2-11
その日、ガフオルムは煙るような雨に覆われていた。
とかちょっと格調高い感じで情景を言い表してみると、ほんっの少し、ごくごく僅かにね、テンションが上がるような気がしないでもないんだけどね、まあどう言い繕ったところで結局は雨であって気が滅入ること甚だしい。
往生際悪く煙雨とか称してみても、字面だけならちょっと幻想的なあれそれっぽいイメージが湧かないでもなく非日常へのトキメキを感じないでもなかったものの、やっぱり実際降られてたら現実を直視せざるを得ず、ひじょうに鬱陶しいのみだった。まず暗い。寒い。湿ってる。視界が悪い。元気が出る要素など何一つない。
たぶん、感性の大雑把なミューネちゃんや感性の死んでるツィアリさんは、どんな雨だろうとその辺は大差ないとか言うだろう。そりゃあ確かに、わたしの才女メモにもビタミンD並びにセロトニンの分泌低下とか低気圧頭痛とか書き込んであるけどな、そういうことじゃないんだ。こういう、派手な音も空気の動きもほとんど感じられない雨というのは、ほかと比べて余計に辛気くさくて陰気くさいのだ。
つまり、本日の同行を無理矢理に押し通してきた、己の我を通すことと人を不快にさせる振る舞いしか知らぬ悪の研究員の性根とよく似た不快さであり、相乗効果で今わたしは目眩がするほど陰鬱で暗澹たる気分なのである。
やつめがぶちぶちとわけのわからない不平と我が侭を垂れてきた昨夜の時点で、今日の外出にはケチがついていたというのに、天候までヤツの意を汲んだかのようで心底腹立たしい。天は自ら助くる者を助くのではないのか。出生にあたり、二物も三物も与えた相手を延々と助け続けてどうする。露骨な依怙贔屓は控えてほしい。そんなことで民草の信仰心が集まると思っているのか。
とかなんとか、不満の矛先を拡大しまくって壮大な喧嘩を売ってみさえしたが、それでも外出の延期はしなかった。一度許可を貰ってしまえば、あとはクートと相談するだけで好きに街に出られるのだが、意地でも延期しなかった。なんとなれば、わたしたちのハジメテを邪魔したい悪の美術品は日程を変えようがついてくるだろうし、そうなったとき、ユミルさんはともかくクノンさんが再び巻き込まれてくれるかわからないからである。肉の盾は多ければ多いほどよく、頑丈そうだとなおいいのだ。
というわけで、肉の盾一号二号が必ず歩く美術品との対角線上にいてくれるようポジショニングに気を配りながら、人のいない雨のガフオルムを練り歩くこととなった。
「ここはね、フラーニア大通り。この通りに建ってた料理店に毎日三食通い詰めてた地質学者のノニス・フラーニイがいろいろと功績を上げたもんだから、彼を呼び込んで自分の店に箔をつけようと、多くの料理人がここに店を構えたって逸話があってね。以来ずっと、ここは飲食店が多いんだよねえ」
「ジオの好きなファメリの店も、この通りの端にあるよ」
ミューネちゃんとユミルさんはあれこれと街の様子を紹介してくれるものの、わたしの気分は全く好転しない。二人とも、薄暗い空の下で時々刻々と湿ってゆきながらよく常と変わらぬ明るさを保てるな。すぐ側に、湿った空気を更にじっとりさせる悪人も控えているというのに。たぶんガラス細工のように繊細なわたしに比べて神経の数が少ないんだと思う。
こういう日にそっちの二人と仲よくできる気がしなかったので、自然とクノンさんに近寄ることになったが、こっちはこっちで円滑なコミュニケーションがひじょうに困難であった。
「……やたらと引っ付くな。鬱陶しい」
「……いやまだ引っ付くって言うほど近寄ってないんですけど、クノンさんってそういう反応が早過ぎません? どんだけ自意識過剰なんですかドン引きですよ」
「黙れお前の挙動なんか欠片も気にしていない黙れ」
