3-1
「あなたは何を考えているんです!」
顔を合わせるなり怒鳴ってきたのは、なんかこの、悲しみと穢れに満ちた俗世で三回くらい呼吸したら死ぬんじゃないのってくらい、異様にきららかな人型の生物であった。いやたぶん人なんだろうけど。やむにやまれぬ事情により自分に記憶と常識が足りていないせいもあって、ちょっとその辺の判断に自信がなくなるくらいの、いわゆる人間離れした美貌というやつであった。
まあ、丘陵の麓からもの凄い勢いで駆け上がってきて今もめちゃくちゃ荒く肩で息をしているところを見るに、普通に俗世で呼吸して飯食って便所に行くただの人間であることは間違いないのだが。しかしたぶん、生まれてこのかたマックとかサイゼには行ったことないだろう。その点で、わたしとは違う人種であることは確実。
などと考え、呆然とそのツラに見とれてしまってから、はっと、自分がこの生き物に怒られている――怒らせている――何かを責められている、現状に思い至った。
出会い頭にいきなり人を怒鳴りつけるだなんて、非常に情動的で世俗的な、つまるところ甚だ人間臭い行動だ。いや神話の時代にヒステリー持ちの神様がいなかったとは言わんけどな。ともあれ、この生き物はやっぱり人間なんだ……という話ではない。また思考が元に戻るところであった。どうもこの顔を見たままではそちらに意識が奪われてしまうようなので、急いで目を逸らして深呼吸をする。景観を売りに観光業やってるだけあって、空気は非常に澄んでいて気持ちがよく、いくらか気分が落ち着く。
よし、ゆっくり考えよう。今問題なのは、わたしが、こいつに、怒られている、という現実だ。
知り合いなのか。――知り合いなんだろうな。
なんで怒ってのか。――怒らせたからだろうな。
謝ったらどうにかなんのか。――ならないだろうな。なぜならわたしが現状を理解しきれないのはすぐにバレることだから。
結論。『今』のわたしには、全く対処できない。
情けなさと申し訳なさを感じながら、助けを求めてイリオさんを見る。若干十九歳でフラネイ観光局の局長をしている出来物さまは、安心させるように笑い、心得たふうに頷いて一歩前に出た。
「リアオーネス王立究理院のウルニア・イルナント殿ですね。遠路はるばる、お越し頂きまして恐縮です」
「……いえ。我々の、職務ですから」
営業スマイルに怯んだように一瞬瞠目してから、美形はさっと表情を引き締めて応えた。どうやら先手を取ったらしい。さすがイリオさん。
優秀な人であることは理解していたものの、改めてイリオさんの強さを実感した。彼を防御表示にしておけば、わたしの心身の安全は約束されたようなもんだ。暫定保護者がイリオさんで、わたしは実に幸せである。この引きのよさは、やはり日頃の行いがいいからだろう。さすがわたし。
イリオさんを讃え、間接的に自分のことも褒めていると、にこやかな営業トークで追撃がかけられた。
「そうですね。しかし、事務所で待っていて頂ければ、すぐにも戻りましたのに。ここへ来たのは彼女の意志ではなかったとはいえ、折角フラネイに滞在しているのだからと、連日外に連れ出してしまっていましてね。事務所を離れていることが多い分、特使殿が到着し次第わたしに連絡を寄越すことと、お待ち頂く間丁重にもてなすことは、部下に厳命しておいたはずなのですが」
そうだそうだ。イリオさんに連絡が入っていればわたしだって心の準備ができてもうちょっと……もうちょっと……いや、お迎えにやってくるのがこの人外じみた美形では、覚悟も何もあったもんじゃないな。
わたしは、砂を踏むだけでお手軽に徳を溜め込む偶蹄目を凌ぐほどに高い徳を積んだ人間だが、それ以外には特筆すべきスキルの持ち合わせがないのだ。そして因果な民族性ゆえに極端に優れたものや激しい情動の発露の前では、怯えしか感じない。この『特使殿』と一対一でやり合うことは、どうしたって不可能であった。ああ、イリオさんが暫定保護者で以下同文。
「……そちらの折角の配慮を無駄にしてしまったことは、お詫びします。しかしこちらも、彼女のことはずっと心配していたものですから、気が急いてしまいまして」
些か言葉に詰まったように見えた美形は、すぐに気を取り直して言い返してきた。
なんというか、どちらも大層な面の皮をお持ちである。正直と実直が信条のわたしにはとてもできそうにない芸当だ。いや、そういう生き方のほうが徳が積めるので不満はないけど。寧ろ、こんな腹芸が必要な仕事とか絶対したくないけど。
