(2)
「じゃあね、美月。バーイバーイ!」
あの後、一輝が相談があるからと蓮斗を引っ張っていってしまったので、美月は菜津と家の近くまで来てそれぞれの方向へと別れた。
いつも元気で羨ましくも誇らしい親友に手を振って応え、ふと、美月は帰り道ではない方向へと足を向ける。
黄昏が一層強くなり、明と暗の境目がわからなくなる風景を、彼女は迷いなく進んでいく。住宅街から少し外れ、竹林の横を素通りし、常緑樹が側道に植えられている石畳を通って、着いた先はこじんまりとした神社だった。
朱色の鳥居の横にある、美月の背ほどの石柱には【石橋神社】と刻んである。
そのまま、美月は石畳を通ったかと思うと、参道の途中で横にそれ、竹林で隠されていた、暗い小路を進んでいった。
着いたのは、石橋神社の敷地内にあるが本殿からいくらか離れた小さな祠だった。ちょうど見頃を迎えたどくだみが、可愛らしい白い花を咲かせている。特徴的な香りが空間を満たしていた。
石橋神社は彼女たちの地元に古くからある神社で多くの人に親しまれているが、こちらの祠を知るものは少なく、祠に認められた者でないと辿り着けないという逸話まである。何せ、この祠には『赤天神』という厳しい神が宿っているからだという謂れがあるのだ。
美月は足元が暗い中、手慣れたように祠を掃除し、近くに湧く泉から汲んだ綺麗な水をお供えした。
そして、
『こんばんは、水月様。今日は遅くなってごめんなさい』
声を紡げぬはずの彼女の喉から飛び出したのは、まるで神楽鈴のような声色だった。不思議と空間に響き渡り、一言一言が空間を清浄化していく。
『久しいの、美月。元気にしておったか?』
そんな声に導き出てきたのは、真白の肌に真白の髪、真白の着物に真白の袴を纏った、光り輝くような女性の存在だった。
祠の上にふんわりと浮き出たその女性は、ゆうるりと目を細めて美月へと手を伸ばす。それに彼女も、心得たように手を出し、そっと、触れるに留めた。
元気でしたよ、といつもの癖で口の動きだけで伝えてしまったが、彼女は気にしたふうもなく、しっとりと、口端を持ち上げただけだった。
『約束は守っておるようだな。……もうすぐ一年か。わらわたち神は時間を意識せぬからの、こうやってそなたが来てくれるで、やっと時間の流れを意識する』
ゆったりと笑みを象った目は白目がなく、そこだけ深淵のような黒がくっきりと浮かんでいる。
女性は『赤天神』と呼ばれる、水月という名の神である。
約一年ほど前にひょんなことから知り合った美月と水月は、定期的に美月が祠へお参りするという形をとっては、関わるようになっているのだ。水月は話が楽しく、美月はこの場所でなら声が出るということで、二人はひっそりとしたこの場所で、静かに友誼のようなものを結んでいたのであった。
『美月、忘れてはならぬよ。この約束はそなたを守るためのものでもあるのじゃからの──』
そうして、いつも彼女が伝えてくるその言葉が、今日はいつまでもいつまでも、美月の耳に残っていたのだった……。
*
『美月、蓮斗、遊びに来たよ!』
『オレも一緒にな!』
ある休日、蓮斗と美月が二人して、美月の家で過ごしている時に鳴ったインターフォンから聞こえた声は、元気を通り越して暴力的でさえあった。玄関のカメラ越しに見える友人二人の姿に、蓮斗はこのまま居留守してやろうかと悩むが、美月がさっさと対応してしまったので仕方がない。
「何で急に来てるんだ。人の迷惑考えろ」
「あら、ひっどーい。せっかく遊びに来たのに冷たーい」
「本当に冷たーい。せっかくオレが遊びに来たのにー」
わざわざ人の不快感を逆撫でしにくる二人を、どうしてやろうかと思いつつ、蓮斗は返答する。
「遊ぶって、何すんだよ。俺たち、本読んでたんだけど」
本日二人は、美月の母親と蓮斗の母親が共に旅行に行ったため、食事等の用意を一緒にしようとなって、朝からずっと美月の家にいたのである。テレビを見たり本を読んだりとしていたところだったのだ。
しかも、もう七月に入ったのだから外は暑い。嫌がらせだろうかと、蓮斗は菜津と一輝が持っているスポーツ用品に目を向けた。
しかし、否定したい蓮斗を放って、二人はにか、と同じ顔をして笑いながらそれを差し出すのだ。
「キャッチボール! 良くない?」
「ガキの頃しただろ、オレはしたけど蓮斗は!?」
「二人同時に喋るな」
ぴしゃり、と言い返しつつも頭を抱えたい気分だ。何が楽しくて、こんな暑い晴天の下でキャッチボールをしろと言うのか。それに、と暑さに弱いはずの幼馴染を見ると、何故か可愛らしい笑顔でにっこりと笑っていた。
美月がこいつらに毒されてきている気がするな、と頭の片隅で考える。漏れたのは溜息だった。
「でも家ではできないぞ。ガラスでも割ったら母さんとおばさんに殺される。するんなら、近くの石橋神社に行こう。あそこだったら敷地は広いし、広場もあるし、風が通るからまだ涼しいしな」
「おー、蓮斗くん話がわかりますねぇ」
「さすがオレの相棒だな!」
