパと地面に落ちる。
雨の滴が地面を元気に跳ねて、コンクリートの窪みに溜まっていく。
ついてないよねー、などと悪態を吐きながらも、芽衣は顔の筋肉が緩んでしまうのを悟られないように下を向いた。
陽介と最後に歩く帰り道。まっすぐ帰るいつも通りの道に、今日の通り雨は本来存在するはずのないふたりの時間を作ってくれた。
「ついてない」なんて言葉とは裏腹に、芽衣はこの僥倖を噛み締める。
ちらりと横目で陽介の横顔を見やった。
長く揃った睫毛の先に雨粒が重なっている。
軒先で雨を見つめるその瞳から、芽衣は陽介が刻んできた自分より長い2年間の軌跡を感じた。
2つも歳が離れれば、高校生にとってみると大人も同然だった。毎日小学校の帰り道に花の蜜を一緒に吸って帰っていた陽介はもういなかった。高校の3年間というものは、人をここまで泰然とさせるのかと芽衣は思った。
「止まないな」
低く、それでいてはっきりと鼓膜に届く伸びのある声。陽介の声は芽衣の浮ついた心をゆっくりと平常に戻す。
「まさか空まで涙を流してくれるなんて。幸せもんだよ俺たち三年生は」
カラカラと笑いながら、陽介はブレザーの袖で涙を拭うフリをする。睫毛に乗った小さな春雨の涙はあっさりとブレザーに吸収されてなくなった。18年という月日が過ぎて、体も心も成長しても、こうして戯けて見せるところは変わっていない。中身はお調子者のみんなのお兄さんだった。
芽衣は、場を和ませてひとしきりふざけた後の陽介の穏やかな笑った顔が好きだった。どっ、と周りが沸いたあとの一瞬の気の緩み。アーティストのライブが一曲終わったあとみたいに、数秒だけ陽介の中で時が止まる瞬間。
「この駄菓子屋も、だいぶ通ったなあ……もう潰れちゃったけど」
「陽ちゃん、あれ好きだったよね。蒲焼さん太郎。いまだに覚えてるもん」
「お年玉握りしめて、あれだけ買い占めたやつな。駄菓子屋のばーちゃんびっくりしてたよな。懐かしい」
小学生の頃に通った駄菓子屋は、芽衣が高校に上がる前に潰れてしまった。店舗だけは取り壊されずに残っているため、こうして軒下で雨宿りをしたり、友達と少し喋ったりと、休憩所感覚でいまだに利用されている。
その場所自体がなくなっても、こうしてずっと誰かとずっと時間を共有する場所として生き続けている。
───陽介が高校を卒業して遠くに行っちゃっても、私との繋がりはまだあるのかな。
この駄菓子屋のように、忘れ去られることなく、陽介と一緒に時間を刻むことはできるのだろうか。
16年間、物心ついた時からずっと一緒にいた陽介は春からイギリスの大学に行く。外国に行っても、こうして二人で一緒に過ごせるのだろうか。
陽介の門出を祝う気持ちとは裏腹に、筆舌に尽くしがたい焦燥感に芽衣は時折飲み込まれそうになる。
降り続く大粒の雨が、桜の花びらを散らしていくように、自分と陽介の関係も綺麗になくなってしまうのではないか。
あとに残るのは雨に濡れた地面と、寂しそうに揺れる枝だけ。
「……陽介、向こうに行っても───」
私のこと、忘れないでね。
押しつぶされそうな気持ちで発した言葉は、雨音の中に消えた。
ん?と陽介が芽衣を見る。
芽衣の葛藤など微塵も気にしないかのような間延びした声。
「頑張ってねって言ったの。ずっとやりたかったことなんでしょ。翻訳の勉強」
「おう、ありがとう。この町から出ることになっちゃうのは少し寂しいけどな。いつかまた戻ってくるよ」
少し寂しいけど、そう言った陽介の言葉には寂しさよりも期待や希望が含まれているような気がした。
