(6)
『美月が消えたの!! どうしよう! ねぇ蓮斗!!』
「え、ちょちょ、ちょっと待てよ。そんなに急に言われてもわかんないだろ」
『美月が……! ねぇ、美月いるよね? 存在してるよね!?』
起き抜けに掛かってきた電話は菜津からのものだった。涙まじりの、酷く混乱した声が、こちらさえも混乱の渦に突き落とそうとしているように思えて、蓮斗は必死で冷静という言葉にしがみつく。
美月が、美月がと、ほとんどがその単語ばかりの菜津に、状況を説明させるのは骨が折れた。ただでさえ感覚的な言動が基本の彼女が、感情に突き動かされている状態での会話は困難を極める。
冷静に、落ち着かせつつ、どうにか内容を聞き取った自分を誰か褒めろと。──聞いた後は、そんな余裕なんてなかったけれども。
菜津が話してくれたのはこうだった。
今日、ふと気になったのでスマートフォンを触っていたのだという。その時ちょうど、SNSアプリで親友との会話を見ていたらしい。
ああ、そういえば、最初はどうしても対話が上手くいかなくてアプリでの筆談をしていたのだ。懐かしいなと。そう思っていた時だ。
──急に、前触れもなく、そのテキストメッセージが一気に、ざっと、波が引くように消えたのだと。
驚愕に震えた瞬間、今度は、記憶までもが消えてきたそうだ。入学式、クラス分け、委員会決め、練習試合の日の応援……。彼女がいたことはわかっている。けれど、その存在が、ぽっかりと空いているのだと言った。
聞いて、理解した瞬間、蓮斗の血も、ざっと、音を立てて下がる。
美月が、いない。
彼の記憶の中からも少しずつ、彼女の存在が空白になってきているのを感じる。
幼稚園から始まって、小学校、中学、高校……昨日まで当たり前だった存在が、急激に黒く塗り潰されていく。
……あそこだ。
そして理解した。
明確な根拠はないけれど、きっと、あの場所に何かがあるのだ。それに、自分が触れてしまったがために、こんなことになったのではないか。
上手く働いてくれない頭の片隅で理解しながら、混乱の最中に放り込む菜津の声が突き刺さってくるのを感じている。
『美月に連絡しようとしても……連絡先が消えたの! わかんないの! ねぇ蓮斗、これ、あたしのせいだ……!!』
「──大丈夫だ! ちゃんと、俺が見つけてくるから!!」
背筋を粟立たせる何かに突き動かされて、どうにか、それだけを叫び返した。通話を切る、その一瞬さえももどかしく感じながら操作して、ズボンのバックポケットに押し込んで、もたもたと動く身体に鞭を打つ。
外に出たところで、やっと気づく。まだ夕暮れ前のはずなのに、世界が暗い。
今日は風が通る爽やかな天気だったはずなのに、その風が運んできたのは、どす黒い雨雲だった……。
*
「はぁ、はぁ、げぇほ、がはっ、はぁ、はぁ、……」
今までにないくらい走りに走って、蓮斗はもう一度、今度は神社の境内側から横道に入って、祠へと辿り着いた。
先ほど見たのと同じ、小さな祠。けれど唯一違うところ。
蓮斗が今日着ていたはずのシャツが、綺麗に折り畳まれておかれていた。
(美月の……畳み方だ……!)
そんな些細なことにさえも記憶が刺激されて涙が零れそうになるのだ。どれだけの心を彼女に捧げて共有していたかわからないほどの記憶が、今もまた、引いた波と一緒に拐われていく。
「なぁ……、神様。あんた、凄い神様なんだろ。ここは、認められた者しか、辿り着けないって……」
肩で大きく呼吸を繰り返しながら言葉を紡ぐ。それは、一輝が語っていて、そして蓮斗も知っている、昔から親や友人同士で噂になっていた、石橋神社の逸話である。
次の言葉を言う前に、しっかりと息を吸った。
頭の中にあったのは酷い罵詈雑言だったけれど、伝えたかったのは別のことだ。
「お願いだ……! 美月を返してくれ!!」
ばっ、と直角に下げられた頭。
今まで、こんなにも誠実で必死な想いで願い事をしたことはない。
初詣でも、高校入試の合格祈願でも、どこかで他人事のような軽い気持ちでいたのに。
でも、だからこそ、自分にとっての『大切な存在』を胸の中に意識する。
……いや。今だけじゃない。その前も、だ。
まだ十六にもならない彼の、ただただ精一杯の気持ちだった。
『人の子よ……。いや、蓮斗、だな……』
──そうして、捧げられた心に反応して、現れいでたのは真白の女神だった。
下げていた頭をそろりと戻しながら見上げた視界に入ってきたのは、白目のない黒い深淵の瞳が、何かを湛えて揺れている様だ。
呆然と、棒立ちの姿勢に戻って、ただ、彼女を視界に入れる。
ふわりと祠のちょうど直上に浮き上がっている女性は、少しだけ眉を寄せて、着物の袖で手を隠した状態で口に当てている。言おうか、言うまいか、悩んでいるような、その仕草が、やけに人間らしくて苛ついてくる。
どうしても眉間や眦に力が入りそうになるのを、深呼吸をしながら腹の中に詰めていった。
『そなたの願いは叶わぬ』
だというのに、一所懸命詰め込んだ怒りをわざわざ刺激して掘り起こした神様は、やっぱり、いやに人間的な表情だから苛つきの程度はピークだった。そうしなければ、いつ叫び出すかわからない。
『あの子はわらわとの約を破った。そなたの許には戻らぬ。……戻れぬのじゃ』
「何で……っ! 何でだよ!! 美月が何したって言うんだ! 何を破ったんだって言うんだよ!!」
そして、どうにか押さえ込んでいたはずの感情は、神の言葉によって一気に噴き上がった。
怒りに任せて出てくる言葉に、彼は真実の想いを隠す。
このまま言葉の表面の怒りに均されて押し潰されてしまえばいいのだと。
だって、理解などしたくないのだ。理解をしてしまえば自分が壊れてしまいそうだったからだ。
もしかしたら、自分が秘密を暴こうとしたから彼女はそうなったんじゃないか、なんて。
神は黒々とした目で、そっと蓮斗を見つめ、そして、右手を差し出した。
『美月が何を約束したのか。そなたが何をしたのか。ようく、思い出すがいい……』
急に目の前へと掲げられた神の右手に、蓮斗は瞠目して声と共に息も止めるしか出来なかった。
視界いっぱいに広がった真白の手に意識を取られた瞬間。
──蓮斗の意識は闇へと落ちた。
──君が開けたのはパンドラの箱。