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「ジオ、わたしはあなたのような人間に出会ったのは生まれて初めてです」
例えばその言葉が、熱い吐息とともに躊躇いがちにそっと紅い唇にのせられてたなら、こっちだってまんざらでもなかった。言葉とともに潤んだ瞳を向けられてれば、心拍数だって一気に百くらい上がって血管が破裂していたかもしれない。
何しろこの博士ときたら、たまげるほどの美人だ。魂が消えると書いてたまげるほどの美人。わたしが男だったら、そんなこと言われた次の日には有り金もない金も使い果たして臓器も五つくらいしか残ってないような有様になったこと間違いなし。まさに傾国。最期は自ら臍に立てた蝋燭で三日三晩博士の手元を照らしてみせる。
そんな美女に甘やかされたら、同性だって三分と保たずに陥落するわ。カップヌードルひとつ食べごろにする要領で、にっこり笑って三分待つだけで信者が量産される。
ところが現在向けられているのは、チルド冷凍室の奥で腐り始めた鯵の開きに向けるような目と、地の底を這うような冷えきった声音であった。
この人はもっと自分を有効活用すべきではないか。活用する気がないならわたしが見事に運用してみせるから、ほんのちょっとだけご融資頂きたい。大丈夫、十倍にして返す。
しかしわたしが本当に男だったら、今の態度はご褒美なんじゃないか。博士はすらっと細身で女性にしては背が高め、声も落ち着いたハスキーボイス。指も長い。完璧な女王様タイプだ。ご褒美だ。間違いない。臍の蝋燭には己の手でなく、博士の手によるキャンドルサービスの実装が待たれる。
ややニッチを攻めることになるが、これはこれで市場を占有できていいのではないか。
そんなことを思って販路開拓の構想を練っていると、がん、と何かが脳天にぶちあたった。
「聞いていますか、ジオ」
「一言一句間違いなく、声音さえもこれ以上ないほど正確に聞き取りました。それについて深く熟考する姿が、博士の目にはどう映ってこのような暴挙に及んだのですか」
「締まりのない間抜け面を晒してわたしの発言とは無関係な俗念を抱いているように見えたので、大事な備品であることを承知の上で心を鬼にしてバインダーを叩き付けました」
失礼な。
確かに些か俗っぽいことを考えていたかもしれないが、それだって博士のシンパを増やすためだ。そいつらが金づるになったとしても、所詮マネージャー止まりのわたしの取り分はいいとこ六割だしそこには正当な労働報酬が含まれるので断じて私欲のためではない。
断固抗議してやろうとしたが、上下の唇をちょっと離しただけで、再び固いものを脳天に振り下ろされた。
「あなたは先ほどからろくなことを言いません。これでは抗議が一向に進まない。もう一度言いますが、わたしはこんなふざけた人間と会話をするのは初めてです。もう黙っていなさい。許可をするまで一切喋らないでください」
「それはあまりに横暴です! 基本的人権の尊重を要求します!」
「人権を主張するなら、それに見合うだけの人間性を見せて頂きたいのですが。ほら言ってみてください。基本通貨の単位は? ドアの開け方は? 食事の作法は? 外長衣の着方は?」
「それはあまりに卑怯です! わたしはまだドアの開け方しか習っていません!」
「普通ならそれは教わらなくてもできることなんですよ。あなたと同程度の年の人間ならね」
ぐぬぬ、と心の中で唸るしかない。悔しがる様子を表に出すのはタブーだ。わたし的にタブー。その程度のプライドならダブつくほどに在庫がある。
わたしは通過の被害者だ。体験した者は軒並み記憶を失った上に見知らぬ土地に飛ばされるという、悪夢のような現象の被害者だ。だから記憶があやふやで、自分のことが何一つわからない。
それは仕方のないこととして、予想通り税金で運営されてたこの王立究理院未確認現象調査局によって保護されて、最低限の生活の保証と新たな人格を与えられ、社会復帰プログラムに参加することになった。
なったのだが、現在わたし以外に八人もの穀潰しが養われている王立究理院未確認現象調査局回復支援棟には、わたしという例外を除いて、日常生活に支障を来すような障害を抱えた人間はいなかった。
というより、約百年の調査局の歴史において、そういう日常的な知識を失った人間は観測されていないらしいのだ。
何それ特別ってこと? やっぱり天才と凡人とでは降り掛かる災難の質も変わってしまうのかな? 人は騙せても天は騙せないかあ美少女は辛いなあ、とか思っていたら、やたらに輝いた目を大勢に向けられた。
やはり身のうちから湧き上がるものは隠しきれない。仕方ないのでF100号くらいのスケッチくらいならしてもいい、と提案したところ、そんなことはどうでもいいと拒否された。稀代の美少女を捕まえてそんなこととはいい度胸だ。
とは言え、美しさは身のうちから。寛大であろうと心を落ち着け、穏便に暴言の理由を問いただしたところ、
これまで『人格形成に関わる記憶が損なわれる』ということで確定していた通過の害が、それだけではないと判明した。これは研究の進展に繋がるかもしれない。
とのことであった。