いつかまた、そう芽衣に発した約束は、まるで永遠に叶えられることのない口約束のような気がした。
「私、大きくなったら陽ちゃんと結婚するの」「じゃあ僕も芽衣と結婚する」子供の頃に芽衣の部屋で二人で結んだ可愛らしい告白と同じ類の。
「芽衣もこっちでしっかり頑張れよな。あと2年、高校生活ってすぐ終わるぞ。やりたいことしっかりやって、後悔だけはすんな」
前面の道路にトラックが通った。
大きなタイヤが濡れた地面を走って、水溜りを割った。勢いよく跳ねた飛沫が白線の内側まで飛んだ。
後悔だけはするな───陽介がいなくなってしまえば、この気持ちは後悔になって、いずれ時が経てば小さく萎んでしまうのだろうか。
きゅっと結んだ唇から思いが溢れてしまいそうになる。
なみなみと水を注いだコップに蓋をしたけれど、陽介とこうして喋るだけで、注いだ水がコップの内側からどんどん増えて蓋を押し上げていく。せめて言葉にできないのなら、この時間がずっと続けばいいのに。
「私のやりたいこと……」
ローファーに染みる雨粒を見つめて呟く。隣で呑気に話しかける陽介にも聞こえるだろうか。
「陽介が向こうで思い出す思い出が"わたし"になればいい」
陽介がこっちで自分と過ごした16年間が、この通り雨みたいに穏やかにゆっくり流れていかないように───。芽衣は陽介に目をやった。
アスファルトを元気に跳ねていた大粒の雨は、雨宿りをしているうちに小さな粒になって、水たまりに溶けていくようになった。
「陽介、向こうに行っても私のこと忘れないでね」
しゃんと伸びた背筋を、雨粒が乗る睫毛を、艶のある唇を、陽介の全部を覚えておこう。私を思い出してもらえるように。
芽衣の圧に異様な空気を感じたのか、陽介は口を閉じたままだ。
「私との16年間を忘れないでね。私はきっと、陽介のことを忘れないから。おちゃらけてみんなの輪の中心にいる陽介も、英語の勉強を1日も欠かさなかったことも、頑張ってるところを誰にも見せないところも、全部覚えてるから」
ふぅ、と息を吐く。飛び出しそうな心臓を、内側から突き上げる心音を、芽衣はしっかり感じた。告白したわけでもないのに、と自嘲気味に笑う。
「芽衣」
陽介が、ゆっくりと落ち着いた声で芽衣の名前を呼んだ。その二文字は、弾けて飛び散りそうな芽衣の心を瞬発的に凪にした。
「なんだ急に!お兄ちゃん嬉しくて泣いちゃうぞ。俺と離れるのがそんな寂しいのか」
わしわしと芽衣の頭を雑に撫でながら、陽介は間延びした声で軽口を叩いてみせた。
「やっぱ16年一緒いると離れたくねーよな。わかるぞ」
違う。そうじゃない。私が伝えたいのは───。
きゅっと口を芽衣は結ぶ。
骨張った大きな陽介の手を芽衣の小さな両手で掴んで、ぐいっと離す。思いの外陽介の力が強く、引き剥がすのが難しい。
「ちが───私が伝えたいのは……!」
「わかってるから」
芽衣の言葉に強引に被せるように、陽介の声が響く。低く、鋭いのに温かい。
ぽたり、と駄菓子屋の屋根から一粒の滴が滴った。太陽の光を反射して、濡れたアスファルトに光の道ができる。
「雨、止まないね」
今度は陽介の言葉だ。雨樋を伝っていた春雨はその激しさを忘れ、ポタポタと粒になって地面に滴る。
「話したいことがあるんだ。もう少し雨宿りしよう」
雲が切れて青空が覗く。
心臓の音がやけに耳に響くのは、きっと、雨が上がったせいだ。芽衣はゆっくりと陽介を見上げた。
陽介の濡れた睫毛はもう乾いていたし、芽衣のローファーに染みた雨粒ももう跡形もなかったが、今日のこれからの雨宿りは芽衣と陽介が真っ先に思い出す記憶になる予感がした。