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2-1

「ヒュジィ、ユキチャンの様子はどうだ?」


 厩舎で竜の世話をしていると、モルル家長男ヨキ・モルル氏が用もないのにこちらを覗き込んでいた。


「ユキチャンはすこぶる元気です。わたしが手抜き仕事をするとでも思ってんですか。なんたる謂れのない侮辱。サイテーっすわ」

「ち、ちげえよ。何言ってんだヒュジィ。俺はそういうつもりじゃなくて、その……」

「じゃあどういうつもりですか。どう見ても昨日も今日も至って健康なユキチャンのお世話をしているわたしに、どのような意図を持って愚かしい質問を投げかけてきたのですか」

「んな気取った喋り方すんなよ、ヒュジィ。そんなんじゃいつまで経ってもこの山ん慣れらんねえぞ」

「山に住んでんのはモルル家だけでしょう慣れられなくともどうでもいいです。それより話をそらさないでください」


 用もないのに話しかけてくるヨキ・モルルは、気がつくと大体いつも近くにいる。とてもキモい。こういうの、故郷ではストーカーと呼んで手錠をかけて市中お引き回しの末、司法の裁きに委ねた気がする。ここがこれほど田舎でなければ、この男も白州で打ち首にしてやれただろうに。


 モルル家に迎え入れられた日、二人の息子のうちわたしと歳の近い兄ヨキがいろいろ面倒を見てくれると、紹介がてらおばさんに言われた。


 正直に言えば弟のライの方が可愛いし穏やかそうだし可愛いので、後ろを付いて回りたかった。歳が近いと言っても、ヨキがわたしの二つ上、ライは三つ下なので、どっちがお世話してくれても変わらないだろと思った。

 どこへ行くにもついていって、「もーどこまでついてくんのおねえちゃん! ぼくトイレに行くんだけど!」とか顔を赤くして怒られたかった。そういう趣味はないので犯罪に走る気も一切ないが、折角年下の男の子がいるんだからそういうロマンに思いを馳せてみたかった。まあ、実際のライは田舎っぺなので言葉遣いは兄同様粗暴であるが、少年には少年であるというだけで許される事柄がいくつもあるのだ。この子顔は無駄にいいしな。いや実は性格もめちゃくちゃいいんだけど。顔は性格以上に桁外れに整ってるんだよな。兄にも母にも似ずな。たぶん、一昨年亡くなったと言う父親に似たんだろう写真も見たことないけど。


 しかし、郷に入っては郷に従え。新入りがでかい口をきけるわけもなく、大人しくヨキに世話になってやった。


 最初のうちは、それでもありがたいと思っていた。


 竜の鱗を岩亀のヒゲのブラシで洗うことも、爪は鉈でバッサリ切ってから専用のヤスリで磨くことも、螺子角ヤギは空砲を撃つと硬直するので安全に近づけることも、角牛の角がなぜか体を覆うように伸びるのはもともとそれが柔らかい触覚だったからで、若牛の角は柔らかいというよりムニョムニョしているということも、ヨキから聞いた。


 嫌な顔一つせず聞いたことに答えてくれるのも、聞かないことも得意げに教えてくれるのも、まあ感謝していた。己の中の哺乳類の定義が揺らいだのは、ヨキのせいではないし。


 だが、主に自己評価で才媛と名高いわたしは、あっという間に山での暮らしに順応した。すべきことは全部覚えた。山暮らし一ヶ月となった今では、最早ナビゲーターなど全く要らないのだ。


 それでも、ヨキはついてくる。こともあろうに、便所にまでついてくる。ここの便所、ド田舎に相応しくボットンだからな。ほんと勘弁してほしい。いや、ボットン拒否したらあとは野糞しかないから、ボットンには無理矢理慣れた。勘弁してほしいのは、ついてきたヨキがわたしが入った直後の便所にすぐに入ることだ。似たようなことをこいつの弟に対して考えたことがなかったわけじゃないが、人が中から出てきた途端妖怪の如くスッと脇を通り抜け、瞬時に鍵をかけて中に籠もるというヤバい行為までは想像したこともない。一体何をしているのか。臭いでも嗅いでんのか。嗅いでんだろうな。ぶちのめすぞ。


