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変態に付き纏われ、仕事をし、天使と戯れ、変態を叩きのめし、仕事をさぼり、おばさんに叩きのめされ、天使に慰められて過ごすうちに、とうとう山の暮らしは冬に突入した。
山、山、といつでも雑に言っているが、モルル家が管理しているここハクナ山は連なる山のひとつにすぎず、この一帯はカエリ北山帯と呼ばれる東西に延びた広大な山岳地帯だ。伊能忠敬が象限儀でぶち破ってもおかしくないチャチな地図によれば、奥羽山脈くらい長大ということになっている。モケーレムベンベの実在なみに怪しい情報だが、余計な諍いを避けるべく、長いものには巻かれておくことにしている。
ともあれ、山に冬が来たという場合の山は、そのカエリ北山帯全域を指す。慣用句でも比喩でも何でもなく、山が全部、一気に冬になるのだ。そしてその、冬にが来たとか冬になるとかいう言葉は、山中が雪に埋もれるということを意味するのだ。
最初にそんな説明を受けたとき、蒙昧な田舎の民族は気象学のなんたるかを経験則で学ぶことすらできぬのか……と哀れみの目を向けるなどしてみたが、まあ当然のように、山のことは山の民が一番詳しかった。
ある日の朝、目覚めた途端にいつもと違う冷気を肌で感じ、毛布を引っ被ったまま鎧戸の隙間から外の様子を窺うと、一面の雪景色だった。全くそんな兆候はなかったし夜中に雪が降り出した気配も感じなかったのに、目算で一メートル以上積もっていた。
同時刻、ほかの山がどうなってるかなど知る由もなかったが、まあそんな唐突にね、大雪に出現されてしまってはね、もうどうでもよくなるね。
はい、疑って申し訳なかった。山は異界。山は怖い。山のことで山の民が都会人には理解できない妄言を吐き出したとしてもそれらは全て真実。もうそれでいい。
そんなわけで粛々と、山の民の言いつけに従って冬の生活に順応し出してから三日程。
家畜の世話も継続しているが、蛇や竜は二組に分け、交互に地下で冬眠させてしまう。起きている家畜も外に出すことはできなくなるので、わたしの仕事量はぐっと減った。……減った分、冬の手仕事という別の労働をスケジュールにぶち込まれて怒り心頭に達しているのだが、社会性の生物ゆえの悲しみ、群れのボスには逆らえずに阿諛追従してせっせと裁縫仕事をしている。
冬の手仕事なるものは、まあ冬が明けたら(当然、突然やって来る雪解けのことである)市場で売るような雑貨をせこせこ作る作業だと言ってよい。外の仕事を多く受け持っていたライも、ほとんど一日中、木で籠を編んだり皿やら置物やらを削り出したりしている。わたしもそっちがよかったのだが、おばさんと、なぜか変態クソストーカー野郎までが異様な程に阻んでくるので、針と布と糸以外持てていない。
そうして縫わされているのは、ちょっとした晴れ着である。ドレスである。
正直、二十年で一回りする流行の栄枯盛衰を十七世紀くらいから観察し続け、迷走としか言い様のないハイブランドの新作発表を幾度となく見てきたモダンガールとしては、随分慎ましやかな晴れ着だと言わざるを得ない。素材なんて綿だし。綿100%だし。
しかし、真っ白な糸を贅沢に使ってレース編みとかさせられてたり、真っ白な生地に真っ白な糸で執拗に刺繍などさせられてたりすることから、晴れ着だというのは明白。きっといい値で売れることだろうが勘弁してほしい。最近の若いもんは自分の晴れ着くらい自分で縫えないのか。当たり前だ。わたしだって自分の晴れ着はショーウィンドウに飾られてる一番いいやつを買うわ。これだから服屋もろくにない田舎は。
というかこんなの、素人に任せるべき仕事ではない。三日間縫い続けて未だに胸部の刺繍すら終わっていないとか、なんという苦行。おばさんは、生地をドレスの形に縫って装飾について教えるところまでは隣にいてくれたが、教え終えたらさっさと別の作業に行ってしまった。つまりわたしはこの家において最も身分の低い者として、一番きつい仕事を押し付けられたのだ。
ピッチピチに若いわたしの腕は筋肉痛のピークなど既に越えており、今日はもう、ちょっと違和感があるかなという程度なのだが、気が乗らないので動きが鈍い。
