(8)
『わらわはあの子に、声をもらうこと、そしてそなたをここに近づけさせないことの二つを条件に、そなたとあの子の事故をなかったことにした。しかしそなたはここに来て、あの子との約は一つ破られた。契約は絶対じゃ。美月はもう戻らぬ』
白の掌の奥から聞こえてきたその声に、蓮斗はもう一度、現実に引き戻された。
長いような、短いような、不思議な夢を──いや、現実だ。現実に遭った事故だ。
けれど今の今まで、あの事故を蓮斗は記憶していない。確かに中学三年の夏に塾に通っていたし、その塾の目の前で暴走車による事故はあったが、蓮斗も、美月も、遭遇していないことになっている。家族も、友人も、そんな記憶はないのだ。
……これが、神の力なのだ。
あったことをなかったことに。喪われたものを取り戻して。
だから、存在していたものを消すことだって──
『あの子の存在はわらわが消した。もう諦めよ』
そこまで考えたところで、耳に滑り込んできたのは酷く厳然たる言葉だった。大切な幼馴染に少しだけ似ているくせに、告げることは容赦がない。
腹の中で抑え込まれていた怒りが、その言葉を受けて一気に噴き上がる。
爆発した怒りは遠慮解釈もなく、神へとその熱と共に向かった。
「……ふ、っざけるなっっっ! 何でだよ、何で美月なんだよ! あんたとの約束を破ったのは俺が勝手に行動したからだ! 消すなら俺を消せばいいだろ!?」
叫んだ声に喉が少しだけ痛んだような気がする。吊り上がった目はもう戻らないのではないか。
そんなことを思うほどに、彼は必死だった。
そして、蓮斗を見て、神はゆっくりと、ただ、首を振る。
横に。
『ならぬ。契約したのは美月じゃし、その申し出はあの子自身が望まぬ。もう諦めよ』
繰り返された言葉は悲しみを伴っていた。
見つめている視線には水分が含まれていた。
けれど、自分でいっぱいいっぱいな蓮斗はそれに気づかない。
嘘だ、諦めよ、そればかりを数回繰り返した頃、結局彼が出した答えは、
「っ、じゃあ! だったら! 俺が美月を見つけてやる! どこに隠れていても、どこに隠されていても、必ず見つけてやる!」
彼女を探し出すことだったのだ。
それだけを最後に叫んで、蓮斗は祠に背を向けて、神社の鳥居さえも飛び出して、走って行ってしまった。
変えられぬもの。変えられるもの。
神はそれを見ながら、眉を寄せた。
『──本当に、これで良かったのかの?』
掛けた声は、神楽鈴に似た声で返される。
『良いんです。私は蓮斗くんを守れた。守られた命を返しただけ。……だからっ、幸せ、なんです……』
祠の後ろから、透明化した美月が現れて、微笑む。優しく穏やかな雰囲気でありながら、けれども滴を湛えた目元は隠せていない。
綺麗な彼女の瞳はあの時と変わらず、ただ真っ直ぐと、彼の背を見つめる。
『水月様、ありがとうございます』
そう言いながら深く頭を下げる彼女を見て、神──水月は、遠い遠い過去を脳裏に広げた。
……急激に迫ってきた雨雲が、その先鋒を落としてくる音を聞きながら。
*
境内を飛び出して、竹林を走り抜けて、田畑の揃いを横目に映し、辿り着いたのは川の土手だった。
「隆義様、お待たせいたしました!」
土手の端、大きな杉の樹が優しく腕を広げているその真下にいる人の姿が嬉しくて、少女は走ってきた勢いのまま、その腕に飛び込む。
「水月どの、久しいな。元気にしておったか?」
そしてその人は、朗らかに笑いながら、優しい力で彼女を受け止めてくれたのだ。
走ってきた少女は水月。白の着物に緋袴を身につけ、腰下まで届く長い黒髪を紺桔梗と紅桔梗で縒った髪紐で一本に纏めた、巫女装束の娘である。
受け止めたのは甲野隆義。榛色に菜種油色の袷を着て脇差と長刀を腰に佩いた、武士姿の青年だった。
二人は数年前に、隆義が戦で刀傷を受けてこの近くで静養していた折に出会ったのをきっかけに仲を深め、互いに自身の真ん中に相手を据えるような存在となっていた。今は傷も治癒し、隆義は主家の主人の許でその力を奮っているが、休みの度にこの石橋の地に来ては、水月と逢瀬を重ねている。
