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3-3

 逃走はことごとく失敗に終わった。


 きっと助けてくれると信じて疑わなかったイリオさんに、一切の助力を拒まれた――のみならず、決死の試みのことごとくを、万全の布陣をもって阻害されたからである。具体的には、フラネイ観光局局長の肩書きと職権を存分に濫用し、全職員並びに出入りの業者、近所のオバチャンたち、果ては番竜までをも総動員した終日の監視体勢。


 まさか、この高徳かつ清廉な精神を持つわたしが社会復帰したばかりの受刑者のような扱いを受けることがあるなどとは、考えたこともなかった。というかたぶん情報の伝達が不十分で本当に犯罪者だと思ってる人いた。卵投げられたもん卵。腐ってるやつ。わざわざ丁寧に毛布にくるんで大事に大事に腐らせたやつ。あれはさすがのわたしも助走を付けて殴ってやりそうになった。

 それについてはイリオさんも謝ってくれたけれど、終日監視の対応自体はまるで揺らがなかった。


 裏切り者! ……という重たい言葉を使って精神的なダメージを与えることは躊躇われたが、恨みをめちゃくちゃ込めた視線は顔を合わせる度に送っておいた。イリオさんは苦笑いをしながら「君のためだよ」などとのたまっていたが、どう考えてもあの美形のためでしかない。あとは、外交問題への発展を気にした政治的判断が少し。本当にわたしのためを思うなら、なんとしてでも逃がしてくれるべきだった。


 ――こうして、直視するだに頭が痛む凄絶な美貌と、再び対面させられることになる前に。


「わたしが戻ってくるまでの間、周囲にかけた迷惑についてはきちんと謝っていますか」


 こいつ、出会いしなに暴言を吐かないと脳の血管でも切れるんだろうか。いやまあ今ブチ切れそうになったのはわたしなんだけど。


 なんでこんなに上から目線で……そもそもどんな根拠があってわたしが人々に迷惑をかけていると断定しているのか……こいつはわたしのなんなんだ……などと憤怒し煮えたぎるはらわたを、クリームソーダを流し込んでどうにか冷やし、鎮める。因みに、フラネイでは完璧なまでに毒々しい蛍光緑のカエナシロップを、ただのジュースとしてしか活用していなかった。ので、わたしが発泡水を用意させ、アイスを載せさせ、お子様とジャンキー御用達ドリンクを完成させてやった。のちのち、知的財産権などの関係でわたしの収益となる予定。


「ジオは今日までとてもいい子にして、あなたの再訪を待っていましたよ」


 冷静になろうと努めるわたしの横で、イリオさんが営業スマイルを浮かべてそんな答えを返した。


 や、やめろ、世の中には言っていいこととわるいことがあるんだ!


「誰も待っつぁったい! めっちゃ痛い!」


 慌てて抗議しようとしたものの、瞬間、足の小指に激痛が走って、論点のはっきりしない主張となって終わった。一体何事だ。


「ああごめんね。余計な手遊びをしていたらついうっかり文鎮を落としてしまった。ジオも余計なことをしてはだめだよ」

「ぐおおその素直な心に免じ許しましょうしかしこれ本当に痛いんですけど骨砕けてませんよね」

「どうかなあケイネス鉱だから」

「うおおお無理なことでも大丈夫っていう関西人やインド人より遥かに実直なあなたをわたしは敬慕しますがその我関せずな態度については二時間くらい説教したいし足が潰れてたらブードゥーの呪い百選のうちどれかを実行します本当に痛いから!」

「そんなにあるの? 困ったねえ」


 口では困ったと言いながら、全くそんな素振りは見えない。今困っているのはイリオさんではなくわたしなので当然である。


 が、平然と笑ったままのイリオさんは、大丈夫だと無責任に何かを請け負ってくださった。今し方実直さを評価したばかりだというのに、こんなのあんまりだ。


 痛いし怖くて実際に触ることはできない足を、それでも抱えるようにして悶え苦しんでいると、それまで沈黙していた美形が、突然立ち上がったけはいがした。呻きながらもそちらを見ると、元より透明感のあったお肌を蒼白にし、目ん玉をかっぴらいてこちらを凝視している。そしておもむろに体を前にふらつかせた――と思ったら、がつ、と足を寄木細工のローテーブルにのせて一気に距離を詰めてきた。


 ど、動転するのはわかる。目の前で突如猟奇的な傷害事件が起こったら誰だってそうなる。だがお前が踏みつけた机はお前の月給の何倍するかわからんやつだぞ一刻も早く下りろ!