惰性で腕を動かしながら時折舌打ちをしていると、さすがに鬱陶しかったのか、ライにやんわりと嗜められた。尚、ライとわたしが同じ部屋で作業をしているのは、主に身内に潜むストーカーを追い払ってもらうためであるが、おばさんから、わたしが怠けないように監視しろと言い含められていたところも目撃している。とんでもない裏切り者だが、可愛いので許す。
「面倒なのはわかっけど、あんまイライラしてっと手元が狂って怪我すんぞ」
「ご配慮き恐悦であります。しかし既に指先は血塗れなので心配は無用であります」
「……それ汚したら母ちゃんすげえ怒ると思う」
それはわたしも想像に難くなかったので、ひと刺しする度に血が止まるまで作業も止めている。抜かりはない。……が、この真っ白な晴れ着になすり付けてやろうという誘惑もすこぶるあった。苦行過ぎるのが悪い。
「ライたちって、毎年こんなことしてんの? というか、去年までは誰がこんなの作ってたわけ? ってまあ、おばさんなんだよね。だったら今年もおばさんがやったらいいのに。素人はもっと簡単な仕事から始めるべきだと思うんですよ」
思わず、刺々しい声で愚痴を吐き出してしまう。
完全に八つ当たりなのだが、ライはひどく申し訳なさそうな顔で、木材を彫る手を止めた。こういう戯言は深刻に受け止めないでほしいわー。罪悪感でこちらが居たたまれない。
とか思ったのだが、ややあって口を開いたライの発言に、わたしの些細な罪悪感はLTEの速度で吹っ飛んでしまった。
「……去年は、作ってねえんだ。母ちゃんは前に作ったことあるんだろうけど、その……そういう服は、着る人のいる時しか作らねえから」
「は? え、待って待って。これ、春になったら市場で売るんだよね? わたしはてっきり、手間はかかるけど単価が高いので毎年一枚は作って売ってる、というものだと思って仕方なく引き受けたんだけど? ひょっとして、普段ろくに働かないからって仕事の切り替わりにかこつけて嫌がらせを受けてるだけなの?」
「や……ヒュジィはいつもよくやってると思うぞ」
「まあね! そうなんですけど! しかしなぜかおばさんはわたしの働きを正当に評価してくれないんですよね!」
「それは母ちゃんが……」
ここまでやや歯切れの悪い様子を見せていたライが、とうとう口ごもって目を逸らしてしまった。
あー、ちょっとこれはわかってしまったよ? 薄々感付いてはいたけれどね? 身内として信じたくはなかったというか。しかしまあ、事実を突きつけられてしまっては仕方がない。わたしは現実を直視できる論理的な人間だ。
「なるほど案の定嫌がらせと。やっぱわたしっておばさんに嫌われてんだよね。あーそれなのになんでここに招いてくれたのかなー。親に頼まれたからかなー。断ってくれた方がよかったなー」
そうすればわたしは、こんな山の中で家畜と保存食に囲まれることなく、クリックひとつで欲しいものが手に入る自堕落な生活を送れていたのだ。こんなど田舎ではじきに訪れるクリスマスにも、カーネルおじさんのフライドチキンを食べることはできまい。
過去のわたしが爬虫類大好き少女だったとしても、今のわたしにはその魅力が微塵もわからないのだから、自分がここにいる意義は心底理解不能。
糸と針が飛び出たままの晴れ着をテーブルの上に放って行儀の悪いポーズなどをしてみると、ライはぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回した。
「いやいや違う。それはない。つーか、そうじゃねえからヒュジィは困ってんだ」
「はああ? 何それ意味が分からん怖い!」
ライが言うなら、たぶん間違ってはいないのだろう。が、嫌われていないのなら、なぜわたしはこのような仕打ちを受けねばならんのか。というかおばさんの行動の逐一から、わたしへの愛情など感じられたことがないのだが。
「……その服は、売るもんじゃねえから」
「はあ?」
半ば怯えつつ目を白黒させていると、ライが再び、訳の分からない発言をした。
「着るために作る服だよ」
「はあああ?」
そりゃ、売り物だって着るために作られてるだろうよ。