 雄大で野蛮な山で暮らすうちに、わたしも大分言葉遣いが悪くなった気がする。いいや違う、山のせいじゃない。ド変態のクソ野郎のせいである。


 何かにつけて、さも用があるような顔をして声をかけてくる。さも、行き先が偶然重なったような顔をして後をついてくる。勘弁しろ。


 おいおい面倒見のいいお兄ちゃん面したがるのは実の弟で卒業しとけよ〜、とか思えてた日が懐かしい。

 あれはただの変質者だ。残酷なことに、わたしと僅かながら血が繋がっているらしい。そして素直で可愛いライとはほとんど同じ血が流れている。この世界は間違っている。


 竜にユキチャンという名前を付けたのもヨキだった。


 ふとした拍子に、螺子角ヤギを見つめてユキチャンと呟いたのを、不覚にも奴に聞きとがめられたのだ。今ならわかるが、たまたま聞こえたんじゃなく、奴は四六時中わたしに張り付いて一挙手一投足を注視し一言一句漏らすまいと聞き耳を立ててた。……どうにかしてバルサン焚いた密室に誘導して閉じ込めてやりたい。という強い意志はまだ心に秘めておく。


 ともあれ、あの頃のわたしには知る由もなく、素直に、自分の知る範囲でユキチャンの話をし尽くした。要するに、ユキチャンは山で暮らす貧相な乳のヤギだという話だ。

 それを聞いたヨキは、なぜだかヨキとユキの音が似ていることに大喜びし、岩長竜の一頭にその名前をつけた。ヤギだっつっただろが。そこまで聞いてなかったんだろうな。奴の体には、都合のいいことしか目にも耳にも入れない変態用瞬膜が備わってるので致し方ない。


 竜の世話はもともとわたしに任されることになっていたのだが、その日を境に怒濤のユキチャン推しが始まった。CDをダンボール買いしてるレベルの推し方だった。当時のわたしはおかしいと思いながらもはね除ける理由を見つけられず、ユキチャンだけ特別待遇で世話をせねばならなくなった。

 その結果が、純粋な労働量の増加とヨキ・モルルのまといつき行為の増進によって、ストレスを過剰に受けている現在なのだ。

 岩長竜は食肉用家畜なので、申し訳ないが早いとこ捌かれてほしいと毎日思ってる。


「――なあヒュジィ、何カリカリしてんだよ。昨日の晩飯でルェスの話したの気にしてんのか? あいつは野菜を売ってもらってるだけのただの知り合いだよ」


 嫌悪を隠してもいない最前の受け答えに対しても、これだ。今日も絶好調だな。本当に勘弁しろ。


 ていうか誰の話だよ知らねーよそんな名前が食卓の席で出されていたことも今知った。なんで急に、彼女に浮気を責められてる男の言い訳みたいなセリフ吐きだしたの? 空気を読む気が一切ないの? 読みたくても機能が搭載されていないの? たぶんどっちでも合っている。こいつの世界にはこいつ自身しか存在してない。


 何も言いたくないくらいキモかったので無視していたら、ヨキは厩舎の中に入ってきた。


 たったひと月で自分でも驚くほど手なずけてしまったユキチャンやその他の竜が、わたしの気持ちを察して低く唸りだした。脳内お花畑変態はまるで気づかない。まあ、気づかないまま死ねるならそれも幸せだろう。いざとなったら遠慮なくヤれ、ユキチャン。


「機嫌直せよヒュジィ。そんなに怒ってんならよ、お詫びに今日はもうずっと一緒にいてやるから」

「詫びもクソも、いつでも勝手にずっと一緒にいようとしてるでしょうが。自分本位な償いの押しつけとか最高におぞましいです。わたしの求める詫びはお前がわたしの目の届く範囲から消えることなんで、それ以上近づいたらユキチャンが噛み殺しますよ帰ってください」

「何言ってんだよ。帰る家は同じだろ。一緒に帰りてえのか? 疲れたのか?」

「ほんとに都合のいいとこしか拾わねえなお前の耳は。そして思考の展開が最早妄想の域。会話のできない変態とか底辺すら突き抜けてるだろ堪え難いわ。さっさと厩舎から出て行け」


