一章第六話 知らぬ朝
夢を見ていた。それはいつの日常だったか、不可能だった別の世界線か。
俺は異世界を旅していた。ナビゲーターに見習いの女神を連れて、知らない土地を歩いた。村の人々と触れ合い、働く喜びを知った。
時折自宅へ帰り、親や友人に旅の話をし、また異世界へと戻る。楽しい日々。そして異世界に住む住人と恋に落ち、俺は異世界に移住する。
そんな、どこかのごく一般的な人生を夢で見た――。
朝起きた時、俺が感じたのはなんだったろう。目元に指を運ぶと、水滴が指先を湿らせた。涙。いや、あくびをしたせいだろう。俺はそう決めてベッドの端まで寝たまま転がる。
まだ寝ていたい。そんなことを思いつつも起き上がる。と同時にメメーリアのモニターが姿を現した。
『おはようございます! ヒロトさん!』
あぁ、朝からその声は頭に響く。甲高い声に頭を抱えるとおはようとだけ返した。
今何時だ。ベッドの横にあるであろう目覚まし時計を取ろうとして、気づく。ここは家でもなく夢で旅した世界でもなく、帰り路のない孤立した世界なのだと。
『なに寝ぼけたことしてるんですか。リコッテさん、呼びますからねー』
モニターが動き出し呼び出しボタンを角で押した。なんて便利なんだあれは。手でも付けたら食事とかも運んできてくれるのではないだろうか。言うことを聞かぬ身体を動かし、リコッテが来るのを待つ。
数分後来た彼女は、大きな荷物を抱えていた。その後ろからシャインもついてくる。着ているのは鎧だが、朝食も持ってきているようだ。
リコッテが持っていたのは服。どうやら町に出る時用のようだ。今着ているのはこの世界では礼装という扱いらしい。よく見る白いシャツとズボン。それと前掛け。
(前掛け?)
「今日からやってもらう仕事はな、民から依頼されたことをこなしてもらうことなんだ。店の手伝いから外の魔物対峙まで、幅広くな。あぁ、もちろん魔物対峙みたいな危険な仕事はヒロトには任せないから安心してくれ。今日は店の手伝いからだ」
「シャイン様……いつの間にヒロトさんを呼び捨てに……」
そうか、前掛けは店の物か。よく見ると読めない文字で何か書いてある。やはり異世界、文化は全然違うんだな。ショックを受けているリコッテには気づいていないのか、シャインはテーブルの上に皿を並べていく。バスケットの中にはパンと果物。これが朝食だろうか。
リコッテが納得いかない顔で淹れてくれた茶は少し酸っぱかった。
食べ終わり、シャインが食器を片付け、リコッテは部屋の掃除をするため道具を取りに行った。俺はというと、リコッテが持ってきてくれた服に着替え、彼女らを待つ。
今思えば、食事を持ってきてくれたり服を用意してくれたり、結構な好待遇を受けている気がする。これも王が言っていた権利の賜物なのだろうか。
とはいえ甘えてばかりもいられない。次からは食事は自分で貰いに行くようにしよう。
そういえば、昨夜会った魔術師のことを彼女らに聞いていなかった。もうそろそろシャインが来るだろうからその時にでも聞いてみよう。
「お、着替え終わったみたいだな」
シャインが戻ってきた。先ほどまでは提げていなかった腰の剣がコツンとドアに当たる。彼女は俺を待っているようで、覚悟を決めて俺は歩き出した。
部屋を出て早速、俺は魔術師について聞いてみる。彼女はマハ・マカ様と呼んでいたが、この国における最高位の魔術師であり、王が最も信頼する御仁のようだ。
確かに顔を見た者はいないが、物腰は柔らかく怒った姿を見た者もいないようで、特に子供らからお婆ちゃんと呼ばれ親しまれているらしい。
シャインは腕を組み、人差し指を顎に当てながら思案する。聞けばバジェスという魔術師も皆の評判は比較的良いらしい。二人が一緒にいたところはないけれど、隣国の首席魔術師であるバジェスとは色々あるのだろう。と彼女は思っているようだ。