「特使殿のご心情、お察しします。どのような事情があれ――お互いの合意があったところで、身内が記憶を喪失しどことも知れぬ土地に放り出されるのをただ見ているというのは、非常に不安でしょうね」
「……ええ、本当に」
「同様に、記憶を失った本人も不安ですし、それを見守るわたしどものような存在もまた、心配で胸が張り裂けそうな思いを抱いていたわけですが」
「……それは」
ぐうの音も出ないって顔してやがる。いい気味である。二次元からひょっこり出てきたような顔がそんなふうに歪んでいるのを見て、溜飲が下がる思いである。まあその歪み方も非常にお綺麗なものではあるんだが。
とはいえ、こっちもちょっと驚かされて、ちょっとビビらされたくらいなので、そろそろ助け舟を出してやってもいいだろう。やや常識を欠いているものの悪いやつではなさそうだし。人を許すことも功徳のうちだ。
「イリオさん、特使殿も落ち着いてくださったし、その辺にしてあげてください。わたしも状況が飲み込めましたから」
柔和な笑みってやつが浮かぶよう、ゆっくりと口角を上げると、イリオさんが苦笑しながら一歩退き、美形は――
信じられないものを見たように、目を見開いて固まっていた。
な、なんと失礼な――いや待て、あちらも己の非常識な振る舞いに自覚があり、許されたことに驚いただけかもしれない。被害妄想で人を貶めようとしてしまうとは、わたしもまだまだ修行が足りない。
気を取り直し、笑みを一段深くして応じてやると、今度は、柳眉を顰めて唇を噛んだように見えた。さっきから一体なんだというんだ。
僅かに焦って、またイリオさんに助けを求めかけたが、そうするより先に美形がそっと口を開いた。そこから漏れる声は、心持ち硬くなっているような気がした。
「……あなたは、自分に特別な才能や、或いは魅力といったものがあると……思っていますか?」
突然何を言い出すんだこいつはスピリチュアルな宗教勧誘か。話の脈絡が全く掴めない。何を知りたくてそんなことを聞いてくるのか、さっぱりである。ただ、やはり情緒面に問題がある人物なのだけは確かなようだ。
しかし、だからといって無視するわけにもいかない。とりあえず、当たり障りなく謙虚に答えておく。
「いえわたしなどは人に誇れるような才もなく、ただただ周囲の配慮と力添えで満ち足りることを覚えたまでの、卑小な人間です」
「……寒気がしますので、普通に喋ってもらえませんか」
こ、こいつなんという暴言を。
脳裏でそこそこ徳の高そうな坊主頭が一休み一休み、とか言ってくれたのでなんとか思いとどまったが、徳の高いわたしの中に徳の高いアルターエゴが存在していなかったら、きめの細かいお肌の血管でもぶち切ってやろうと全力で引っぱいているところだ。わたしの徳に感謝しろ。
ぎちぎちと拳を握りしめながら深呼吸して気持ちを落ち着け、一瞬凍った笑顔を装着し直すと、美形の眉間の皺が一層深くなったがそんなん無視だ無視。
「普通と言われましても、わたしにはこれが普通ですので」
「少なくとも、わたしの知っているあなたは、一度としてそんな言葉遣いをしたことはありませんでした。だから聞いているんです。あなたは自分をどのような人間だと思っているのか、どんなふうに特別な人間だと思っているのかと」
「ばっ」
かやろうやめろ、と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
いやいやそんな、特別な人間っていやそんな、そんな思い上がりを抱くわけがないだろ。わたしほど徳の高い人間がそんな……まあ過小評価のしすぎも罪ではあるけども、そんな、ちょっと徳が高い程度で図に乗ったりなどしないのだ。それを、まるで中二病患者のごとく己に酔っているかのように決めつけおって。なんなのだこの美形は。
と、思っても、徳の高いわたしにはそれを口にして相手を叩くことなどできない。人を傷つけるなど言語道断……いや待て、そんなこと言ったら、わたしの徳の高さが相手に不快感を覚えさせている現状もよろしくないのでは。いやいやしかし、徳の高いランキングメジャーどころの仏陀やイエスも結構暴言吐いてたしときには暴力に訴えていたし、結局そんなもん時と場合によりけりだ。教育的指導で宝のありかを聞き出すことは大事だし、汚物に消毒は必要だ。
めまぐるしい脳内会議を終え、ちょっと強気に出てやろうと笑顔を崩す。……と、途端に、美形の強ばった表情筋が安堵したように微かに緩んだのを見てしまい、ぞっとしてイリオさんの背後に逃げ込んだ。