「今治しますからそのままじっとしていなさい!」


 願いが通じて机からは下りてくれた美形様は、よくわからないことを言ってわたしの足に触ろうとする。恐ろしくて逃げようとしたが、イリオさんに肩を押さえて拘束された。


 先日から、イリオさんは美形の肩を持ちすぎである。ひいきか。過去も身元も定かでないわたしより、徳が低くても肩書きとか給与などがしっかりしている美形のほうがいいというのか。あるいはその美形に骨抜きにされてしまったのか。そんな、イリオさんに限ってそんな……いや、いくら老成していようと彼だって年頃の男性であることは確かなのでそういう誘惑に負けてしまうことは責められない……いやいやいや、今大事なのはそこではないぞ。治すってなんだ。美形が仮に医者なのだとしても、ろくな道具もない場所で治療ができるわけないだろ。わたしだってわかるわ。それより早く救急車を呼んでくれ。


 と、いうようなことをほとんど全部声に出して喚き散らしたのだが、美形もイリオさんも、盛大に眉を顰めただけで態度を改める素振りも見せなかった。こ、これは……聖人が聖人たる故に世間に抹殺されるという割と有名なパターンか。わたしもこれまでの善行と引き換えに復活できるだろうか。


「いやそれやっぱ物理的に無理でしょ心肺停止から数分とかならまだしも三日だぞ無理でしょあれ絶対盛ってるから早く救急車呼んで」


 うわごとのように救急車救急車と繰り返すと、美形は呆れたように溜め息をついた。なんというぞんざいな対応。


「あなたはまたわけのわからないことを。落ち着きなさい。もう癒えてきたでしょう」

「いやそちらこそわけのわからないことを……言って……ない?」


 そういえば、先ほどからあまり痛みを感じなくなっている。いやでももしかしたら、許容値を超した痛覚を脳が遮断しただけかもしれないし、とい疑いながら、ゆっくりと患部に目を向ける。


 美形の、ささくれひとつない滑らかな手に包まれたわたしの足は、クリームソーダよりは柔らかな――緑の光を放っていた。


「うわああ発光してる! ほらイリオさんが粗相をするからわたしの足がミュータント化しちゃったじゃないですか! どう責任取ってくれるんです! 一生養ってもらいますよ!」

「ジオ、これはただの治癒魔術であって、君の足はどうにもなっていないし強いていうなら怪我をする前の状態になっただけ。だからね、何度でも言うけど――余計なことを口にしてはいけないよ」


 謎の発光現象に錯乱しかけたわたしに、イリオさんは重々しい声音で丁寧に説明してくれた。なるほど治癒魔術。なるほど。

 そういえば、世の中には魔術というものがあるんだったな。わたしには魔力が扱えないだのなんだのと持たされた手紙に書かれていたし、フラネイでの暮らしは魔導器もそんなに使わないしで、まるっきり頭から抜け落ちていた。


 光の正体がわかって気持ちが落ち着くと、未だ治癒を続けてくれている美形に意識がいった。

 こいつ、わたしが痛みに悶えているのを見て、すごく慌ててた。ひょっとして、自分も文鎮落とされたい! って興奮したのかもしれないけど……いいや、よそう。恩人に対してそういう言い草は失礼だ。たぶんこいつは、確かに自分はなじられたり痛めつけられたりするのが好きだけど、他人はそうとは限らない、っていうのを心得た変態なのだ。己の欲望と職務に関わること以外なら、非常に理性的だし常識的なのだ。