「うるさい。違う。あんまりやってると行かないからな」
あんまり二人がうるさいので冷や水を浴びせかけたかったのだが、二人は揃ってテンションが高い。蓮斗の言葉など意にも介していないようだ。
ちょっと待ってろ、飲み物とか準備してくるから。と、そのまま走っていってしまいそうな二人に釘を刺しつつ美月へと顔を向けると、彼女は真っ青な顔をしていた。
「美月……!?」つい先ほどまではにこやかに、うるさい友人たちの盛り上がりを見ていたのに、と驚いて彼女に腕を伸ばすと、びく、と一瞬、震えて蓮斗から一歩。距離をとった。
そして胸に手を当てて深呼吸をしたのち、『ごめん、大丈夫だから』と言う。
けれどもそんなことでいつも彼女を気にかけている蓮斗が納得できるわけもなく、何度も「本当か」「無理はしないでよ」「嫌なら家にいてもいい」と繰り返すが、美月は頑として、蓮斗たちが石橋神社に行くと言うのなら自分も行くという意思を変えない。
そんなことを十分ほど続けて諦めた頃、結局、四人は揃って石橋神社へと向かうことにしたのだ。
到着した神社の広場では、ちょうど今日は近所の子供たちもおらず、広々と楽しめそうだなと思った時である。
「……は!? 菜津ってキャッチボールやったことないのか?」
「当たり前じゃん」
「じゃあ何でしようなんて言い出したんだよ」
「うーん、……ノリ?」
これだ。蓮斗は脱力し、一輝は片手で顔を覆って天を仰ぎ、あちゃー、となっている。この二人の感情を誰か言葉にしつつ理解してはくれまいか。まさかやろうと言い出した言い出しっぺがしたことがないとは誰も思うまい。
何故か急な徒労感に襲われた蓮斗と一輝を気にも留めず、当の本人は「美月もしたことないんだ。おそろだね!」と、無駄に元気に美月に抱きついているのだから救いようがない。
仕方がないと切り替えて、蓮斗と美月、一輝と菜津の二対二でキャッチボールをすることになった。
「おー、菜津飲み込みいいな。やっぱりスポーツ万能だよな」
「うん、こういう球技とかは昔っから得意なんだよね」
何度か繰り返して投げていると、普段から球技に触れている菜津は覚えが早く、直ぐに投げ方や捕り方を覚えて上手に出来るようになっていった。
一方美月は蓮斗がつきっきりで教えているのだが、不思議と捕れないし投げてもおかしな方向に飛んでいってしまう。これはさすがに彼女には無理だな、と他三人の意見が脳内で一致を見せた時。
「あー……ごめん。オレ取りに行くわ」
「ああ、いいよ。俺の方が近いし俺が取りに行ってくる。美月はここでちょっと待ってて……うわっ!」
一輝の投げたボールが力加減を誤り、美月が構えていたグローブを遠く外れて飛んでいってしまったのである。
傍の林の奥の方まで飛んでいったようだ。これは探すのに骨が折れるなと考えつつ蓮斗が向かおうとすると、急激に、反対に引っ張られる感触に蹈鞴を踏んだ。あまりに急できつい力だったため下手したら後頭部から転倒するところだったと振り返ると、そこには美月が真っ青な顔をして蓮斗の服を握って引っ張っているではないか。
「え、どうしたの、美月?」そう、困ったように眉を下げて問いかけるが、彼女はしきりに首を横に振っては口をはくはくと動かしているだけでなかなか真意が伝わらない。
何度か肩をさすり、手を取り、頭を撫でて落ち着かせた後に、やっと美月から出たのは、『私が行くから行っちゃダメ』という言葉。
しかし暑さに弱い幼馴染に、しかも今は酷く落ち着きがなく顔も真っ青の彼女に、させるわけにはいかない。大丈夫、直ぐ帰ってくるからと何度も繰り返すが、神社に来る前と同じく、彼女は一切、蓮斗が探しに行くことを許さなかった。
結局、蓮斗が折れて美月がボールを探しに行くことになったのだが、その言動が、やけに頭について離れない。
小走りで横道の方へと向かっていく美月の背を、いつもの雰囲気をがらりと変えて、菜津は見つめていた。
「……ねぇ、美月、なんかおかしくない……?」
「それは俺も思う。今日は随分落ち着きがないな。特に、ここに来るって言った時から……」
いつも跳ねるような声の彼女が、低いトーンで話し出したことに少しだけ焦りながら、蓮斗は答える。二人して顎に手を当てて考察スタイルに入った時だ。
「あー、じゃ、あれじゃね? この神社ってさ、なんか逸話ってのがあるんだろ? そのことじゃねぇの?」
と、こんな時でもあっけらかんとしたもう一人の友人の言葉で、ふと意識がそれる。その話題に乗ったのは菜津だ。
「え。逸話なんてあるの? あたし知らない」
「菜津は家近い方じゃないのか? 逆に一輝の方が遠いのに、なんでお前が知ってんだよ」
「オレ、この近くに親戚住んでるからな。ちっせー頃はここが遊び場だったんだよ」
「え、そうなんだ。あたし中学の途中でこっち引っ越してきたから、全然知らなかった」
そんな感じで、必然か偶然か、逸れた話題は戻ることもなく、美月が戻ってくるまでそのまま続いたのだった。
──頭の片隅にこびりついた声が、目覚めを待っていたのだと。




