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3-4

「いつまでもゴロゴロしていないで、いい加減に起きなさい。もう昼ですよ」

「いいじゃないすか毎日毎日日の出とともに叩き起こされても文句ひとつ言わず粛々と従っているんです休みの日くらい寝かせてください」

「あなたはそうやってすぐ楽な方楽な方へと流れていくから、いつまでたっても成長しないのですよ」

「ちょっ、おま、今どこ見た。どこを見て成長しないって言いやがった」

「どこも特別に注視した覚えはありません。やましい気持ちがあるからそういった被害妄想が生じるのです。もう寝ていていいですからせめて足を上げなさい。今日はシーツを洗う日です」

「はいはいはい上げますよでも結局足を上げたら今度は背中をどかせと言うんでしょうわかってますよどかしますよだがしかし起き上がりはしませんからね断固として。なぜなら今日は休日だから。わたしの功徳積み立てキャンペーンも休業中だから」

「勝手になさい。一時間前ほどからイリオが隣の部屋であなたの起床を待っていますが、それもどうでもいいのであれば、夕方まででも寝ていなさい」

「ちょっ、ちょっと、お前何言ってんの!? どうしてそういうこともっと早く言わないの? そもそもなぜイリオさんを部屋に上げあまつさえ寝室の扉を開けっ放しにしているの? 常日頃煩悩に惑わされずサタンを退けてストイックに清貧に己を律して生きている清純派慈愛系乙女の、たった週に一度の自堕落な解禁日をなぜ人様に公開してもいいと思ったの!?」

「彼が訪ねてきたとき、きちんとあなたの意向を確認したでしょう。それに対して、あーだのうーだのどうとでもとれる返事をしたのはあなたです」

「わかっててやってんじゃねえか嫌がらせかよ。嘘でしょ勘弁してくださいよなんでよりにもよってイリオさんに休日の野原ひろしとみさえみたいなやり取りを聞かれなければならないんだ……!」


 美形博士がフラネイに戻ってきてから早一週間。わたしは、借り受けているコンドミニアム的な住宅の隣の部屋に当然のような顔をしておさまった博士どのに、生活を侵蝕され切っていた。


 最初はな、わたしだって全力で抵抗したんだ。誰が朝も早よからノッカー連打されて愛想良く応対できるんだ。ヘレンケラーだってフライパンでぶん殴るわ。周りみんな観光客でのんびりまったり過ごすつもりの人たちしかいないのに、朝っぱらから騒がしくして恨みを買い、その辺の土産物屋で手に入る、竜の鱗もすっぱり切れるエネス鋼の解体用ナイフとかで刺されたらどうしてくれるんだと聖女の微笑みなどかなぐり捨てて激怒した。


 だがしかし、心の底からわたしのためになると信じて疑っていない様子と、捧げ持った菓子折りの箱を見て、わたしは対応を変えた。


 自分の中の正義と正解が他人にとってもそうであると信じきって疑うこともないというその態度は、もうそれ完全に精神病質だけどね、幸い良心が欠如しているわけではないようなので、問題は精神の発達度にある。いい歳をして、ツラしか立派に完成しなかったのである。お子様なのである。そういう手合いに否定的な態度を取っても、却って相手を頑なにさせるだけである。


 要するに、わたしがとるべき対応は、話を聞く、否定をしない、共感する、「こうしてくれたらもっと恰好いい」方式の提案で行動パターンを上書きする、の育児スタイルだった。別に、いつぞや育児とか言われたのを根に持ってたわけではなく。あの暴言は一言一句覚えているけど、特に根に持ってたりはしない。わたしは寛大なので。


 ともあれ、そのようにおおらかな接触を続けるうちに、ひとまず日の出前に起こしにくることはなくなった。昨日など、日の出とともに合鍵で勝手に入ってきて人んちのキッチンを勝手にいじって朝食の準備を整え勝手にゴミ出しを終えてからわたしを起こしにきた。随分な進歩だ。情操の未発達な博士は着々と成長している。年相応に成熟する日も近いだろうしひょっとしたら変態性も矯正されていくかもしれない。