「いやだから自意識過剰って言ったじゃないですか……わたしのことを気にしてるなんて言って……えっクノンさんわたしのこと気にしてたんですか」
「お前のことに興味などあるわけがないだろう自意識過剰な女はほとほと困るな」
「いつも思ってるんですけど、クノンさん調査局を出てから社会復帰できるんですか?」
ぼそぼそと会話を繋げる我々の声は、雨に紛れて周りには聞き取れていないだろう。従って、わたしとクノンさんがガツガツとお互いの足を踏み始めた理由も、周囲にはわかるまい。
平時ぞろぞろと布を引き摺っている学徒服は、無駄に備えられたベルトやらボタンやらを使って裾を上げてある。もういっそ切っちまえと心から思うのだが、ともあれ、こういう日に裾から水を吸っていく心配はしなくてすむし、かなりアグレッシブに足の踏み合いもできる。
時折ばちゃんと水を跳ね上げながら相手の足を狙っていれば、通常営業のユミルさんに「随分仲よくなったよねえ」などと言われる。この人には戦争のなんたるかもわからんらしい。どれだけ図太くなればその境地に達せるのか理解に難い。
「もー、こんな天気の悪い日に外でじゃれつかないの! いくら雨避けの術が効いてるからって、そんなことしてたら濡れて風邪引いちゃうからね!」
ユミルさんの発言を受け、我々の争いに気づいたミューネちゃんが腰に手を当ててほっぺたを膨らませるあざといポーズで注意をしてきた。すまないが、今日はそういうのを可愛いって褒めるだけの元気もない。
「自分の苦労のように言わないでもらえますか。雨避けの術を張っているのはわたしです」
社会不適合者代表クノンさんの向こうからは、無愛想な声が聞こえる。ミューネちゃんはそれを、鼻で笑って切り捨てた。
「べっつに、僕だってそれくらいできるけどぉ。そっちが無理矢理ついてきたんだから、魔術の維持と荷物持ち程度の労働、当然じゃなあい」
「わたしがここにいるのは正当な権利に基づいた選択の結果です。モニアも認めたでしょう」
「何がだよ! どう考えても温情でしょ! 同情票だよ!」
「それもまた正当な権利の本源です」
クノンさんの影から覗くと、しれっとした様子の美術品がミューネちゃんに睨まれていた。わたしも顰めっ面を向けてやったら、なんのセンサーが付いているのか、その瞬間にこっちを見やがった。思わず怯んでしまったところ、その隙をつかれて足を踏まれた。あ、あの女、なんという諸悪の根源。
しかしあいつとはできるだけ関わりを持ちたくないので、とにかく目前の敵を倒すべくクノンさんとの睨み合いに専念しようとしたのだが、そんなことお構いなしに澄ました声がかけられた。
「……ジオ、あまりその男に張り付いていると、雨避けから外れますよ」
きいい、誰のせいだと思っていやがる。貴様のせいで屈辱的な一敗を受けたのだ。
腹の立つ戯言を努めて無視し、クノンさんの足を狙うことに集中しようとするが、足の主はひくりと頬を引きつらせて動きを止めた。
「……おい。それは俺の周囲だけ術を解くということか」
「別にそういうつもりではありませんが。まあ、あなたは集団行動が苦手なようですし、必要以上にわたしから距離を取られてしまえば……そういうことにもなるでしょうね」
「ちょっとお! クノンを自分の側に寄せとけばジオとも近づけるとか思ってんの!? させないからね!」
ぎゅう、とミューネちゃんに抱き寄せられて、わたしはクノンさんの薄汚れた靴から引き離された。折角のチャンスを! と思ったが、そんな余裕は一瞬で消えた。ミューネちゃんの凄まじい腕力と膂力は今日も絶好調である。
「みゅ、ミューネちゃん……そろそろわたし以外の誰かで抱擁の適切な力加減というものを学んできてくれないだろうか」
「えっなぁに? ジオもあんな人近寄りたくないって? そうだよねえ、あんな陰険な人嫌だよねええ」
「さ、さすがゴリラ言葉が通じない」