いや言いたいことはわかってる。しかし、わたしはこんなにも苦労して、売らないものを作らされているのか? 自分たちで消費するためにこんな原料的にも労働力的にも贅沢な品を? 山の暮らしとはそんなにも余裕のあるものだったのか? それならどうしてわたしは扱き使われてきたんだ。今日まで不当な労働を強いられていたとでもいうのか。いや、強いられているとはずっと思ってきたけど、思ってた以上の不当具合だったのか。いくら身内だからって許せんぞ。今日からはお駄賃程度の金銭は要求させてもらう。
大体、こんなもの誰が着るというのか。おばさんか? さすがにないわ。サイズも合わない。となると導き出せる答えは大体一つ。
「ライの晴れ着であったか」
それなら仕方ねえからもうちょっと頑張ってやるか、と一瞬思ったけれど、即座に両断された。
「なんでだよ」
「ライなら似合うだろうと」
「似合うかよ」
吐き捨てるように言われてしまった。
正直、ショックである。だって本当に似合うもん。ライ似合うもん。
というのを抜きにしても、実際、衝撃的である。なぜならば、おばさんでもライでもない場合、これはかなりの高確立でわたし自身の衣装ということになるからである。
「……わたしには、こんな服を着る予定はないと思うんですが」
「でも母ちゃんは、そのために作らせてんだぞ」
やはりそうなのか。
躊躇いがちに発してみた言葉が肯定されて、頬が引きつった。本当に心当たりがない。それとも、忘れているだけで何かあるのだろうか。誕生日とか。……誕生日のドレスを本人に作らせるとかないわー。そもそも誕生日ごときでドレス着ちゃうとかないわー。
悶々としていると、先ほど放り出した、その問題の晴れ着を引き寄せて、ライが小さく溜め息をついた。
「俺、やっぱヒュジィにこの服着てほしくねえや。こんなの、着るべきじゃない」
「ちょっと傷ついた」
わたしだって、いくら綿100%で素人仕事であっても間違いなく純白のフリフリドレスに分類される衣装を着られるとは思ってない。コスチュームプレイは専門家にご依頼ください。
とはいえ面と向かってきっぱりと断じられると、それはそれで切なく感じるのが厄介な乙女心というやつだ。
しかしライは、そんなわたしの傷心を気にする様子もなく、雑な刺繍の縫い目をじっと睨んでいた。
「ヒュジィ、兄貴のこと好きじゃねえだろ」
「おう、突然どうした。確かに好きじゃないけどわたしには話の流れが全く掴めん」
これがジェネレーションギャップというやつだろうか。若い子の話にはついてけない。いやわたしも依然ピッチピチに若いですけども。
小首をかしげていると、ようやく顔を上げたライが、どこか困ったような顔で笑った。
「こんなん着たら、余計惚れられちまう、って話」
「なんじゃそりゃ」
と答えつつ、その未来が想像できて怖い。自意識過剰でなくてね。あいつがわたしに、そういう意味で好意を持っているのは明らかだし、それを否定してかまととぶっても寧ろ不利益しかない。事実認識はきちんとしている。
その上で、ライの発言はあり得る未来だと言える。心底おぞましい。
「ライが惚れてくれるなら、不肖このヒュジィ、恥を忍んで白無垢に身を包むもやぶさかではないのだが」
「何言ってんだよ。似合うたあ思うけど、惚れんのはだめだろ。俺も悪いもん」
上げて落とすとはさすがである。山育ちの粗野な子供であっても、イケメンはイケメン。処世術もばっちりである。
ジェネレーションギャップのせいか、やっぱり何を言ってるのかわからなかったけど。悪いってなんのことだ。
「まあともかく、こいつは適当に作るふりして……なかなか仕上がんねえふりしててくれよ」
「ふりなんかでなく、本当に仕上げられないと思うけどね」
返された衣装を見つめて溜め息をつく。ライが何か手を回して、この衣装作りを中止させてくれるというなら、願ったり叶ったりである。が、モルル家の最高権力者がおばさんである以上成果は期待できない。恐らくわたしは、ちまちまと何らかの紋様を縫い取る作業からは逃れられないのだ。苦行。
再び針を手に持って、糸の先をたどる。
そうしながら、そういえば先ほど自然に口をついて出た「白無垢」ってのは一体なんのことだったか、と少しだけ考えて、やめた。過去のことなんて掘り返して、やぶ蛇になったら目も当てられない。
なんて考えていたら、また指先にぶっすりと針が刺さった。おばさんの毒殺も視野に入れるべきかもしれないと、割と本気で思った。