不甲斐ない己を許して欲しいが、これは無理。これ絶対マゾの人だ。
「……特使殿。我々はこの問題については門外漢ではありますが、記憶を失った人間に対して過去を押し付けるような言動をするのは、あまりに不躾に感じます」
どちらに対するものなのか、溜め息を落としてから、イリオさんがそう言う。美形は再び口を真一文字に結び、気まずそうにそっぽを向いた。いやあ、イリオさんは本当に頼りになる。
「押し付けるわけではありません。『そう』でないものを、本質を歪めて『そう』振る舞わせることこそ、いびつで惨いことだと思うだけです」
美形は目を逸らしたまま、ぼそぼそと弁明するように呟く。
まあ、そういった事実が存在するならね、確かに美形の言うことも尤もではあるんだが、実際のわたしは本質を歪めてなんちゃらという酔狂なお遊戯などしていないので余計なお節介である。こいつの見ていた過去のわたしのほうが、何らかの事情で無理をしていたという可能性はあるけどな。それによってこんな勘違いをさせているのなら、罪はわたしにあるけどな。こいつの思い込みも激しすぎるので、お互い様というやつだ。
「イリオさんも、特使殿も、気遣いを頂いてありがとうございます。過去については、もうさほど気にしていないので大丈夫です。――ただ、今のわたしにはこれが素ですから、特使殿にもそれを受け入れてもらえたら有り難いのですけど」
絶対安全圏から一歩出て、にっこり笑う。イリオさんから盗み取った営業スマイルである。割と頬の筋肉が痛いが、強引に話を切り上げるにはこのくらいのパワーは必要なのだ。だがその尽力により、この話はおしまいになるはず――だったのだが。
「…………無理です」
頭を振って弱々しく吐き出されたのは、否定の言葉であった。わたしの存在全否定の言葉であった。
「前回だって、こんなに酷くはなかった。こんなに、おかしくなってはいなかった。記憶が消えるのは承知しています。人格を形成するもとになる記憶や経験が失われるのは理解しています。それでも、本質が損なわれることはないということも、わかっているんです。ユミルだって、ほかの通過者だって、前回のあなただって。根底から全くの別人に変わってしまうことはなかったんです。こんな、以前とは似ても似つかない人間になるはずがないんです」
「特使殿、少々感情的になり過ぎているのでは……」
「なるに決まっているじゃありませんか。あなたにとっては、これが正しい彼女に見えているのかもしれませんけれど、こんなのは間違っているんです。わたしは、わたしはジオを探しにきたのに――これではあんまりです」
何を言っていやがる。
わたしはジオだ。そう、手紙に書いてあった。
正体不明の空間の歪み、穴というやる気のない呼称を与えているそれに『吸い込まれて』、別の穴から生還したときにはどうしてだか記憶を失っている、通過という現象。その謎になってる部分を僅かでも解明するため、通過者の協力を得て同一個体による検証を重ねている、リアオーネス王立究理院未確認現象調査局。わたしはその、調査に協力している通過者の一人なのだ。いかにも、徳の高いわたしに似合いの話である。
わたしはこれが三度目の試みになるらしいが、この度『飛ばされた』穴は、風光明媚を絵に描いたようなフラネイで唯一確認されているものだった。春を迎えつつある森の萌え立つ緑と、近くの斜面から伝うように流れ落ちる水の音に、搦め捕られるように魅了されてぼんやりしている自分に気がついた頃、周辺の土壌調査に来ていたイリオさんに拾われた。
通過者は必ず、行政によって保護されるものと決まっているらしいのだが、それは本人にさえ身元が証明できない場合が殆どだからだ。わたしの場合は事情が事情で、背負った荷物にはそれを記した手紙とリアオーネス王立究理院未確認現象調査局の証書が入っていた。それで直接調査局に連絡をし、フラネイの――ウルジア政府による煩雑な手続きは大部分が省かれ、身元保証人が迎えにくるまでイリオさんの元で過ごすことになった。
帰る場所が判明している以上、わたしはあくまでお客様である。だからイリオさんは、今日までわたしに楽しいことばかりをさせてくれた。