 ならばわたしも、こいつの欲望と職務の範囲外では少し歩み寄ってやるべきなのだろう。


「その……ありがとうございます」


 ちょっとばつの悪さを感じないでもなかったが、つっかえることはなく言い切ると、美形は顔を上げて固まった。な、何そのやや失礼な反応。別に変なこと言ってないだろ。


 今口を開いたら文句を飛ばしてしまいそうで、わたしは何も言えないのだが、美形も一向に動かない。

 どうしようかと思っていると、イリオさんが小さく吹き出した。


「なんて顔をしていらっしゃるんです」

「いえ――いえ、先日はわたしのことが、ひどく気に入らない様子であったので……」

「怪我を治しても感謝されることはないとでも思われましたか。『ジオ』はそんな恩知らずではないし、とても素直でいい子です。と、先日お伝えしていませんでしたっけ?」

「どうでしょう……すみません、本当に驚いていて、細かいことは思い出せません」


 なんだか本当に失礼なやつだなこいつ。


 と、不快感を催したが、すぐに考えを改める。寧ろこいつは、人に感謝されることに慣れていないかわいそうなやつなのでは。原因はたぶん、変態だからと周囲に軽蔑されていたせいだろう。


 恐る恐る、小声でイリオさんに聞いてみると、満面の笑みで肯定された。やっぱりそうなんだ。か、かわいそう。


 よし、わたしは――わたしだけは、いつでも美形に優しくしてやろう。こいつの欲望と職務が関わらない限りでな。


「大丈夫ですよ。おそらく今後、わたしは幾度もあなたにお礼を言うことになるでしょうから……感謝されるということはおかしなことでも特別なことでもないのです。きっとあなたも、そのうちに慣れてゆきます」


 わたしの作れる最大級の慈愛の微笑みを浮かべて告げると、美形は瞳をしばたたき、ほんの僅かその表面が濡れたように見え、そして――


「嬉しいのに……それ自体は嬉しいのに……この人格はあんまりです」


 などとのたまい、顔を背けやがった。お前の頭部をサッカーボールにしてやろうか。


「まあまあ落ち着いて、ジオ。君に感謝されたことにまだ困惑しているんだよ。それから、以前の君との齟齬にも。きっとそれも、そのうちに慣れてくれるよ」


 憤慨するわたしをイリオさんが宥めてくれる。そうだ、優しくしてやろうと決めたばかりだ。こんなことで怒っていては身が持たないし、これまでコツコツ溜めてきた徳も持たない。


 発想を変えるんだ。例えば――そう、こうやって要らんことを口にしてわたしの怒髪に天を衝かせようとしてくるのも、隠し事のできない誠実さが災いしているのだとか。いやまあ、実際どんなに正直でも空気読めなかったらキチガイとしか思われないけどな。人間は社会性の生き物なので協調性は大事。しかし、寛容で慈悲深いわたしはそれを受け入れてやるのだ。こいつが変態性を発揮しない限りな。


「そうですね、イリオさんの言う通り、きっとそのうちに何もかもがうまくいくようになります。あまり悩みすぎず、少しずつ進んでいきましょう」

「……ええそうですね、少しずつ変えていきましょう」


 なんか今、若干不穏なことを言った気がするが、まあ気のせいだろう。まさかそんな、洗脳じみた人格改造を堂々と宣言してくる人間が身近にいるわけがないからな。しかしなぜか寒気がするなあ。風邪かなあ。


「あー、ところで、あなたお名前は」


 気を紛らわせようと思って話題も変えてみると、美形はくっと唇を噛んだ。お、おう、そうだな、これは多少失礼だったかもしれない。反省。


「も、申し訳ない……」

「ジオとあなたが対面するのは二度目ですから。名前があやふやなのも致し方のないことでしょう」


 横からフォローが入ったが、まああやふやっていうか全く覚えてないんだが、ちらっとこちらを見たイリオさんの目が黙っとけばわからないんだからと語っていたので口をつぐんだ。まあ人を不幸にしない嘘なら別にいいだろと、わたしの善悪メーターも言ってる。


