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1-5

 悪い方に夢のような新生活の開始から、早くも一週間ほどが過ぎた。


 わたしの朝は、今日も淀みない罵声から始まる。


「いつまで寝穢く眠りこけているんですか。起きなさい。あなたにはこれ以上人生を無駄にする余裕などないでしょう」


 まるで一日二十三時間を睡眠に費やして天寿を全うしかけているナニカを相手にするような物言いであるが、わたしはほんのちょっと文化と学問発展の遅れた土地で育ち、やんごとない事情で記憶を失ってしまっただけである。

 外聞の悪いイチャモンを挨拶代わりにするのはそろそろよしてほしいのだが、文句を言っても状況が悪化するだけだとは本能で悟っていたし、その本能に逆らってみた結果どうなるかもとっくに体験済みなので粛々と従うしかない。


 都会は恐ろしいところだ。しかし結果的に順応している自分自身も恐ろしい。


 今日も今日とて、ふらつく頭をどうにか支えて操られたように素早くベッドを下り、素早くボタンだらけの寝間着を脱ぎ、素早くボタンとベルトだらけの服を着て、素早く髪をとかす。


 ところが困ったことに、わたしの素早さはあまりに度を超しており、一周回って限りなく停止しているように見えるらしい。だいたい内長衣を着込む段階で、しびれを切らした博士に手を出される。今日は四つ、自力でボタンを留められたので、そろそろ世界がわたしに追いつき始めているかもしれない。


 貴族と聞いたはずの博士の見事な小間使いっぷりに疑問を持ったことなどとうに記憶の彼方だ。子供のように扱われることに屈辱を覚えた事実は、あったことさえ忘れた。結局人は利便の奴隷なのだ。楽することを覚えたらそのままずるずる堕落していくのだ。


 身だしなみを整え終えたら、トイレに行って、ドアを開けてもらって、個室に入って用を済ませて、便器の蓋を閉めて、ドアをノックする。そうするとまた自動でドアが開くので個室を出ると、入れ替わりに中に入った博士が導石に魔力を通して水を流してくれる。

 全く至れり尽くせりである。羞恥心などとっくに燃えないゴミに出している。怠惰への欲求の前には、全てが些事である。


 博士のおかげで恐らくかつてないほどに規則的な生活をしているはずなのに、どんどん人としてダメになっているとはなんと面妖な。全く都会は怖いなあ。


 その後は使用頻度の低い研究室で、博士と仲良く魔力の扱いを練習する。どつかれたりなじられたり舌打ちをされたりと、和気藹々とし過ぎて息が詰まりそうな雰囲気である。なんともアットホーム。

 数日前までは至極真面目に座学を受けていたのだが、真面目すぎて微動だにしないわたしが気絶していると思い込んだ博士が、朝は体を動かすようにと言ってきた。都会では睡眠学習の存在は認知されていないらしい。


 そうして朝のお勤めが終わり、窓の外が明るくなってから、ようやく食堂に行って多少のSAN値回復が可能になる。最初は食事が先だったが、早くに食べ過ぎるとお腹が空くのも早いとお互いに気づき、順番が変わった。もうこの時点でわたしは一日を終えたい気分だが、そういう堕落は許容されない。未来を全て肯定してくれると豪語した博士は、眠い、疲れた、もう限界、という訴えには耳を貸してもくれない。美顔器販売よりひどい詐欺にあったと思っている。


 白くて広くて殺風景で無機質な、他の部屋と大差のない食堂に入ると、今日は既に先客がいた。通過者仲間であるユミルさんとジリアちゃん、それからトロネさんだ。


 トロネさんは、影でヒゲとかドワーフとか呼ばれていてもなんら不思議ではないおっさんだ。わたしは清廉潔白な美少女なので、陰口なんて聞いたことないけど。そういう話をしてくれるほど仲のいい人がいないわけではない。ほとんど一日中博士と強制ランデブーなので、噂話も無駄話もしてる暇がないのが真実。


 まあそんなおっさんが元魔術師の弟子である若者二人と並んでいると妙にカモられてるように見えるんだけど、なぜか仲がよい。らしい。一緒にいるところを良く見かける。

 でもわたしだって仲が悪いわけじゃないんだから、カウンターで朝食を受け取ってしれっとその輪に混ざり込んだ。厚かましくも、博士もしれっとついてきた。ここは被害者の会ですお控えくださいと断ったけど、トロネさんが顔に似合わず繊細な物言いで博士を机に招いてしまった。わたしは足を踏まれ損である。ユミルさんが頭を撫でてくれたが、患部はそこではない。そもそもこの場で治癒魔術が使えるのは博士だけだが。


