1-3
「ごく基礎的な事ですが」
「はい」
「世界は平らかです」
「無知乙」
博士があまりにもあまりなことを言うもんで、ついつい口が悪くなった。
当然のように頬を抓られた。
「いいですか」
「はい」
「世界は平らかです」
「でも先生」
「一紀前の黄歴五十四年に、モトファーレスのヘネンが初めて世界の果てに辿り着きました。以来、世界が平らかであることは改めて口にするまでもない通念となりました」
「でも先生!」
「……なぜそこまで悲痛な顔をしているんです。世界の仕組みを説明しているだけでしょうが」
「だって先生、平らな世界の端っこの外側とか、下とか、一体どうなってるって言うんですか。お前たちは時速一七〇〇キロで回転してる球体の上で生きているって言われるよりも怖いでしょ!」
事の発端は、日常知識詰め込み学習のために見せられた、一枚の地図だった。
やたらにゴワゴワして分厚い紙で、相当な年代物とお見受けできた。骨董品としては非常に価値が高そうでいつの日かわたしの旅路のいい路銀になりそうだと目を付けさせていただいたが、学習用には明らかに不適である。こういうのは常に最新版を手元に置くべきなのだ。それがどれほど書架や倉庫を圧迫しようとも。
まあ、博士も本職の教育者や地理学者ではないからそこは大目に見るとして、見慣れぬ陸地が見慣れぬ配置で書き込まれた長方形の地図の四辺には、どこも丁寧に『世界の果て』と書かれていた。
これはさすがに、本職じゃないっつってもさすがに酷すぎるだろうと問題提起したところ、寧ろこっちがおかしいような顔をされた。そんで世界は平らですとか真顔で言われた。
科学が宗教の大部分を打ち負かして以来、そんな迷信聞かされて育つ子供も滅多にいるまいというほどの、凄まじい蒙昧っぷりだと判じざるを得ない。
だがしかし、いっき前のおうれきウン年という数え方はよくわからんが、とにかく過去に世界の果てに辿り着いた冒険家的な名前が出てきた。人を担ぐにしても、設定を練り込みすぎてる気がする。職場に内緒でこっそり新人賞に投稿するつもりで温めてたネタでも持ってない限り、咄嗟に出てくる言葉とは思えない。
恐る恐る、もう一度確認してみる。
「本当に、本当に本当に本当なんですね」
「あなたがなぜそこまで頑なであるのか理解に苦しみますが、事実です。世界の果ての先には闇があり、世界の果てから零れ落ちる水は精へと還り、再び世界を巡って形を得て、雨となって大地に降り注ぎます」
「先生その情報は第何話で出すつもりですか。本編内では触れないけれど、実はそういう土台が作ってあるっていう裏設定ですか」
「あなたは先ほどから何を言っているんですか」
吹き荒れるブリザード。氷点下の世界。ふた昔くらい前の誇張表現を現実に見ることになるとは思わなかった。この博士、表情が乏しいかわりに魔術で感情を表現するっていうキャラ付けでもしてるんだろうか。いや、別に魔術を使ってるけはいはないんだけど。ないはずなのにすごく寒い。
しかしまあ、博士がこんだけ苛立つってことは、本当の本当にこの世界は真っ平らなんだろう。そんで外に広がるのは闇で、水は精に還る、と。
理解は全くできないが、とりあえずファンタジーへの耐性が求められていることはわかった。
わたしから見たら人類総ウィザード時代と言っても過言でないほど、魔力が当たり前の世界。魔術がありふれた世界。魔術工学が発達し、そもそも我が身に降り掛かった災難として、ピットと通過現象が存在している世界。
うん、いける。納得できるぞ。ここは剣と魔法のファンタジーランドだ。どう考えてもそうでしかない。身をもって体感している。それに適応することになんの問題もない。
「ないわけねーわ!」
やっぱり理解に難すぎて、思わず握りこぶしを机に叩き付けてしまった。なんとかいう金属を魔力で鍛錬して作られたという天板は、素っ転んでコンクリに額を打ち付けたとき以上の衝撃をこぶしに返してくれた。真っ白い衝撃がびりっと全身を走る。痛みがあるのは元気な証拠。いやあ、生きてるって実感するね。たぶん骨が砕けた。