「ふふ、本当にミューくんはジオのことが好きだねえ。微笑ましいよ」
「……お前、どこまで本気なんだ?」
時折ふと思うのだが、わたしの周囲は、わたしが死にそうになるととても活気づくような気がする。他人の不幸は密の味というやつだろうか。
「ミューネ、そのままではジオの息が止まります。離しなさい」
そんで、こういうときに悪の研究員がちょいちょい常識人ポイントを稼ごうとしてくるのも、割とよくある気がする。なんてせこい。
「ああーっ、ごめんねジオぉ。そこの、我が侭な、偏執狂が! 僕からジオを奪おうとするからついつい絞めちゃったよお。ごめんねえぇ」
「そうやって無理のある責任転嫁をするのはどうかと思いますし毎度毎度悪印象ばかりを植え付けるのはやめてくれませんか」
「えーっそんなこと言われても事実ですからあ」
背中をさすってくれるミューネちゃんは、清々しいほどに悪びれない。しかし向こうの芸術品に原因があるのもまた真実なので、わたしはミューネちゃんを許す。今日の凶事の原因は全て、やつの所行に収束するのである。
「わたしは……全く怒ってないので……お土産のおやつを……たくさん買ってください」
「もー、ジオってば本当に可愛いんだから! いくらでも買ってあげるからここから先は僕と手を繋いでようねえ」
息も絶え絶えだし今もって覇気の上がらないわたしはミューネちゃんのご機嫌っぷりには全くついていけないが、とりあえず繋いだ手は握り返しておいた。わたしたちの仲が円満であればあるほど、意趣返しとなるからである。思った通り、冷淡な顔の芸術品は苛立った顔の芸術品になる。思い知ったか。悪とは常に排斥されるものなのだ。
「……お前はどうしてそこまで愚鈍なんだ……」
などと呟いたクノンさんが汚いものを見るような目をわたしに向けていたが、意味がわからん。状況を正しく理解できていないのだろうか。「クノンってば優しいなあ」と言っているユミルさんも謎である。彼らの間ではあれでコミュニケーションが成立しているのか。男の友情は理解し難いな。
そんなことを思っているうちに、わたしの手を引くミューネちゃんはさっそくお菓子屋さんの扉をくぐっていた。歩き回るうちにフラーニア大通りとやらからは遠ざかっていたので、ファメリのお店ではない。店内では、宝石みたいにつやつやした色とりどりの小さな粒がショーケースに並んでいる。どうやら、チョコレート専門店らしい。
「ここはね、王室御用達の名乗りを許されたお店……のぉ、ガフオルム支店なんだよお。王都の店と製法は同じでも作り手が違うからちょっと味が落ちる、なんて言われるけど、僕はこっちの方が好き。ジオも気に入ると思うよお」
ミューネちゃんお勧めの店らしく、通常の三割増で嬉しそうである。
素敵なものと素敵なものをあわせたらとっても素敵! の方程式に違わず、美少女がお菓子の前で頬を緩めるという図は、なんとも言えない可愛さがある。店内は明るいし暖かいしいい匂いだし、少しだけ気分が上向いた。
「す、すごくいっぱいあるけど、本当にどんだけ買ってもいいの? 全部買ってもいいの?」
「食べきれるならねえ。と言ってもまあ、僕も自分のぶんを買いたいし、懐具合を考慮して、すこーし遠慮してくれたら嬉しいけど」
ちょっとした制限はついたけど、それでも、すこーしの遠慮でいいのだ。ミューネちゃんってば太っ腹だ。俄にわくわくしてきて、ショーケースに張り付こうとした――の、だが。
「大口を叩いておいて、結局そのざまですか。ジオ、ここの支払いはわたしが持ちますから、好きなものを好きなだけ頼みなさい」
余計なことしか言わない芸術品が、例によって余計なことを口にしたことで、一気に場が泥沼と化した。