 ……まあ、なんだ。つまり、なんだかんだで言うことは聞くし、そこそこ便利だし、お財布にもなるしで、気がついたらパーソナルスペースの侵犯を許してしまっていた。


 そうして、今日のような過干渉な母親と反抗期の娘、或いは倦怠期の夫婦じみた会話が発生してしまったわけである。


 故に博士とわたしの仲が深まったということは全くないのだが、何も知らないイリオさんに聞かれたらどんな勘違いをされてしまうかわからないだろ。クラスでちょっと浮いてる子とほんの一言儀礼的な言葉を交わした場面を担任の先生に見咎められて遠足の班を一緒にされてしまう、みたいな気まずい展開を生んだらどうしてくれる。寛大に接してやるとは言ったが、変態とひと組にされるのはご免だ。


 慌てて布団を跳ね飛ばし、手早く着替えて一室2Kのコンドミニアムの居間兼客間を覗くと、本当にイリオさんがいた。備え付けのソファでお茶を飲みながら、持ち込んだらしい書類を静かに検めている。……たぶん一時間前から。


「すみません待たせるつもりはなかったというか待たせてる自覚がなかったというかイリオさんが来てるなんて本当に全然聞いてなかったんですよあいつはわたしに伝えたとか言ってるけど聞かせる気など全くなくあるのは悪意だけなんですよところでさっきの会話は聞いてませんよね」


 足下に滑り込んで土下座をし、勢いに任せて捲し立て色々うやむやにしようというせこい手段に出る。

 頭上からかたんと、カップをローテーブルに置いたらしい音がして、イリオさんの穏やかな声がそれに続いた。


「そうだね。まあ俺も、会わずに帰れという意志を感じないでもなかったかな」

「おっ、うおおお! あいつやっぱりろくに起こす努力してなかったんじゃん!」


 思わず清純派にも人格者にも似合わぬ猛々しい声を上げてしまった。反省。しかし一番反省すべきなのはあの美形。一応本人の希望に基づき博士と呼んでやってはいるものの本当に博士号を持っているのかどうかも定かでないし、フラネイ滞在中はでろでろした白衣を封印したらしく見た目の博士っぽさも消え失せ、なんかもう脳内で勝手にそういうプレイを展開している疑惑が濃厚になってきている博士モドキ。あいつ、偉そうに言ってたけどなおざりな対応しかしてなかったんじゃん。なんてやつだ。


 憎しみの全てを瞳に込めて振り向き、寝室に続く扉を睨み付けると、イリオさんが小さく笑った。


「でも、随分と打ち解けたようで安心はしたよ」


 ほら。ほら聞かれているし案の定誤解を生ぜしめている。


「全てはわたしの譲歩と努力の結果なのです。あいつとんでもなく精神の幼い人間なので、仕方なく付き合ってやって教育してやっているのです。――そう、未熟な博士どのが少しでも真っ当な人間になれるよう、わたくしめのささやかな胸を貸しているのです」

「うん。苦労は多いだろうけど、君なら必ず特使殿を成長させてあげられるよ」


 イリオさんは笑顔でそう言ってくれたが、誤解はまるでとけていない気がする。どころか、ますます深まったような気さえする。もはや釈明は不可能だというのか。無慈悲。


 こうなったら、徳を捨てる覚悟でやつに厳しく当たるしかない。とことん無関心を貫き、話しかけられても無視するのだ。なんか余計面倒なことになる予感しかない。くそくそ、たった一度きりのわたしの人生なのに、なぜこうもやつに振り回されなければならないんだ。


