表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/30

3-2

「要するに、彼女の通過は一部職員の独断で、本人の意思があったかどうかも不確かだということですか?」


 観光局の応接間に備え付けられた鹿革のソファに腰を下ろし、片手で左右のこめかみを押さえたイリオさんが、呻くように確認した。


 わたしはといえば、美形がこのソファを目にした瞬間見せた物珍しそうな顔と、その後の言い訳を反芻し、顔を顰めていた。何の気なしに普段使いさせてもらっていたけれど、これは地域の特色だとか伝統だとかを前面に押し出して観光資源にしてるフラネイ観光局だからこその贅沢品であって、他所では竜を始めとする爬虫類の皮革製品が主流らしい。ってことは小金持の庶民はワニ皮のソファにでも座ってんのか趣味悪いな、とか思ってたのだ。現実逃避ではない。


「いえ、それの意志はあったはずです。……例えば、誰かもう一人、同じタイミングで通過することを受け入れた者がいて、それを丸め込むなり無理に引き摺っていきでもしない限り、意図的に穴をくぐらせることは困難です」


 美形がそれ、それ、と言いながらわたしの方をちらちら見ていた気もするが、数時間前から目を合わせないようにしているのでよくわからない。まあ普通に考えて、人のことをそれと言い表すような人格破綻者がそうそう身近にいるわけないしね、気のせいである。


「周囲の了解を得ないやや強引な交渉が持たれ、そこの粗忽者が誰へ報告することも確認することもなくそれに応じてしまった、ということです。結果として、職員の大半が必要以上に気を揉まされましたし、数名はひじょうに強く早期帰還を要求しています」


 粗忽者。誰のことだ。わたしではない。わたしはそんな……徳が高いので……そういう考えなしで人に不安を与えるようなことはしない。わたしではない。


 動揺を紛らわせるように熱いお茶を啜ったところ、本当に熱くて舌を火傷した。負傷は己の不徳の致すところなので八つ当たりなんて愚かな真似はしないけど、これだから保温性抜群のフラネイ特産スニア磁気は困っちゃうね!


「ああ、大体理解できました……。あなたの、出会い頭の喧嘩腰もそれが原因ということですか。しかし、それなら却って、即刻帰国するのもいかがなものでしょう。待っている方々にも、もう少し頭を冷やす時間を持ってもらった方がよいのでは」


 イリオさんは相変わらずこめかみを押さえて俯いたたまま、苦々しげに吐き出した。


 それに対抗でもする気か、美形が眉間を押さえて(かぶり)を振ったのが、視界の端でなんとなく見えた。


「いえ、どちらも確実に執念深いですので……寧ろ一分一秒でも早く帰国するほうがそれのためになると思います。自己判断でこちらに押し掛けて騒ぎを起こす可能性も……多分にあります」

「ああ、お二方なんですね……」

「ええ。よりにもよって、ひじょうに厄介な者が二名です」


 ふむ、帰りを待ちわびる熱狂的な信者が二人か。わたしほどの人格者にしては付き従う者が少ないような気がするけれど、なんかちょっと背筋を寒気が走ったので、やっぱそういうのはいらないかな。聖者たる者ね、弟子とか使徒とかそういうのも拒否するのが通ってもんだよね。しかしその徳に惚れ込んだ民草は勝手についてきてしまうのだよね。全く困っちゃうな。アイドルも楽じゃないね。


 ふと気づいたら足が異常に震えていたが、どんなに意識しても貧乏揺すりが止まらない。なんだこれは。無意識のうちに、狂信的な群衆にもみくちゃにされて圧死する幻覚でも見ていたんだろうか。体感温度もやけに低いままだ。


 そんな、理解できない体の変調に更に貧乏揺すりの速度が上がっていくわたしを、美形がもの言いたげに見ているのを感じた。なぜか、諦めろ、という信号が飛んできている気がする。なんと非情な。よくわかんないけど、助けてくれ。わたしまだ死にたくない。


「――残してきた厄介ごとの始末をつけるためにも、一刻も早く帰国するべき、ですか。まあ、現在こうして冷静に話し合いを持てているあなたからして、最初はああでしたからね……説得力はあるのですが……」


 溜め息を落としたイリオさんに、美形が労るように声をかける。


「うちの愚か者がご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」

「いえ、迷惑などとは思っていません。……しかし、彼女は帰国を望んでいない。我々は、通過者保護に関する国際法に則り、最大五十日の便宜を図らなければならない。特に所在については、本人の希望が優先される。既に発見から五日経っていますので、残り四十五日。彼女にはウルジアに滞在する権利があります……」

「……そもそもなぜ、あなたは帰国を拒否し出したのです……」


 じとっとした目が、こちらに向けられた気がする。さすがにここまでくると知らない顔はできない。わたしのことだ。


 だが、おおよそはお前のせいだ。人を責めるな。お前が怖気のするくらいの変質者だから悪いのだ。暴言を吐かれて喜び、殴られそうになってもっと喜ぶような変態と一緒に変態の本拠地に戻るなんて、真っ当な感性を持っていれば当然拒否する。現在お世話になってる相手が、めちゃくちゃいい人であれば尚更だ。