「この顔ぶれで食事というのは初めてですね」


 トロネさんはいやに嬉しそうである。おいしいご飯はみんなで食べるともっとおいしいという幸せな人……に、洗脳された可能性もある。なんと非道なことか。許すまじ、悪の研究員ども。


 とりあえず手近な研究員を睨みつけてみると、大仰な溜め息をつかれた。本日通算四十五回目である。

 わたしが博士の感情表現の手抜きを疑っている横で、ユミルさんはオムレツを切り分けながらにっこりと笑った。


「僕もいっつも遅いからなあ。今日は、王都に行く用があるから頑張って早起きしたんですよ」


 なんだと。

 衝撃的な事実に、思わず自分のオムレツを潰してしまった。まあオムレツっていってもな。蛇の卵のオムレツなんだ。本当のことを言うと、高級な舌を持ってるわけじゃないから砂糖と塩を混ぜられてしまえば味なんてよくわからないが、食べられなくても悔いの浮かばない料理ではある。


「ここは外出なんて贅沢を許してくれるんですか」

「ふつーにありますよ。あたしたち別にシュージンじゃないし」


 目ん玉をかっ開いたわたしを、ジリアちゃんがきゃらきゃらと笑った。これは紛れもない格差。


「わ、わたしだけが囚人だというのか!」


 美しすぎる罪で!

 いやわかってる。被せられているのは珍種のモルモットとして生まれたという罪だ。どちらにしろ存在そのものがギルティ。控訴を要求します。


「一般常識の欠如が著しいため、所内で保護されていたというだけです。だいたい、今日はあなたも外に出るでしょう」


 わたしの嘆きは、博士によって淡々と切り捨てられた。ものは言い様だ。役人と学者は己の正当化がうまいと相場が決まっている。いつか絶対に打ち負かしてやる。

 胸の内に闘志を燃やし、いつしかその炎は場外に飛び火して山火事――いや待て外がなんだって?


「え、ちょ、今なんて言いました?」

「あなたに社会に出られるだけの一般常識が足りなかったと言いました」

「博士は一定時間おきにわたしを罵倒しないと発作でも起こるんですか。それガチでヤバい病気なんで然るべき診療を受けてきてほしいんですが、そうじゃなくて、そのくだりの後ですよ」


 博士の健康状態への配慮を見せながらもう一度訊ねると、フォークを持つ手の甲を爪で押さえられた。い、痛い。次第に食い込んでくる。これは端から見ると大したことのないじゃれ合いに見えるが、その実結構深く皮膚が抉られ血が滲んでくる陰湿な攻撃である。さすが博士、汚い。


「ジオとあたし、今日一緒に街に出るんですよ。きーてなかったんですか?」

「きーてたらこんな会話は発生してませんねえ!」


 どういうことだ、と睨みつけると、博士さまは爪をうっすらとわたしの皮膚に沈めたまま、平然と言ってのけた。


「別に前もって言おうと言うまいと、あなたは毎日こちらの用意したスケジュールに従って生活してるだけじゃありませんか」

「確かにその通りですけど、釈然としません」


 博士は人の心のないサイボーグか何かなのか。人の不安を減らそうとか喜ばせてやろうという気遣いの一つ二つ、大した労働でもないだろう。

 涙目で睨み続けていると、観念したように、驚かせるつもりでしたと謝られた。ダウト。そもそも言い方が投げやりすぎて誠意が全く感じられない。


「まあ、あなたもそろそろ外に出るべき時期だということになったんですよ。大分常識もわきまえてきましたし。それで日程を調整していたところ、ジリアの外出希望があったので、今日は二人で出かけていただきます」

「んでも二人きりじゃないですよ。あたしの用はほとんど買い物でなんの問題もないですけど、ジオは初めてのガイシュツだから、ミューネとツィアリがついてくるって言われました」


 なんてことだ。わたしにも、ついに自由が与えられた。引率という名の監視付きだけど。しかしそれは、ここにおわして今なお乙女の柔肌に爪を刺したままの女王様ではない。一瞬にして、早朝に溜めるような量じゃなかった疲労が吹き飛んだ。神はわたしを見捨てていなかった。


「良かったですね、ジオさん。ここは研究都市で年頃の女の子が喜ぶ店は少ないけれど、それでも色々とありますから、いい気分転換になりますよ」


 感極まったわたしを見て、ヒゲ男のトロネさんが顔いっぱいに笑顔を浮かべている。ありがとう、あなたは癒しだ。将来よい父親になれることを、娘にしたいランキング自薦一位のこのわたしが保障しよう。……本当にとっくに子持ちだったっていう笑えない話がありそうで怖いけどな。通過者同士の会話には、驚くほど多様で膨大な地雷が散りばめられているのだ。