いや、正直なところ、わたしのテンションはめちゃくちゃ上がった。こいつは憎いが、チョコはたくさん欲しい。どこから出たどんなお金だろうと、チョコに変わってしまえば関係がないのだ。それに、本日わたしはこのお局さまに多大なる迷惑をかけられ大変不愉快な思いをしている。迷惑料と思えば借りにもならん。
というわけで、遠慮なく「ここに並んでるもの、全部包んで頂こうかしら」をやろうとしたのだが、一生に一度あるかないかの試みは、ミューネちゃんの絶叫によって妨げられた。
「はああああ!? ちょっと、なんでここでしゃしゃり出てくんの? 実家の財力振りかざしてジオを餌付けしようっての? 汚い!」
「あんたが言うのかよ……」
「金なし職なし過去なしのクノンは黙ってて!」
「あんたが言うのかよ!」
「ミューネ、今の暴言は未確認現象調査局の職員として非常に不適切です。彼に謝るべきです」
「はいはいごめんねクノン本当のこと言っちゃって! 僕ったらそこの卑怯な冷血漢のせいで頭に血が上っちゃって!」
「それで謝っているつもりですか。それにわたしはこの職に就いてから実家の財力に頼ったことなど一度としてありません。わたしへの侮辱に対しても、謝罪を要求します」
「あ、の、ねえ! 君が嫌味な当てこすりをしてくるのが、そもそもの原因でしょ!」
「わたしはただ、ジオの欲求を満たしてあげようと思っただけです」
「一人を大事にすれば、周りの人間のことには頓着しなくていいって? ほんっと、貴族ったらしい傲慢さだよねえ!」
本当に、他人の約束に横槍入れてくるなんて、本っ当にマナーもクソもあったもんじゃないですよねえ。畜生にも劣る汚い振る舞い。
ミューネちゃんに買ってもらう約束なのに目先の欲に釣られてホイホイ悪に尻尾を振りかけた自分を、わたしは深く反省した。……反省したが、はっきりとした反応を見せて状況を悪化させたわけはなかったわたしが己を省みたところで、この場を収められそうにはなかった。ミューネちゃんと芸術品は、己の矜持と信念をかけて戦っているのだ。
だが、そうかといって、どんどんヒートアップしていく口論を眺めているわけにもいかない。初来店で出禁にされたらどうしよう。
「……ユミルさん、わたしはどうすれば……」
恐る恐る、いつもと変わらない様子のユミルさんに尋ねると、さすがに内心では焦っていたのか、苦りきった笑みがその顔に浮かんだ。
「うーん……とりあえず、僕も手持ちは幾らかあるから、ジオは急いで欲しいチョコを選んで。小箱は六つ、大箱は三十詰めてもらえたはずだから、その辺を目安にね」
「ユ、ユミルさん!」
わたしのいい人リスト堂々のトップに輝くユミルさんの名に、この瞬間、金の王冠とカラフルな紙吹雪の装飾がついた。なんという人格者。
しかしいつまでも感動しているわけにもいかないので、言われた通り急いでチョコを選ぶ。三十個入るという大箱に心が惹かれたが、これほど人のよいユミルさんに多額の出費をせびるのも気が引けて、十二個入る中箱に詰めてもらうことにした。それでも小箱を選ばないのは、まあ愛嬌というやつだ。
時間をかけることもできないので直感で十二個選んでから、ふと思い立って、隅に並んでいた飴玉をいくつか、一緒に包んでもらった。勿論ユミルさんには許可を得た。
品物を受け取ると、店員さんに平謝りして、項垂れるクノンさんを引きずって外に出る。罵り合う二人は、ユミルさんがどうにか宥めようとしながら店の外に誘導してくれた。誘導には成功したが、口論の勢いは全く衰えなかった。
とはいえ、外に出て、悪天候の冷気に当てられているうちに少しずつ落ち着いてはいったのだが、ぎすぎすした空気はどうにもならなかった。
結局わたしたちは、遅めの昼食を取り終えたところで予定を切り上げ、重苦しい空気を纏って調査局へと戻ることになった。
こうして、初めてのガフオルム巡りは散々な結果で終わったのだった。