「よろしければ、改めてお互いに名乗り合って、新たな友情を築いていきましょう」


 イリオさんでまかせに乗っかってそう言ってみると、美形は、強く噛んだ唇をそのままに、更に眉間に深い皺を刻み込んだ。まさかばれているとでもいうのか。


 や、やっちまったなー、めちゃくちゃ怒ってるなー、と引きつった笑みを張り付けたまま冷や汗垂らして固まっていると、美形は俯いて、ぽそりと頼りない声を落とした。


「……と」

「は?」


 誠に申し訳ないんだけど本っ当に何言ったんだか聞こえなかった。もっかい言ってほしいんだが、これで聞き逃したのがこいつの名前だったら申し訳がなさすぎて徳ポイントを全てリセットせざるを得ないレベルなので聞き返せない。


 困った、と思ったのも束の間、美形は勝手に、また言葉を紡いできた。


「博士と、あなたは呼んでいました」

「ははあなるほど、確かにそれっぽい服を着ていますよねややでろでろしすぎた感もあるけれどまあそこそこ白衣みたいな……え?」


 うんうんと頷いてから、はっとした。それ名前じゃねーじゃん。

 イリオさんも同じことを思ったらしく、ひじょうに複雑そうな苦笑いを浮かべて顎に指を当てていた。


「もう一度、そう呼ばれたいということでしょうか? まあそれはそれでお好きになさればいいとは思いますが、名前を知ることも大事ですよ」

「それは……」


 本当はわたしが名前を把握してないことをわかっているイリオさんは、噛んで含めるような物言いで、どうにか美形に名乗らせようとする。あとでこっそり教えてもらえばいいことでもあるが、その機会を得る前に抜き打ちチェックされたら困るからな。聞けるなら今聞いておきたい。


 美形は歯切れ悪く返事をしてから、顔を曇らせたままそっぽを向いている。そんなに恥ずかしい名前なんだろうか。大丈夫、わたしは寛大だし、キャベツさん太郎とかすたみな太郎とか、そういうアレな名前とも前向きに付き合ってきたので、ちょっとやそっとの奇矯さなど気にしない。


 そんな思いを込めて深く笑んでやったが、美形はちらりともこちらを見なかった。か、感じ悪い。


「――特使殿」


 頑なに口を閉ざすわけを問いただそうとしてか、イリオさんが強めの口調で呼びかけると、美形はしばし逡巡した末に、ぼそぼそと聞き取りにくい声で弁明した。


「……思い出す、可能性に。賭けてはいけないでしょうか」


 何をだ。名前をか。わたしがか。わたしがお前の名前を思い出すのか。……すまんがだいぶ無理だと思う。


 しかし、呆れた様子で眉を下げたイリオさんは、それ以上の追求を打ち切ってしまった。


「随分、ロマンチシストですね。少々意外でした」

「なんとでも言ってください」


 言い返す美形改め博士の声は、どこか恥ずかしそうに聞こえなくもなかった。ひょっとしたら、かわいいとこもあるんじゃないとか言って、いじってやるべきタイミングだったのかもしれない。


 が、ロマンチシストっていうかただの馬鹿っていうか、あーこの人本当にかわいそうな人だわーめちゃくちゃいたわってあげないとだわーとしか思えなかったわたしは、次いで、あーちょっと早まったわー面倒な人に優しくする約束を個人的にしてしまったわーなどと嘆くのに忙しくてそれどころではなかった。


 気遣われるべき立場なのは『通過者』のほうであるべきなのに、なんでこんな繊細な一面を持ったやつがお世話係としてやってきたんだろう。もっとメンタル強化してから出直してきてほしい。だが、それで何事にも動じない、感じ入らない、鋼の精神を持った冷血漢がやってきても嫌だ。

 ちょっと感傷的で女々しいけれど、きっとそのぶん細かいことに気も回るだろうし、こいつでよかったと思おう。変態性は受け付けないが。



 ――などと結論付け、わたしなりに状況に納得をして、数日。


 まさかあっという間に、すわ溜め込んだ徳ポイントを全て失ったかと危ぶむような堕落っぷりをみせるダメ人間にされてしまうとは、思いも寄らなかった。

 こいつは、人間をダメにする世話係であった。

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