しかし俺は考える。はたしてそれだけなのだろうかと。マハという人物にはまだ会ったことはないが、聞く限り悪い人間とは思えない。
一方バジェスも、彼女は悪い人間ではないという。隠れていがみ合う二人にはなにがあるのか。
城を西に出てしばらく、シャインは民からの挨拶の波を浴びていた。一人、また一人と繰り返す度に、有名人かつ人気者なのだと認識させられる。
ちなみに俺は後方でその光景を眺めながらゆっくりと歩いていた。巻き込まれそうだというのが一番の理由だったが、どうしてか遠くから彼女の人気を眺めていたかった。
『容姿端麗で強さも相成るとこうなるんですねー。ギフト持ちは嫌われやすいみたいですけど、シャインさんのおかげであまり差別もないようですね』
「そうみたいだなー……メモしててもお前には関係ないと思うぞ?」
『はうあ! なんでわかったんですか!』
微かにペンの音が走ればわかるものだ。メメーリアと話しているうちに人はバラけて行き、一つの建物の前に辿り着いた。看板に書いてある文字は読めないが、雰囲気はなんとなく悟れる。
店の前に置かれた巨大な木の樽。そこから微かに薫る甘いアルコールの匂い。中からは賑やかな声が聞こえてくる所を見ると、ここは酒屋であろう。
シャインが中に入って行く。俺もそれに続き中へ入ると、賑やかさが更に激しくなった。数人の注目を浴びるシャインは店の奥へ進んでいき、そこにいる一人の女性に話しかける。
「おかみ、昨日言ってた旅人連れて来たよ」
「おやおやシャイン。その後ろの子がそうかい? やけに痩せてるねぇ。それに記憶喪失なんだろ? 使えるのかい?」
今なんと言った。記憶喪失?
ここではそういう"設定"なのか。女将と呼ばれたふくよかな体格の女性は心配そうにこちらを見ている。
シャインはそんな女将に明るい顔で大きく頷く。その笑顔に絆されたのか信用したのかは分からないが、女将は俺の方へ歩いてきて背中をバンバンと強く叩いた。
「ぐっ――よ、よろしくお願いシマス」
「もっと元気に仕事しておくれよ! この店じゃそんな小さい声じゃ通らないからね!」
耳元に顔を寄せて大きな声で女将は話す。分からなくもないが、耳が痛く今すぐ帰りたい気分になった。
しかしシャインに紹介してもらった手前、そんなこと出来るはずもない。当のシャインは客へ挨拶し、俺の姿を目にすると戻ってきた。
「じゃあ、私は一度城に戻る。夕方、仕事が終わった辺りで迎えに来るから……それまで頑張るんだな!」
彼女はとても楽しそうだ。周りの酒気にあてられたのか顔がほんのり赤い。そういう俺も少し頬が熱くなってきた気がする。
なにせこの店は結構繁盛していて、もう既に座る所がないほど満員である。酒をひたすら飲む者、飯をひたすら食らう者、そして飯を食いながら酒で飯を流し込む者。様々な民がここで酒を飲んでいる。
昼から酒か。などと思いもしたが、夜勤ということもある。現実世界とごっちゃにしてはいけない。
シャインは既に店を出て、騒がしさが直接俺の耳を刺激する。
少しホームシックになりそうな頭を振り、持ってきた前掛けを装備した。ついでに、部屋から拝借してきた布で三角巾を作り髪が料理に入らぬよう頭を覆う。これで準備完了だ。
「へぇ、準備がいいじゃないか。それじゃまず注文を取ってきてもらおうか!」
返事をした後女将から紙と注文内容を書くためのペンを受け取り、客の元へ向かう。
時間は昼前。太陽は高く、酒場の中には熱気が籠っていた。
「てめぇ! 殴られてぇのか!」
そんな声が聞こえたのは、ようやく仕事に慣れ始めて効率よく動けるようになった頃だった。
その怒声に一瞬声が静まり、すぐにざわざわと音が大きくなる。周りの視線が注がれていた先には、大柄な男が一人立ち上がっていた。
男の傍らには一人の少女。こちらは尻餅をついているようで、怯えた表情を大男に向けていた。これはただ事ではない。
男と同じ席に座っているのは仲間なのか、少し青ざめた顔をしているようだった。