 床に敷いてある藁屑をぺいっと投げつけると、ユキチャンが合わせるようにシュッと息を吐いてヨキを威嚇した。


 おばさんはわたしを、竜が好きな女の子だと言っていた。都会で生きる女の子として問題になるほどに、爬虫類が大好きなのだと。だからここに来ることになったのだと。

 だが記憶を失ったせいなのか、竜のことはそんなに好きになれない。表情らしい表情もなく、瞬きも少ない。可愛くない。時々白い瞬膜がシュッと目を覆うのを見てつつきたいと思う程度だ。まあ、自分の目玉を舌で舐めているのはちょっと可愛いかもしれん。甘えてすり寄ってこられるのも悪い気分じゃない。でも、蛇に似てずっと触ってると手が生臭くなるので、必要以上のふれあいはご免被っている。


 それでも毎日甲斐甲斐しく世話をしているのは、これが自分に課せられた仕事だからというより、ここにいれば妄想の世界で生きてる底辺のクソストーカーから、竜が守ってくれるからである。抱きしめたいほど大好きではないが、これ以上ないほどに信頼している。


 さすがのヨキも竜の口元から牙が覗くのは無視できなかったようで、不満げな顔で一歩下がる。が、出て行くことはしない。そのまま居座って、妄想十割の一方的な会話を妄想上のわたしと楽しんでいた。


 早いうちに外の仕事が終わっていてよかった。今日はもう竜を全て厩舎に入れてあり、餌や水の用意も終わって、あとは鱗を磨くだけなのだ。まだ外に残ってる竜がいたら、連れ戻しに行く間、変態にゼロ距離で寄り添われて牧場を歩き回る羽目になっていた。


 というか変態でも長男だろ仕事しろ。


 と、言ってやりたいのはやまやまだが、口を開いたら余計にストレスを溜めるだけだと学習しているので、黙々と竜の世話をする。ユキチャンは綺麗にし終わったので、次はペーターだ。不本意ながら一頭にユキチャンと付けられてしまったので、ほかの竜にも関係がありそうな名前を付けたのだ。今いる竜の名前はみんなワシがつけた。ユキチャン以外。


 まあ、もともと食用だから、モルルの人たちは一切名前をつけてなかったのだ。だからわたしが好きにした。

 名前がなかったのは情が移るからではない。管理が面倒だからだ。シビア。

 大体、情云々というならば、竜はほかの家畜より知性が高いので、耐性のない人や絆され易い人は家畜として飼ってしまった時点でアウトだ。本当にシビアな世界なのだ。


 わたしは、たぶん耐性のある人種だ。合理的で現実的な賢女なので。多少の罪悪感はあるけど、自分はお肉を育てていると思って世話している。綺麗ごと言ったって食わなきゃ死ぬし、狩りをするより手元で繁殖させた方が圧倒的に楽だし安定して食料を得られるし、場合によっちゃ生態系のバランスを保つのにもこの方がいい。そう信じてるからだ。

 まあ、せめて何も無駄にせず綺麗に食べて使ってあげたい、と思う程度の情は持ち合わせている。


 ペーターの世話を終え、ロッテンマイヤーを磨いていると、突然天使の声が聞こえた。素早く顔を上げると、天使の微笑みが厩舎の入り口からゆっくりこちらに向かってきていた。可愛い可愛いライのお迎えである。

 最近のわたしはライが迎えにこないと家に戻らない。というか、戻れない。変態が変態であるが故に。なので、あらゆる意味で癒されながらライとお喋りをして、残りの仕事を片付ける。


「今日は何してたの?」

「ん、槍樅の若木を間引いてきた。西の岩棚の上の。間引いたのは少し乾かしたら割って、また乾かしといて薪にする。そろそろ雪が降って空気が湿るから、今のうちにやっとかねえと」


 この辺りの冬は長い。わたしがここへ来たのは、とても短い夏の終わり頃だった。その後に来る秋もあっという間に終わり、もういくつ寝たら冬期なのだ。


「明日は残った木から枝を落とす。全部は落とさねえで、残した枝は縄で幹に結わえる。それをしとかねえと、雪で枝が折れちまう。残してある木はいつか材木になんのがほとんどだから、枝一本でも割れたり裂けたりしねえよう気ぃ使うんだ。そっから幹が悪くなるから」