起伏が多く、山々の狭間に大小さまざまな湖がたたえられたフラネイの、緑と青と、それからほころび始めた花々の白や黄色や紫が織りなす美しい景色を見せてくれた。樹木の根付きにくい岩肌の山には、原種の竜が少ないウルジアで最も古い種の竜が巣を作っているのだと言って、ねぐらを避けながら鱗を探した。夏の終わりから次の年の春の終わりにかけて、地中に甕を埋めて熟成させる果実酒が特産品のひとつなのだと教わり、花の砂糖漬けで作ったパンケーキを片手に見学してきた。苔むした常緑樹の森へ行って、半分以上が土に埋まった、それでもわたしの身長の倍以上ある大岩に、二人で一緒によじ上った。全部、部下が有能で自分が一番仕事量が少ないからと、イリオさんが自ら連れて行ってくれた。
――それが、今のわたしが知っていることの全てだ。
それでも、わたしは『ジオ』なのだ。
だってそうじゃなきゃ、困ってしまうのだ。それ以外に、わたしの名前も、過去もないのだから。
だけど、だけども、過去のことにあんまりしつこく執着されても、それもまた困るのだ。そんなんされたって、一切覚えてないのだから。そういうことがあった、という――わたしという人間の基盤がこの世界のどこかに確かにあったという証言だけで十分なのだ。
わたしは『ジオ』であるが、『ジオ』をなぞるだけではいられないのだ。
「わたしは」
時間にすれば数秒にも見たないうちに、いろいろな思いが頭を巡って、言うこともまとまらないまま思わず口が動いた。けれど、わたしが言葉に詰まるよりも早く、イリオさんから非難の声があがった。
「あなたの言い様のほうがあんまりでしょう。親しくしていた人が別人のように変わってしまっては動揺するもの仕方はないですが、それで彼女が責められるのは理不尽です。そもそも、人が変わらない保障がどこにあったんです。通過について、最も進んだ情報を持っているのはあなた方リアオーネスの究理院ですけれど、それでも、現在ある知識が全て正しいわけではないでしょう。寧ろこれは、あなた方の過失ではないんですか」
「それは……けれど……」
「自分の探していた『ジオ』は最早失われてしまったのだと、そればかりを嘆いて、現在の彼女を否定するのはよしてください。彼女はジオです。これまでも、これからも」
イリオさんが、直接的な物言いをするのは結構珍しい。観光局の局長として何かと折衝をすることが多いからか、批判をするときもやんわりと本音を包んで発言する。それなのにこんなにはっきり言ったのは、それだけ怒ってくれたからだ。
わたしは、そんなイリオさんに恥じないジオになりたい。
そう思ったら、しょぼくれている美形にかける言葉がすっと脳裏に浮かんだ。
「わたしはあなたの知るジオではなくて、わたしもあなたのことを思い出せないけれど、今日からまた、お互いを知って――」
「無理です!」
お、おい待て、この流れをぶった切るのか。このめちゃくちゃ心温まる感動の流れをぶった切るのか。お、お前の血は何色だ。
しかもこいつ、鳥肌でも立ったかのように両腕を猛烈にさすっている。よく見たら顔が青いし、もの凄く引きつって今にも泣きそうな表情をしているような気がしないでもない。そ、そんなに生理的に無理だったか……それは仕方がないな……申し訳なことをした……って、納得できるか。おいこいつスーパー失礼すぎて頭の血管がブチ切れそうなんだけど。
「無理です!」
「ちょっと今怒りを鎮めるのに必死なので静かにしてください特に同じ言葉を二度繰り返すのはやめてください」
「無理です!」
「三回も言わなくていいです」
「わ、わたしには、こんなジオを受け入れることはできません! わたしだって、今まで素直に優しくしてやれなかったぶん、今度こそはと思いました! それでも、これは無理です! これは――こんなのは気持ちが悪すぎます!」
「こっ……この功徳を積んだわたしを激昂させるとは寧ろ尊敬に値しますがとりあえずこれはさすがに殴っても許される状況ですよねイリオさん!」
「うん、存分に殴っておやり」
「仏の顔も三度までだ! 歯ぁ食い縛りやがってくださいよこのツラだけ傑物野郎!」
イリオさんからの清々しいお返事も頂き、足も肩も腰も使って躊躇いなく全力でぶん殴ろうとした、瞬間。
「ああ、今度はそんなことを言っているんですか……そうか、それで」
今し方まで顔を歪めて暴言を吐き散らかし人を否定していたとは思えないほど、唐突に、あっさりと。
憑き物が落ちたように全身の力を抜いた美形は、まるで『失くしたもの』を見つけたように安心し切った声で零して、それで――穏やかに――微笑んだ。
「うっわあああああい!」
殴ろうとした勢いを殺しきれないまま、軌道だけをどうにか逸らして地面に転がり、わたしは自分でもよくわからない叫び声を上げていた。
こ、こいつ、真性の変態だ!