騒ぎを聞きつけて奥の厨房から女将が出てくる。大男を視界におさめると、手で顔を覆った。
「あちゃあ……もうそんな時期だったかい。失敗したねぇ、もう戻ってくるとは」
「誰なんだ? ありゃあ」
女将は言いながら裏にいる従業員に何かを告げると、従業員は急ぐように店を出ていく。
俺はそれを見届けると純粋に疑問に思ったことを聞いてみた。あの少女は確か従業員の一人である。男の足元には木製のビアジョッキが転がっていて、彼の下半身をその中にあったであろう液体が汚していた。
大方躓いたかして零してしまったのだろう。可哀そうだが、しばらく怒られるしかあるまい。
しかし、事はそう簡単なものではないようだった。
「奴は山賊だよ。北の山から年に数回降りてきてこの町で厄介なことを起こすんだ。その度シャインに追い払われてるっていうのにねぇ……あぁやって問題をわざと起こして料金をタダにしようとするんだ。大人しくしてれば殴られたりはしないんだけどね」
それはなんと横暴なことだろう。食い逃げにも程がある。
先ほど外に出た従業員はシャインを呼びに行ったのだろうか。そんなことをしなくても町の入り口にいる兵士に頼めば来てもらえそうなものだが。
「困るのは、奴……ビズがギフト持ちってことなんだよねぇ」
『うわぁ、あぁいうのがいるからギフト持ちが嫌われるんですねぇ』
と、それを聞いて考えが百八十度変わった。それならシャインでないと追い払えないだろう。
「おい女ァ……たまには誰か一人殺したっていいんだぜぇ?」
だが、どうもそうは言っていられない状況に陥ろうとしている。今回はわざとではなかったのか、大男は右手の握り拳をわなわなと震わせ、歯ぎしりしている。
まずい。そう思った時には、足は視線の中心へと向かい始めていた。
「なんだテメェ……」
少女と男の間に入った。俺は何をしているんだ。そう心で思いながらも、何かが俺を突き動かしてならない。
『ちょ……まずいですってヒロトさん!』
「ギフト持ちならその力、人のために使ったらどうなんだ」
それが理由か。俺が思うワケなのか。昨日会話した姫のことを思いながら、俺は後ろの少女へ逃げろと左手で合図を送る。
「ハッ! それを知ってて出てくるたぁ自殺志願者か? アァ!? いいだろう。見せてやるぜ……俺の"拳"をぉ……!」
大男の振り上げた右手が唸る。まるで茹でたタコのように赤くなり、腫れあがっているようにも見える。
恐怖。魔物を前にした時とは違う恐怖を、その時俺は感じていた。しかし、俺は出来るだけ冷静を保ち呟く。大男にではなく、恐らく視ているであろう女神に向かって。
「砂って一つまみいくらだろうな」
『多分数十円くらいじゃないでしょうか……』
俺はその言葉を聞いて右手に握り拳を作る。何も戦うことはない。シャインが来るまでの時間稼ぎが出来ればいいんだ。
念じる。砂を右手に。確かな感触を感じたのと、大男が腕を振り下ろしたのはほぼ同時だった。
「ばっ――!」
拳が俺に降りかかる前に、素早く砂を相手の目に振りかける。目に異物が突然舞い込んできた男はよろけ、拳の熱が消える。
周りの取り巻きが椅子を倒し立ち上がるが、もう遅い。
俺は思い切り、男の股間に足を振り上げた。
「――――!!」
「――!!」
周りの野次馬にいる男どもが縮みあがるのを感じた。大男はぴたっと止まり、大気が揺れたと思うほど震え出すと口から白い泡のようなものを吐き出し始める。
「お頭ぁぁ――!」
子分と思わしき取り巻き達は立ったまま気絶した彼を揺さぶるが反応はない。行き場を失った拳はダラリと下がり、今にも崩れ落ちそうである。
彼らは大男――お頭を数人がかりで持ち上げると、持つ腕を細かく震わしながら捨て台詞を吐くのだった。
「覚えていやがれー!!」
(あぁ、分かりやすい人たちだなぁ)
子分たちにはどことなく好印象を抱かざるをえなかった。