「ほーん」


 ロッテンマイヤーの首下をブラシで擦りながら相槌を打つ。十二歳のはずなのに、ほんとしっかりしてる。知識も精神面も、肉体面でさえ、である。十七歳の妄想野郎は全然働いてないのに。あいつは精々、竜以外の家畜をおざなりに世話してるくらいだ。弟を見習え。因みにわたしだって、竜の世話のほか、母屋の掃除や食事の用意にも駆り出されている。本当にクズな変態だ。


「あ、そうだ。帰りに冠鳥を仕留めたんだ。たぶん母ちゃんが荷詰め鳥にしてくれる」

「おーごちそうだ! 楽しみだねえ」

「……たぶん、……ヒュジィも手伝わされる」

「ヒュジィが荷詰め鳥作んのかあ。俺、汁一滴残さねえよ。楽しみにしてっから」

「わー急速に食欲が減退した! おばさんに見せる前に埋めちまおうぜ! きっと筋張って固い肉ですよ親分!」

「何言ってんだよ罰当たり。俺が仕留めたんだ、俺が食ってやらねえでどうすんだ」

「ライって本当に男前ー」

「お、おいヒュジィ何言ってんだ! ライも生意気なこと言うんじゃねえ!」

「ま、そういうわけだから、ヒュジィが旨くしてくれんの楽しみにしてる」

「無視すんじゃねえよ!」

「やだもーライったらどこで覚えてくるのそういう殺し文句ー。でも作るのはマジ勘弁してほしい。荷詰め鳥とかどんだけ手間かかんだよ」

「……母ちゃんは、ヒュジィにウチの味を仕込みたがってるから」

「そりゃそうだろ! なんてったって、ヒュジィはもうウチの人間なんだからな!」


 時折会話に混ざりこんでくる役立たずを無視して、天使みたいなライの笑顔を見つめる。この顔で頼まれたらね、どんなに面倒でも頑張っちゃうよね。これがドマゾの心理ってやつだろうか。でもほんっとーに可愛いので致し方なし。

 山で毎日動き回ってても十分白い肌に、ぱっちり二重できらきら輝く鈍色の目、ばっさばさのまつげ。ふわっふわの金髪は腰まで伸ばして緩い三つ編みとくる。どんな天使か妖精だ。髪を切るのは惜しいけど、世が世ならウィーン少年合唱団に入れてましたわ、このわたしが。この顔でこの口調っていうのに最初は戸惑ったけどね、ギャップの範疇である。美少年だというだけで全ての要素がプラスに働く。


 なぜだか今、その笑顔がちょっと曇っているようにも見えたけれど、役立たずの兄のことで悩んでいるのだろうか。本当に存在そのものが余計な男だ。


 ロッテンマイヤーの鱗もピカピカにし終わって、道具を片付ける。いつものように、ちょっと生臭い手をライと繋いで家に帰る。もともと彼ら兄弟がしていた仕事なので、嫌がられたり注意されたことはない。ので、わたしも図太く振る舞っている。


 空いてる方の手がヨキに握られそうになると、仕事のために腰から下げていた鉈を引き抜いて威嚇してくれるのも毎度のこと。少しの応酬ののち、これまたいつもように、ヨキはライの手を握ることで納得した。わたしに触れてる弟に触れることは弟を通してわたしに触れてることになる、という変態の超理論による納得である。心底キモい。

 まあ、実際にわたしが触れているのは肉が固くて肌がちょっと乾き気味のライの手だ。大丈夫。


 確認するように繋いだ手に目を向けて、ふと何かを思い出した。今ライと繋いでいるのと同じように、誰かと手を繋いでどこかを歩いた。その子の手は柔らかかった。


 ……そんな曖昧なことを思い出しかけたからなんだというのか。


 どうにもならないし、どうでもいいことだ。

 そう思ったけど、ちょっとだけ嫌な感じがした。

 取り戻せないはずの記憶が、背後に迫ってきている気がする。


 ヨキは本当にクソキモいし、血縁だからと容赦なく扱き使ってくるおばさんには、ちょっと辟易している。だけどライが驚くくらい天使だし男前だし、竜も思ったよりは可愛いので、わたしはここでの生活が嫌いじゃない。


 親戚なんだから、多少記憶を取り戻したって関係が一気に変わることはない。わたしはここにいられる。――そのはずなのに、少しでも思い出してしまったら、ここでの幸せが全部なくなる気がする。


 何も思い出したくないなあと前より強く思いながら、繋いだ手にぎゅっと力を込めて家に帰った。

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