言葉の端々から、研究員のほとんどが人間の美醜よりもモルモットの美醜に興奮する変態であることを感じ取ったわたしは、大慌てで素敵な提案をしてみた。
これは主人公補正が掛かってるとか、それ以外の何か特別な存在だったからとか、実はなんらかの陰謀に巻き込まれており外道な薬物で記憶を奪った末に通過に見せかけるよう工作して置き去りにされたとか、そういうわたしだけの特別な事例だと思うことにしないかと。
彼らは無駄な時間と労力を費やすことなく本業に専念でき、わたしは貞操と生命の危機を回避できる。ウィンウィンである。
だが返ってきたのは、見事な連携でぴったり重なり合ったノーの返答だった。
訓練された変態のことを侮ったわたしのミスだった。
そんなわけで第一級の研究材料となってしまったわけだが、いかんせん日常生活に必要な知識がすっぽり抜けてしまってるのである。研究に協力させるにも、トイレに行くことさえおぼつかないレベルの無知ではお話にならなかったのである。
渋りながらも人体実験の前に教育を施してくれることになったのだが、その担当として抜擢されたのは、誰あろう、表情筋とともに感受性も死に絶えたような冷え冷えとした眼差しで現実だけを突きつけてくる、あの説明担当博士だったわけだ。
そして調査局の脛かじり生活開始から二日、日常知識詰め込み講座開始から三十分で、ツラだけは見事な性格破綻美女から下賜された有り難いお言葉が、冒頭となる。
無知、と言われて反論はできない。
通過者だもん! 仕方ないもん! と言いたいとこだが、四日ほど先輩のお隣のユミルさんは一人でドアを開け閉めできるし、なんなら窓も開け閉めできるし、ぞろりと長い奇妙な衣服も一人できちんと着こなせる。
こうして羅列してみると益々思い知らされるが、なんかもう、ひとりでできるもん以前の話なのだ。パジャマでおじゃまとかそういうレベルなのだ。わたしの知識が。わんわんと一緒に狭いスタジオ内をグルグル回るだけで楽しいレベルなのだ。しかし知能は明らかに文明社会の成熟した女性であるため、隠しきるのも一苦労な屈辱感がある。
なぜわたしだけが記憶に加えて知識まで失わねばならなかったのだ。ノブレスオブリージュという言葉は知っているし、頭脳明晰容姿端麗な美少女として多少の責務を果たす気はないでもないが、ここまでくるとあまりに理不尽。
しかし、何を言おうとわからないものはわからない。わかるべきことがわからない大人は幼児以下。どれほど無知でも傍若無人でも大抵の事が許されてしまう幼児最大の武器、可愛げを失っていることで、ヒエラルキーの最下層に貶められたらしい。
子どもの権利条約なんて存在しないらしいこの未開の蛮地では、幼児にすら劣ると判じられたわたしの人権は実在を認められない。主に情緒に障害を抱えた美人博士に。
「いいですか、ジオ。くだらない、余計なことを考えていないで、わたしの話を真面目に聞きなさい。そして言われたことは一度で理解してください」
「アイアイボス」
「そういった不真面目な態度も控えてください」
「サーイエッサー」
「はいかいいえで済む質問には、それ以上の言葉を発さないでください」
「はい」
「では、念のため復習しておきますが、扉の開け方は覚えましたね? この部屋から廊下に出てみてください」
博士はルーブル美術館にでも置いてありそうな腕で、すっと扉を指差した。その腕はどこで売ってるんだろう。別に美醜の問題ではなくてね。何しろわたしの腕もマナティーの腹ように美しいからね。でもたぶん、博士のそれがあればわたしにも与えられた課題がこなせると思うのだ。
とりあえず席を立ち、示された扉の前に立つ。どんな着ぐるみでもまっすぐ通れんじゃないかって幅の、まあそれなりにでかい扉だ。高さもまあそれなりで、実に着ぐるみ興行に優しい作りだ。その中央にうっすらと線が通っているのが、両開きの扉の境目になる。ようだ、というのを、研究員たちの後ろをついて歩いて学習した。
その開閉を行うのは、すぐ横の壁に埋め込まれた半球である。手をかざし、必要な量の魔力を流せば、それを動力として適した形に自動変換して回路に通す。小さいながらも、魔術工学の粋を集めた優れものである。そういう感じの説明をさっきされた。
説明はされたが、魔力とはなんだ。
記憶はなくても体が覚えてたりしないだろうか、自転車みたいに。とか全然期待してないけど掌をかざしてみる。もちろん何も起こらない。
ハンドパワーが足りないんだろうな、とはわかるけど、どうしたらハンドパワーが生まれるのかわからない。手首辺りに力を入れてプルプルと痙攣させてみたけど、タネが仕込まれているわけではなし、疲れただけで意味はなかった。
一通り頑張っているふりを終えたところで、振り返って博士と顔を合わせる。
「無理です。できません」
博士はわたしが降参を告げるまでもなく、愕然と目を見開いていた。
「……ジオ、わたしはあなたのような生き物を見たのは生まれて初めてです」
生き物とか失礼極まりない。わたしは人間だ。
と大声で主張したいところだが、そう言い張れるだけの根拠がないのも確かである。
人生強制リセットから二日、わたしは種族さえもあやふやになっているらしい。