「ジオ! 何をしてるんです!」
大きな机に向かい合って座っていた博士が、慌てた様子でこちらに回り込んでくる。ありがとう、もっと急いでくれ。ついでに救急車を呼んでくれ。さすがにわたしも、こんなことになるとはこれっぽっちも思っていなかった。
「は、博士……最期にひとつお願いが……」
「何ばかなことを言っているんです! 死にはしません! 死にはしませんが黕鋼を素手で殴るなんて何を考えているんですか! 赤ん坊でもそんなことはしませんよ!」
「そ、それは、かの生物に己を害するほどの力すらないだけではありませんか」
「ええそうでしょうとも! 半端に力だけ持って、頭の足りない人間がどうなるのか、改めて思い知りましたよ! こんなときくらい減らず口を叩くのはよしなさい!」
駆け寄ってきた博士が、なんらかの損傷を負っているわたしの手を握ったのがわかった。そういうのはいい。そういうおセンチなシーン作りは要らないから、一刻も早く救急車を呼んでくれ。余裕があるふうを装って入るものの、わたし今、本当に全身から血の気が引いている。
もうダメだ。意識が保てない。博士がモタモタしてるから――と目を閉じかけたところで、そこまで言うほど体調が悪くないことに気づいてしまった。え、妄想? 幻覚だった? めちゃくちゃ慌ててしまったけれど? 末期の水さえ要求しそうになってしまったけれど?
わけがわからなくて患部に目を向けると、なんかこう、光っていた。青緑に発光していた。博士の手と、それに握り込められたわたしの手が。な、なんじゃこりゃあ……!
思わず目をかっ開いたら、呆れたような溜め息が頭上から降ってきた。
頭上。
それなりにパニックに陥ってたわたしは負傷した手を握られたことしか知覚してなかったが、いつの間にやら上体が、抱きかかえるような格好で博士に支えられていた。
なんとなく自分たちがお耽美な雰囲気を生み出しいている気がしないでもなかったので、「お姉さま」と呼んでみたら怪訝そうな声をかけられた。
「姉……? ジオ、まさか記憶が?」
「いえ、雰囲気を読んだだけです」
怪訝そう、だけど隠しきれない期待に満ちた声に、きっぱりとノーを告げた。お茶目な冗談で余計なことを言うだけで生肉を切り裂かれかねない環境だってことをすっかり忘れてた。
博士は大袈裟に溜め息をついた。
「のど元過ぎれば、とはまさにこのことですね。せめてもう少しくらいしおらしくしていてはどうですか」
「未来に生きる女なので」
「ごっそり記憶を失ったのがつい先日のことだというのに、積み上げ始めたばかりの新たな過去を、よくもそう無下に扱えますね」
「都合の悪い過去に価値などありません」
胸を張って答えると、べしんと額をはたかれた
「過去から学ぶ意思くらいは持ちなさい」
「はい。良く知らないものは軽率に叩かないことにします」
至って真面目に答えたというのに、博士は妙に不満げである。全く、過去ばかり振り返って生きている人とは難儀なものだ。
「全く……わたしが治癒魔術を使えるからよかったものの、普通であれば施療院に駆け込んで延々順番を待った末に、とりあえず骨がくっつく程度の粗末な治療に代金を払って、完治まで薬を塗り続けることになっていたんですからね」
「何それこわい」
施療院とやらで施される治療が、ではなくて、博士の認識が、である。
とりあえず骨がくっつくだけでもわたしには驚きだし、十分すぎると思うんだが、それを粗末な治療とはいかに。
いや、仕方ないのか。だってよく考えたらわたしの手は、既に怪我した過去などなかったかのように完治している。何を隠そうさっきの青緑の光が治癒魔術だったのダ! そんなことが自力で、瞬時にできちゃえば、そりゃあとりあえず骨がくっつくだけの治療なんて虫垂炎からくる腹痛にバファリンルナを出すレベルの粗雑な対処に思えちゃうゾ!