「ええ、とても元気にしておりました。隆義様はお元気でしたか?」
「ああ。貴女の祈りが俺に届いて守ってくれておる。もう怪我などせんよ」
「それは嬉しゅうございます。いつもあなた様を想って祝詞を唱えておりますゆえ」
頬を染めて青年を見上げてくる少女は、ちょうど花真っ盛りの時期であり、匂い立つような色気を放っていた。それが愛しい人との逢瀬で倍増されているものだからいけない。巫女装束という潔斎を意味するものを纏っているものだから特に。
腕の中の彼女を見下ろして、隆義はそっと、抱き締める腕に力を込めた。その胸元にすり、と頬を寄せて、さらに抱き締める腕が強まって、と、久方ぶりの逢瀬を楽しんでいる。
少し抱き締める力を強くしてみたり、合わせた手を擽ってみたり。笑い合っては身体を寄せる。
そんな時間を愛しく感じていた。
水月はこの石橋の地を守る神社で神官をしている者の娘で、自身も巫女をしている。朝は日の出前に起きて禊を行い、それが終わったら祝詞を唱えて神の御心を安定させ、午後は祈りに費やす。特に今は大きな戦が起こっているというのだから、その時間は格段に長くなっている。
その時間の合間を縫っての、逢瀬だった。
「その髪紐、よく似合っておる。暗い色かと思ったがなかなか映えるな」
水月の髪を纏めている髪紐に目を向けて、隆義は言った。それはちょうど、一ヶ月ほど前の逢瀬の際に、よければ身につけてほしいと贈られたものであった。
少しだけ肩の辺りを擽る髪紐の端を手遊ぶ、骨張った青年の手を視界に入れながら、水月は少しだけ目を俯かせてその瞳に喜色を乗せる。
「そう言っていただけると嬉しゅうございます。……あの、隆義様。あの、ですね」
「……ん?」
もじもじとしながら見上げてみたり指を組み替えてみたりしながら、彼女は次の言葉を言おうか言わまいかと口を動かす。頬はすでに真っ赤だ。
それを根気強く待って、出てきたのが、
「あの、隆義様は、桔梗の花言葉をご存知ですか?」
だったものだから、隆義は笑うしかなかった。
「はははははっ! うん、ああ、知っているよ。だから貴女にそれを贈ったのだ。自分の心がそうであること、貴女もそうであって欲しいという願いもあってね」
もう一度強く腕の囲いを狭めれば、水月は伸びをして、隆義の耳元に内緒話を。
──私も、そう思っておりまする……。
そうやって、近くで顔を見合わせて、笑ったのだった。
*
「お父様、何かご用事ですか? 私、少し、村の方に用事があるのですが……」
水月は落ち着きなくそわそわとしていた。あの、隆義との逢瀬から数日後、本日はまた隆義が主人の許へと戻る日だからだ。後四半刻もしないうちに、彼と待ち合わせの予定がある。
そこをちょうど神官である父親が呼び出したため、本殿から少し離れた、人が二人ほど入って作業ができるようになっている祠へと向かったのだった。
「水月、おいで。この中にお入り。しなければならないことがあるんだよ」
訝しげに祠を見遣る彼女を手招きして、父親は、水月を先に祠の中に入れた。
中は御神体である丸い小さな鏡と、水と塩と米。ここの掃除は、物心ついてからの水月の仕事だから見慣れた風景である。
……バタン。
「なっ、!」
そんな彼女の背後で、正面の格子戸が閉まる。
祠の中に入れた父親が扉を閉め、さらには閂までしているではないか。格子戸に手を掛けて揺らしてみるも、小さいがちゃんとした宮大工の造りのため、少しも隙間は見当たらない。
「なに……、何をなさるのですか、お父様!」
「うるさい、この愚か者が!!」
堪らず抗議の声を上げると、それ以上の怒声を押しつけられた。
いつも優しかったはずの父親の顔は、赤黒く、怒りに満ちているではないか。「ど、うしたの、ですか……」と、途切れ途切れに声を出すことしか出来ない。状況がわからないままに展開していく事柄を、どうにか理解しようと必死だった。
「お前は力の強い子供だから拾って育ててやったのに、男なんかにうつつを抜かすからだ! お前は神に命を捧げて神となるのだ! この神域を守る神にな!」
けれどやっぱり、父親から吐き出される言葉を水月は、何一つ理解できなかった。