 わたしは高徳ではあるが、残念ながら人の身である以上修行が不足する点もあるわけで、変態については全く耐性がなかったのだ。こいつが来るまで気づかなかったけどな。


 更に人徳を高めるために、変態を許容するよう努めるべきなのかもしれない、が、ソドムとゴモラだって焼かれたんだから、天は己が異端と定めた性癖に対して無慈悲。ならば聖人だってダメな性癖はダメでいい。故にわたしもドマゾに対して距離を詰めなくてもよい。完璧な理論。


 それに、まあ自分のしたこととは信じたくないが、何やら軽率なことを……したらしい……ようなしてないような過去の話をされてしまい、何か恐ろしいものが待っているような待っていないようなことを言われてしまうとね、ますます帰りたくなくなるのも人として当然。


 というわけで、責めるような目には気づいてないふりを装っているのだが、最前から貧乏揺すりが止まるけはいがないので、なんだか心底では罪を認めているような気分だ。いやまさかそんな、そんな小心者みたいな真似をわたしがするわけがないだろう、このわたしが。


 口を開いたらボロが出そうな……いや、わたしに瑕なんて一切ないけどね、墓穴を掘りそうな気がするのでだんまりを貫く。


 しばらくして、美形の変態が諦めたように溜め息をついたのが聞こえた。

 か、勝った。


「……このままここに置いても、そちらに迷惑をかけるだけだとはわかり切っていて心苦しいのですが。致し方ありませんので、もうしばらく面倒を見て頂けますか」


 なんだか言葉の端々にわたしを貶すような調子が見受けられた気もするが、この際目をつぶる。これでわたしは、あと四十五日はイリオさんのところでフラネイの自然に囲まれて健やかに生活できるのだ。


 イリオさんに満面の笑みを向ければ、苦笑しながらも頭を撫でてくれた。ありがとう、お世話になります。視線を下げれば、いつの間にか貧乏揺すりも劇的に停止している。うむ、幸福パワーとは偉大だ。


「たぶん、苦労するのは君だと思うけれど。多少の不都合は我慢しなさいね」

「はい今後もよろしくお願いします!」


 自然が豊かなので虫が多いとか、伝統的な町並みを売りにしているから日常生活にもちょっと不便な点があるとか、そんなのは今更だ。五日過ごせたんだからあと四十五日も大差ない。


「本当にわかってる?」

「……わかっていませんよ、それは。そういう面も含めて、あなた方には迷惑と負担をかけてしまうということです。今ならまだ、無理だと言えば撤回できますよ」

「そう言ったところで、規定がありますからね……」


 わたしに向けられた言葉になぜか変態が返事をし、おまけに失礼なことを断言しやがったが、寛大なわたしはいちいちそんなことに目くじら立てたりしないのだ。


 それにこいつとは、少なくとも当分の間は会うことがないのだ。ひょっとすれば、次に迎えにくるのは別の人間で、その後も顔を合わせる機会がないかもしれず、これが今生の別れになる可能性もある。例え変態であっても、最後くらい気分よく送り返してやってもいいと思う程度の慈悲は、わたしにもあるのだ。


 覚悟を決めて変態と目を合わせ、軽く手を振るサービスまでしてやると、ほんの少し嬉しそうな顔になって、こくりと頷いた。よしよし、さっさと帰れ。


「では、わたしは一度帰国し、状況を報告してから再びこちらにお邪魔させて頂きます」

「なんでだ!」


 思わず腹の底から叫んでしまった。


 なぜだ。なぜ戻ってくるんだ。保護者はイリオさんがいるので十分間に合ってる。こいつ一体、なんのためにわたしに纏わり付く気だ。理想のドエスなら地元で見つけて然るべき契約を結んだのちに双方合意の上でお楽しみしろ!


 などと思っているわたしに、ドエムの分際で胡乱げな目を向けて、変態は大仰な溜め息を吐き出した。


「身元の判明している通過者が、身内の保護を拒むという事例は、ないことはないんです。我々も通常であれば、通過者の精神が安定するまで接触を控えるようにはしています」

「ここは誰、わたしはどこレベルで未だに不安定なのでわたしのことも放っておいてください!」

「が、過去の事例でも有事の際に即座に対応できるよう、なるべく近くには滞在していましたし、あなたには我々の『研究』に協力して頂いていますので、データを取る必要があります」

「人の気持ちよりもデータを優先するんですか! これだから研究者は悪魔とかサイコパスとか呼ばれるんです! ほらそうやって貶されて嬉しそうにする気持ち悪い! 改心しなさい!」