そう、ここは剣と魔法の世界。まだ剣は見てないが、きっと存在するファンタジーワールド。寧ろ、救急車が走り回って傷病人を回収し、悪いところが体内にあればとにかく切り開いて直接手を触れないと治せない、みたいな確かそんな感じだったはずの、わたしの住んでいた地域が野蛮だったのだ。非文明的だったのだ。
時代はまさに魔術なのだ。
だから世界は平らでも何も間違っていないのだ。
「……やっぱそれは無理だわー」
「何がです」
こらえきれずに小さく呟いたところ、間髪入れずに返答がある。そういえば、まだ博士に抱えられたままだったわ。案外いいにおいがするし、ちょっと役得だなーとか思ってたわけじゃない。独り立ちするタイミングを失していただけ。断じて言い訳ではない。
よっこいしょ、と口にしながら感動の自立を果たす。博士もまた、いかにも冷淡な人間らしくご自身の召し物をぱんぱんとはたきながら立ち上がる。うわあ嫌味。
「あのですね、博士。世界が平らで外も下も闇がうごめいてるなら、どうやって日が沈んでまた昇ると言うんです」
「まだそんなことにこだわっていたんですか」
「こだわりますよ。太陽がなければ人間は生きていけないんです。それなのに、夜と朝がどのようにもたらされるのかも、平らな世界じゃ理解不能です。カーテンですか? 空に引かれたおシャンティなカーテン説信者ですか? 天動説未満の世界観じゃないですか!」
言っているうちに感情が昂ってきたが、机を叩くと骨が折れると学習したばかりなので、目の前にある博士の腕をストレートで殴った。女性の胸も腹も、叩くわけにはいかないから仕方がない。
すると腹立たしげな舌打ちのあと、頬を抓り上げられた。リターンが過剰すぎる。まるでラジオペンチに肉を挟まれているような痛み。マシュマロのような乙女の柔肌に触れている自覚はないのだろうか。見たところお肌の曲がり角にさしかかりそうな齢の女性の、若さへの嫉妬だろうか。
「いはいいはいごへんらはいふるひれくらはい」
「あなたがどれほど原始的な教育を受けてきたか想像もつきませんが、輝陽は動きません。常にそこにあり、世界を照らしています。世界に夜が訪れるのは、精の動きが活発になるせいで大気が揺れ、地上に届く光が弱まるからです。光の弱まっている間の輝陽を翳陽と呼び、いびつな大気の揺らぎで空に散って見える光を瞬陽と呼びます。念のため付け加えると、これはリアオーネス独自の文化に基づく見解ではなく、世界共通の通念ですが――ここまで丁寧に言えば、多少は思い出しますか?」
思い出さない。
全くもって、なんにも思い出さない。
でも、ひとつだけわかったことがある。
博士の言った、『えいよう』と『しゅんよう』は、たぶんきっと恐らく絶対、月と星のことである。
月と星と太陽。空に浮かぶ光はその三つだ。しかしそれは、どーにも博士の教えてくださる『常識』と乖離している。
つまり、だ。
わたしはたぶん、本当にとんでもなく野蛮で非文明的な世界の住人だったのだ。世界の隅っこのそのまた端の、啓蒙の光の届かない秘境からやってきたということだ。
そんなところまで広がっているピットのカバー力の広さには恐れ入る。アマゾンの如く優秀だ。
だが、感心などしていられない。
一気に絶望のどん底である。
なぜならこれで、もともと希薄であったふるさとに帰れる見込みは、あっという間にゼロに等しくなってしまったのだ。