彼は言った。実の娘だと思っていたのは彼女だけで、戦災孤児で死にかけだったのを拾って育てたのを村の誰もが知っていると。彼女を拾って育てたのは、見つけた時に妖と会話をしていて、見鬼の才があると気づいたからだと。その才を必要になるまで封じ込め、ただの娘として育て、最終的には『赤天神』に命を捧げさせるつもりだったのだと。
「だというのにお前は、外から来た男にうつつを抜かして、恋や愛などと言いおる。お前はここで命を散らすのだ! 神に捧げられて共になり、神になるのだ!!」
──狂っている。そう、思った。
父親の目はもう焦点が合っていない。ただただ、神しか見ていないから、地上の小さきものである人の命に目がいかないのだ。
もうこれ以上は怖くて聞いていられないと、格子戸に手をかけてさらに強く揺らしてみるが、結果は変わらない。
「い……いや、です。嫌です! 私は神になどなりませぬ! お願い……お願いです、ここから出して!」
「うるさいうるさいうるさい! お前は、ここまで育ててきてもらった恩もわからぬか!!」
「恩はあります! けれどもそれを返すことはここで命を散らすことではないはずです!」
「きっさま……!」
「──水月どの!」
言い合いが過熱していくところに、父親の背後から大きな声が上がった。
「隆義様!」
水月と今日、待ち合わせをしていた隆義だった。
彼は、別れるまでを神社から村の出入口まで共に歩いて行こうかと思って、ちょうどこちらまで来ていたのだ。そこを、彼女が父親に呼ばれて行っていたため、後を付けたのである。
だから、彼はこの異様な状況をある程度理解していた。
「父君よ、水月どのを解放してくれ! 娘の命を神に捧げるなど、狂っておるぞ!」
「ふん。貴様のような荒くれ者がこの子に近づくから、計画を早めなければならなくなったのだ! いわば貴様のせいだ、この疫病神め!!」
「しかし、我ら二人は真剣に想い合っておるのだ。そのような狂ったことに手を出して人の道を外れずともよろしかろう!」
「ならば貴様が死ねばいい! この娘の命を助けたければ、貴様が死ねばいいのだ!」
けれども、過熱した会話の相手が水月から隆義に移ったというだけで、結局、父親の顔は怒りで赤黒いままだし、目の焦点は合っていない。
このままではいけないと口を出そうとするが、その前に、隆義が叫ぶ方が早かった。
「俺のせいだと言うのならば、俺の命を奪えばいい! 水月どのの代わりに俺の命を捧げればいいだろう!」
「ダメです! 嫌です、隆義様! いや、嫌です!」
止めようと格子戸の隙間から手を伸ばすが、遠いところにいる隆義には触れられない。彼女が知ることができたのは、にやりと怖い顔で笑った父親が、腰に差していた小刀を出したことだけだった。
「その心意気、確と受け止めた。そなたの命を持って、あれの命を助けてやろう」
そう言いながら、父親は隆義へと近づいていく。隆義は腰の二本の刀を地に置き、正座し、裁きを待つ信者のように神妙に、その行動を見ていた。
「い……や。いや……やめて、やめてください、隆義様! お父様!」
叫んでも、誰も止まってはくれない。どれだけ伸ばしても、手は届かない。
父親が、小刀を振りかぶった。陽の光に照らされて、その、凶暴的な白い刃が、ひかる。
「水月どの、俺の心は【永遠の愛】にある。どうか幸せになってくれ」
愛しい、優しい顔が、こんな時でさえ、優しく微笑う。
何度二人を呼んでも、時は止まらない。
やめて、いや、と繰り返すだけの言葉は通じない。
──ざしゅ、と。
あやまたず、父親は隆義の首筋を斬りつけた。
咲いたのは赤い花。どくだみの白い花と緑の葉を背景に、美しく噴き上がる。
──どさり、と。
力を失った身体が、頽れる。
噴き出した花が、地を赤く染めた。
「ふん、馬鹿者が。貴様などの命がどれほどのものというのだ。そんな軽いものが神となれるわけがないではないか」
父親の嘲笑を聞きながら、水月は、自分の心が壊れていくのを感じる。
目の前の赤。
人の命を繋ぐ大切な色。
地に伏せた男。
永遠の愛を誓った大切な愛しい人。
伏せているのはどうして?