「ああ、そうだね。ガフオルムには装飾品とか、雑貨の店が少ないんだよ。あるにはあるけど、なんて言うかどれも実用一辺倒で。可愛いものがほしかったら僕が王都で買ってくるけど、何かある?」


 さすがイケメンは気配りを忘れない。これで感性に難がなければ軽率に恋に落ちてもよかったのだが、現実とは厳しいものだ。


「別にないというか……ゆとりの欠片もクソもない生活を強要されている現状、ほしいものが咄嗟に思いつきませんね」


 忌憚のない返答を述べさせていただくと、手の甲の爪が、さっきより深く沈んだ。やめろ。言われて怒るのは図星の証拠だ。


「あ、あたし手袋ほしーんです。白絢のレースの」


 心のゆとりと女子力の枯渇したわたしの真逆に位置するであろうジリアちゃんが、遠慮なくお土産をねだる。それに対するユミルさんの返答もこなれたもので、


「了解。部屋に戻る前にサイズ計らせてね」


 に、加えてウィンクである。イケメンはすげーな。きっとイケメンにも、顔が良いだけでは生き残れない部族の掟とかあるんだろうな。


「それと、ユミルのおっしょーさまからあたしのおっしょーさまを説得してもらえるよーにお願いしてもらえません?」

「伝えるだけなら構わないけど、聞き入れてもらえるかはわからないよ」

「いーですいーです。期待してるわけじゃないですから。使える手札がぜーんぜんないジョータイなんで、ダメ元でも声かけだけはしとこーかなって」


 なんの話かと思ったら、魔術師の弟子であるジリアちゃんは、既にお師匠さまから捜索願が出されており、身元が判明していたのだ。で、早く帰ってこいとせっつかれているのだが、なんとなくキュークツな雰囲気を感じ取り、しばらく調査局に留まってから諸国遍歴に出ようと思っているという。物好きな。


 で、ユミルさんの今日の外出は、彼もまた身元の確認がとれたので、師匠のところに顔を出しに行くのが目的。そこで飛び出た、ジリアちゃんのおねだりというわけである。

 お師匠様同士が旧知の仲、というわけではないが、魔術師のコミュニティというものが存在するので、とりあえず誰でもいいから同業者が諌めてくれれば多少の効果はあるらしい。


 まあいろいろあるんだなあと思いながらそのまま話を聞いていると、ユミルさんの目的地は厳密には王都から少し離れた森の中だという。しかし、その場所をユミルさん自身が覚えているわけではないので、道案内と合流しなければならず、気晴らしもかねてまずは王都に立ち寄るのだそうだ。

 ん? ちょっと待てよ。


「それ、身元の確認に一週間以上かかったのが信じられないレベルで近場じゃないですか。そんじゃひょっとして、すぐにも調査局からはオサラバですか?」


 なにしろ、この街から王都までは然るべき移動手段を用いれば三時間ほどだと聞いている。下手すればどっかのテーマパークで人気アトラクションの順番を待つより早く、住み慣れた我が家に戻れてしまう。

 わたしの抱いた感想はそんな暢気なものだったが、ユミルさんは複雑そうに眉を下げて笑った。


「まあ、帰ろうと思ったらすぐに帰れるのは便利なんだけどね。きっと王都の周りには知り合いもいるから、ちょっと気まずいかなあ」


 地雷、爆裂である。そう、このように我々の会話には、望むと望まざるとに関わらず大量のトラップが仕掛けられているのだ。


 やっちまったわたしは、意味もなく乾いた笑い声を上げるしかない。博士が隣で小さく溜め息をついた。やめてくれ、その吐息は爪よりも深くわたしの心を抉ってくる。

 顔を引きつらせて悶える無様な小娘を救ったのは、訓練された紳士、トロネさんであった。


「親しげに声をかけられたら、生き別れの弟のふりをしてみてはどうですか。きっと面白いですよ」


 ……紳士ではなかった。


「ドッペルゲンゲルでしたっけ? 体が二つあるわけじゃないから、あれができないのは残念ですねー」


 ジリアちゃんまで便乗している。

 なんて図太いんだ、と思ったが、恐る恐る目線を向けると、ユミルさんの笑顔は楽しそうなものになっていた。この人も感性がおかしいことを忘れていた。


 でもま、そんなもんじゃなきゃ記憶喪失なんてやってらんないかーと納得して、わたしも一緒になってにこにこしていたら、博士が本日四十七回目の溜め息をついた。

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