「……加えてあなたは、ほかの通過者とは異なる、特殊な事情を抱えています。リアオーネスの王都がどこだかわかりますか」

「そんなのわか――え?」


 わかるわけないだろ! とここまでの勢いのまま返そうとして、突然、言葉に詰まった。よくわからないがなんとなく、そう返すのが不自然な気がしたのだ。


 一気に冷静になって、恐る恐るイリオさんの表情を窺うと、驚愕に目を見開いてわたしを見つめていた。

 嘘だろ。


「ジオ、君……リアオーネスに住んでいたんだよね」

「い、いた……ようでは、あります」


 どもりながら答えると、イリオさんは眉間に皺を寄せて腕を組んだ。


「君は知らないかもしれないけれど、通過で失われる記憶はなんらかの体験やそれに対する感情などがほとんどで、普通、知識は失われないんだよ……」


 そんなばかな。

 で、ではわたしがリアオーネスという国のことを覚えていないのは、一体どういうことなんだ。


 混乱し切った目をイリオさんに向けても、そっちからも似たような視線が返ってくるのみである。そんなに異常な事態なのか。い、いやひょっとして、本当はリアオーネス国民でないだけなのでは。或いは徳が高すぎて余計な記憶まで奪われてしまったとか……バベルの塔的に……何か超自然的な存在によって人として完成することを阻害された結果なのでは……。


 なんだか次第に思考が錯綜してきたが、そこに美形の淡々とした声が無遠慮に割り込んできて無情な現実に引き戻される。


「あなたはそもそも、リアオーネスの国民ではありません。今も細々と、あなたの出生地を調べている者がいるにはいますが、一体どこで育ったものやら見当もつかない、児戯と迷信を混ぜ合わせたようなお粗末な知識しか持たずに、我々に保護されたのです。未だに、手がかりすら見つかっていません」

「な、なんだと……」

「消滅間際の山岳部族や、そういった隠れ住む人々の末裔でないかと考えていますが……ともあれ、本来の身内の元に帰せる可能性は、皆無に等しいのです。そういった理由でリアオーネス国民として登録し、通過の度に正しい知識を身につけさせてはいるのですが、やはり今度も忘れたようです」

「いずれリアオーネスに行くことを鑑みても、ジオに教育を施すことが必要だということですか」


 衝撃的な事実に思考が停止しているわたしの代わりに、イリオさんが訊いてくれる。美形は無表情に頷いた。


「万が一、リアオーネスに戻らないとしてもです。世界が球体であると信じているような無知さですよ。どこであっても、自立して生きていくのは困難です。必然的に、学校教育というより、もはや育児に近しい水準の教導が必要になりますが、さすがにそれを押し付けるわけにはいかないでしょう」

「まあ――そうですね」


 イリオさんは納得してしまった。


 確かにわたしも、ちょっとヤバいと思った。育児ってとこだけでも否定して欲しくはあったんだけど、しかし、世界って球体じゃないのどういうことここは天動説が正しかった世界軸のパラレルワールドなの? とか冗談まじりに本気で驚いたのに、イリオさんが平然としてるのを見て、そんなの一瞬で忘れてめちゃくちゃ焦った。本当にわたし一人だけ蒙昧な無学の徒であったとかそんな。いや無知であるからこそ全てをあるがままに受け入れる寛容さを持ち徳を高めてこられたのかもとか思うと、反論する気がなくなってくるんだけど。


 だがここで頷いたらこの変態がここに戻ってきてしまうだろうが! 頼むからもうちょっと何か言い返してくれ何か。そんなこと思ってるわたし自身、まだ混乱していて何を言ったらいいかわからない。


「そういった次第ですので、六日以内にはまたこちらに訪問させて頂きます。誠に不躾ながら、滞在中の住居の賃借についてご協力をお願いしてもよろしいでしょうか」

「ああ、観光客向けの共同住宅などは観光局で所有していますし、一般の住宅についてもある程度は融通はできると思いますよ」

「助かります」


 ぱくぱくと口を開け閉めしているうちに、美形とイリオさんの間で話はまとまり、美形は応接間から颯爽と出ていってしまった。け、結局何も言えなかった。

 ぱくぱくしたままイリオさんと向き合うと、若干十九歳にして老成した彼は、真剣な顔で指を三本立てた。


「君の帰りを――恐らく若干の怨みを含んで執念深く待っている人がいるようだけれど」

「い、言ってましたねそんなことをね。で、でもなんか、イリオさん指が三本立ってますよ……ま、待ってるのは二人って、言って、ました、よ」


 なんだか不吉なものに見えて指を一本曲げようとしたが、やけに力を入れて抵抗され、冷や汗が流れる。


「たぶん、三人いるよ」

「みゃ、脈絡もなくそういう夜中にトイレに行けなくなる話をするのはやめてください!」


 普段真面目な人がいやに真面目な顔で言うから本当にいそうで恐ろしくて、イリオさんの三本指を両手で握って隠した。なぜ今、そういう方向からわたしを脅してくるんだ。あの変態が再びやって来るとわかって怯えているところだというのに。


「そういうことではないんだけどなあ……」


 じゃあどういうことだ、と思ったけど、余計に怖い話だったら嫌なので聞かないでおいた。


 それに、そんなことを追及するより、与えられた六日の猶予でできる限り遠くへ逃げる算段を立てなければ。きっとイリオさんだって協力してくれるからなんとかなる。必ず、あの変態から逃げおおせてみせるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