死んだ? それは誰のせい?
私の代わりにと言っていた?
わたしの せい …… ?
「い、や……たかよしさま、いや……、や、あ、ア、あ、ア、あああぁぁぁ────!!」
口を開けて、髪を振り乱し、目をひん剥いて、ただただ悲鳴を上げる。未だ手は隆義の方へと伸ばされているが、それは届くこともなく、またそれをとる者もおらず、宙を掻く。
そんな彼女に気づいた父親は一つ舌打ちをして、その腕へと小刀を振りかぶって傷つけた。
そして、祠全体に、火をつける。
「このまま神におなり、水月よ。憐れな娘」
にやりとした顔は、隆義を殺した時と同じだった。人の道を既に外れた顔。
やはりこの人は神に捕われて、人の心を失くし、地上の小さきものなど気にも留めなくなっていたのだ。
ずっと傍にいたのに、気づかなかった自分が愚かだったのだ。その結果、大切な人の命までも喪うこととなったのだ。
驚くほどに一気に燃え盛る祠の中で、水月はぼんやりと、その蠢く炎を見ていた。
炎の向こうには、倒れた隆義の身体と、こんな時でも咲き誇る白いどくだみの花。
(私たちの【永遠の愛】は絶えてしまったのに、あの花は咲き誇るのね。これから何度、あの花は咲き続けるのだろう……)
流れた滴は炎が消していく。上がる熱は息さえ抑えつけた。
もう、声一つさえも上げられなくなった水月は、炎の只中で落命した……。
その後、火事で焼失した祠を小さく建て直し、焼け跡から救出した御神体の鏡を置くと、それが光って辺りを照らしたという。
それから、力の強き『赤天神』の逸話が、この石橋の地を中心に語り継がれていくこととなった。
*
『美月、そなたは愚かじゃ。自分ばかりがそうやって、犠牲になればいいとばかり思っている』
怒りを含んだ声が、場を冷たくさせる。
祠の屋根を叩きつけて振り下ろされた拳が、実体もないのに、酷い音を立てた。
『そうやって犠牲になられて、遺されたものはどうすればいい! ずっとずっと、それこそ一生! 自分のせいで人が死んだのだと、自分を責め続けることになるのがわからぬのか……!』
水月は隆義とそう時が変わらずに絶命したが、何故彼が死んだのか、そしてその意味のなさをよく知っている。
あの、自らを焼く炎が業火に思えるくらいには、頭が狂うほどにそれを意識した。
その怒声に肩を縮めて、ぼろぼろ、ぼろぼろと涙を零す美月。
その唇が震えて、出ないはずの声を紡ぐ。
『……って、だって。私だって嫌だったんです! 私だって嫌だった! 私を庇ったせいで蓮斗くんが死ぬなんて……! それくらいなら、私が死ねばいい!!』
『ならその想い、確かめてやろう! 今夜午後六時、蓮斗をここに呼んでこい! そのためだけの声ならば与えてやろう!』
水月のその言葉に、一瞬瞠目した美月は、さらに涙を溢れさせて、できません、と返した。
もうお別れはした。これ以上彼を煩わせたいとは思わない。
強く首を横に振るが、その顔を両手で止められて、ただただ、水月の黒い深淵を見させられる。
『できる! そなたならできるのじゃ、美月。蓮斗に会いたくはないのか……!?』
会いたい。会いたいに決まっている。言葉だって交わしたい。願うならば今の関係さえ飛び越えたいと、ずっと想っていた。
嗚咽と涙で何も聞こえない見えない状況でありながら。彼女の声は、慣れているからか、すっと、耳に飛び込んでくる。
『もう一度、きちんとお別れをするのじゃ! ちゃんと、あやつに選択させるべきなのじゃ!」
どんどんと勢いを増した雨の中で、けれどもその声だけは、はっきりと、空間を響かせた。
──最期を、選ぶ。
※花言葉は厳密に言うと、明治時代に日本に欧州辺りから入ってきたため、水月や隆義の生きていた(と私が勝手に考えている)時代にはありません。けれど、どうしても使いたかったので使いました。笑。ご都合主義かもしれませんが、暖かい目で見ていただければ幸いです。