「ともあれ、これほど仲が良いのは好都合だな。今日は君たち二人にちょっとしたお遣いを頼みにきたから」


 ほら。ほらあっさりと変態と二人一組にされてしまった。なんという屈辱。


 しかし、わざわざわたしの部屋まで頼み事をしにきたイリオさんを、すげなく追い返すことなどできない。


 そもそも、現在わたしがしていることと言えば雑多な知識の詰め込みとフラネイ観光くらい。観光ついでにイリオさんたちの仕事を手伝うことも多少はあるけれど、本当にささやかなものでしかなく、なんというか、あまり直視したくはない現実だけど時間が有り余っているというか、羞恥を捨てて有り体に言ってしまうと、もしや自分はニートなのではないかという強迫観念に悩まされる時間が無駄に増えたというか、まあたぶん実際にニート。

 一応エデュケーションは受けているが、半分以上聞き流しているので自信がない。家事全般も全て博士がこなしており、わたしが自力ですることは呼吸だけでいいレベルの日常。介護か。いや、立ったり歩いたり顔洗ったり詰め込み教育を受けたり観光したりしてるけど、そういうこと言うとますますニート感が強まる。


 そんなわけで、真っ当に就労しているイリオさんに『通過者』として色々な便宜を図って頂いてニートしてるわたしに、ノーと応える権利などないのだ。


 唇を噛み締めながら笑顔を張り付けるわたしに、イリオさんは苦笑しながら続けた。


「三日ほど前から、観光客相手のあこぎな商売について苦情が上がっててね。売ってるものは本物なのだけど……まあ、平たく言えばぼったくり。ほかの店を見て価格の桁が違うと気づいた人が、観光局に相談を持ち込んできたんだよ」


 ところがそのぼったくり屋台は、観光局の職員や保安官の顔を把握しており、イリオさんたちが実態を確かめようにも、なかなか尻尾をつかませない。真っ当な店に見せかけたり、或いは屋台を素早く畳んで逃走してしまうらしい。

 そこで、外国人であるけれど観光局と関わりのあるわたしたちに、お鉢が回ってきたというわけだ。いわゆる囮捜査である。Gメンである。か、かっこいい。

 不謹慎ながら、博士と一組にされた不快感が吹っ飛び、一気にテンションが上がった。


「危ないことをする必要はない、というか、しないでほしい。君たちには、その店を見つけて普通に買い物して、ただ領収書を請求してほしいんだ」

「そんなんでどうにかなるんですか?」


 その場で捕まえなければ意味がないんじゃないのかと、顔をしかめて不満を示す。それではぼったくりGメンできないではないか。


「一応彼らも、俺たちを店に入れることはするから。証拠さえ掴んでしまえば、探りにきただけと見せかけて、そのまま捕縛してしまえる。だから、そうだね。いかに自然に、行政司法とは関係ないように思わせて領収書を切らせるかっていうのが重要にはなるんだけど……特使どのもいることだし、どうにかなると思うんだ」


 こういうときは、ぽっと出の美形ではなく、わたしを信じて欲しかった。この貞淑で高徳で嘘のつけないわたしを。


 言い様のない悔しさを覚え内心歯ぎしりしつつ、まあお遣いの内容は了解したので頷こうとしたところ、背後から溜め息が聞こえた。


「わたしたちは、あなたの便利な手駒ではないのですが」


 ばっと後ろを向けば、シーツに加えて枕カバーもタオルケットも脱ぎ捨ててきた寝間着も抱えた美形が、険しい顔をして立っている。こ、このハイパー嫌味野郎、誰のお陰でニートできてると思ってるんだ。

 しかし人格者のイリオさんはそんな不躾な態度に気を悪くする様子もなく、小さく頷いた。


「ええ、承知しています。ですので、依頼に来たのです。承けて頂ければ相応の謝礼もお渡ししますし、もちろん断って頂いても構いません」

「いやいやいや何を言ってるんですイリオさん。あんな顔だけ野郎の言葉は気にしないでください。本当に申し訳ない。どーんと任せてください我々にどーんと」


 失礼な美形の非をへこへこ詫びると、後ろでまた溜め息がつかれた。だ、誰のために謝っていると思ってやがる。


 理性を総動員して湧き上がる怒りを抑えつつ、イリオさんと二、三言葉を交わし、結局その『お遣い』は引き受けることになった。


 全くとんでもないやつだ。一体、我々の滞在費や食費がどこから出ていると……いや実は全然知らないんだけど。観光局に寄生しているとはわたしが勝手に思っているだけで、ひょっとしてリアオーネスから費用が……? いやそれにしたっていろいろお世話になっているのだし。受けた恩は返すべきだと、聖人はみんな言ってる。


 そんなこんなで、でろでろしたリアオーネスの服を着て、フラネイの市場――主に、被害の報告があった街の大通りからちょっと外れた屋台通りをふらふら巡ることになったのだが。


 数日かけて、あちこち回って見つけるつもりだった問題の店に、わたしたちはあっさりと行き当たってしまった。日頃の行いがよいので。わたしの徳が幸運を引き寄せたので。


 ところがそれは、囮捜査を引き受けたわたしたちにとっては幸運だったが、わたし自身にとってはただの不幸でしかなかった。


 気さくに声をかけてきた売り子の、凄まじい額の提示に頭痛を感じながら交渉するのは博士に任せ、わたしは並んだ商品を適当に眺める。イリオさんのお陰で多少肥えた目で確認すると、確かに品は一級品であった。こんなやつらに利用されている伝統工芸が哀れである。


 などと考え、あちこちに視線をやっていると、屋台の裏から出て来た別の売り子と目が合った。どうやら商品を補充しに出てきたようなのだが、その目を見た瞬間、わたしは這い上がる怖気と必死で戦う羽目になった。


「お、お前、ヒュジィじゃないか!」


 ――お前は大島標準語を喋れなかったはず。いや、そもそもわたしはこんなやつと知り合いだった覚えがないしヒュジィとやらでもないのだが――一瞬で鳥肌が立った体は誤摩化せん。とりあえず気持ち悪いことしかわからないが、それだけわかれば十分でもある。わたしはこいつを『危険人物』として識っているのだ。


 驚きながらもヨメとかケッコンとか気色の悪い単語を交えて何かを捲し立てる売り子から急いで逃げ、両腕をさすって博士の後ろに隠れる。博士は訝しげな顔をしたが、すぐに状況を把握したらしく、本日何度目かの溜め息がその整った唇から漏らされた。


「そこの保安官。これはシルキアの脱獄犯です。おそらくウルジアへも違法入国でしょう。早急に捕まえてください」


 買い物も領収書も何もかもすっ飛ばして、一本向こうの通りで警邏していた保安官を呼び寄せる。博士と交渉していた男も、気持ちの悪い男も、屋台の脇に控えていたらしいもう一人の男も、ぎょっと目を剥いて慌てて逃げ出そうとした。だが、博士が小さく何かを唱えると、空気が変なふうに盛り上がる感覚と共に三人の体は宙に持ち上がって屋台の正面に押し出され、地面に叩き付けられる。


 それでも逃げようとする三人を、また空気の塊が抑え付け、そうしているうちに駆けつけた保安官があっという間に彼らを捕らえてしまった。


 なんだかわけのわからないうちに、事件は解決したらしい。全く理解できない。わかっているのは、ひとりの気持ち悪い男がわたしの精神にそこそこのダメージを与えて去っていったことだけである。


 そしてもうひとつ。


「……やはり、嫌悪なのですね」


 博士がそっとこちらに手を伸ばし、頬を撫で――次の瞬間、同じ場所をぎちりと抓り上げて。


「痛い痛いやめろ! ドエムのくせに何しやがる!」

「な、なぜ思い出さないんです!!」


 ドエムのはずの博士からの謎の虐待が、あの気持ち悪い男のせいで始まったことである。

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