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 その現象は通過トランジットと呼ばれる。らしい。


 由来は全くわからないが、少なくともワクワクするような響きでないことは確かだ。なんの捻りもないし秘技めいてもいない。

 もっと知的創造という仕事に敬意を払うべき、と主張したら、そういう職に就いた覚えはないとモラトリアムを見るような目で吐き捨てられた。


 学術用語に必要なのは、本質を正しく簡潔に可能な限りわかり易く示すことであり、勿体をつけた装飾は不要。


 確かに全く仰る通りだが、ひっぱたかれるほどの暴言だったとは我ながら思えない。例えわたしが、提案のついでにプギャーと声に出して言っていたとしても。

 これが天災に巻き込まれた不運な人間の心のケアと不可解な状況の説明という、きめ細やかな仕事を任された博士さまとは到底思えなかった。きめ細かいのはエスケートゥーでも使ってそうなお綺麗な肌だけなのか。


 博士ってのが然るべき機関で高等な教育を受け一定の成績を修めた人間に与えられる肩書きであることはわたしだって知っている。突如現れた白衣集団に事情の説明もそこそこに拉致されて不安に怯える美少女に対し、口と同時に手が出る粗暴さが果たしてどんなインテリジェンスに基づいて発現しているというのか。インテリゲンチャたるもの、ふざけた物言いが多感な乙女の精神的な不安に由来するものだと気づくべき。


 ひょっとすると、これは本当に犯罪としての拉致誘拐かもしれない。


 だが、わたしに信じられなくても、博士さまの権威は輝く襟章を授けた学会に保証されている。らしい。そしてこのいかにも研究所然とした無機質な室内が、その傲りを支えている。庶民の睥睨など投げつけられた消しゴムのカスよりも軽い。

 非難は黙殺され、説明は滔々と続けられた。


 曰く、通過とは、原因不明の『空間の穴』に吸い込まれてしまうことを言う。らしい。


 暫定的に(百年以上も暫定的に)ピットと呼んでいるその穴は、恐らくが空間の歪みであろうと、研究者たちは考えている。らしい。

 そこら中に際限なく存在するわけではないが、どこにでも発生する。視認することは難しい。近くで見ても、恐らくは些細な空気の揺らぎにしか見えないはずで、遠くからでは全く確認できない。かといって近づきすぎれば必ず吸い込まれる。そして魔術による探知には一切かからない。なのでピットの発見から百年以上経った今でも、正体をはっきりさせることさえできていない。らしい。


 そこは学問探究の徒として果敢にピットとやらに飛び込むべきだろ、と至極真っ当な発言をしたところ、チッと激しい舌打ちをされた。これだから猿の相手はしたくないんです、と面と向かって放言できる人間がどうしてこんなセンシティブな現場を任されているのか、わたしは更に不信感を抱いた。


 それでもいやいやながら説明されたところによると、正体も原因も不明確なままのピットについて唯一判明しているのがその作用だと言う。


 要するに、ピットは別のピットに繋がっており、どこかでそれに吸い込まれた人間は、次の瞬間、遠く離れた別の土地に忽然と姿を現すことになると言うのだ。


 信じられないことに、記憶の大半を失った状態で。


 思わず鼻で笑ってしまったね。何言ってんのコノヒト、と吹き出すのをこらえるのに必死になってしまったね。

 だって記憶喪失って。きょうび、恥ずかしくて中学二年生でもなかなか口にできないわ。

 それがそんなポイポイと、頭ぶつける手間さえなく記憶喪失になるわけがあるか。ミステリに対する挑戦か。


 大体、ついつい流されて大人しく話を聞いてしまったが、普通じゃ見ることも探ることもできないものだとか、限定的な結果しかわかってない現象について、なぜこうもしかつめらしく語れるのか。語るっていうか騙られている可能性がハーゲンダッツ並みに濃厚。


 研究は研究でも、こいつらの研究題目は心理学的な何かなんじゃなかろうか。或いは新手の詐欺か、なんらかの理由で覚めない夢でも見ているか。

 どれであっても迷惑だが、どれかというと最後の可能性が一番嫌だ。何人いるのか知らないが、いい歳こいた研究者がみんなで共同幻想を追っているとかいうお寒い話はよしてほしい。さすがに笑顔が凍る。


 しかしそんな冷気にぶち当たるまでもなく、冷え冷えとした目をわたしに向けた博士さまはドパッと容赦なく冷や水をぶっかけてきた。


「ご自身の名前ひとつでもあなたが覚えていると言うのなら、その通り、わたしたちは夢と現の境もわからなくなった狂人の集まりなのでしょうね」


 はは。何を言っていやがる。

 名前なんて言えるに決まってるだろうが。

 決まってる、だろうが。


 高笑いをしながら勝ち名乗りを上げてやろうとして、全身がガッチガチに固まってしまった。びっくりするくらい肝が冷えた。肝ってここのことか、と実感できるくらい冷えきった。


 信じがたいことだが本当に、わたしは自分の名前がわからなかった。


 呆然とする様を見て溜飲を下したように、博士は鼻で笑った。わたしがしたものよりも、根拠と自尊心に溢れた笑いだった。

 バカにしやがって、と憤ることもできない。何しろわたしは確かにバカだった。自分の名前を忘れたことにも気づかないバカだった。

 対して、鏡を見なくてもそこはかとない自信が根付いてる、美少女間違いなしのわたしの向こうを張るような美人博士は、きっと名前を持っている。確固とした記憶と自分を持っている。


 ことここに至ってようやくわたしは、自分が名前も記憶も過去も持たない、ただの幽鬼であることを知ってしまったのだ。


 混乱し、同時にうちひしがれていると、それが通過なのだと博士さまがのたまった。慰めるような気色はない。労るようなそぶりもない。素人目にもわかるくらい明らかな情緒的欠陥をお持ちである。

 わたしの心はますます重くなったが、どこまでも事務的に、説明が続く。


 ピットに吸われ、別のピットから出てくる人間は、『どこか』を通る間に記憶を失う。

 だから研究者は迂闊に近づけなかったし、迸る情熱を抑えきれずに突撃した研究者は、積み上げた知識もその情熱も何もかもを失って、彼方の地で熟練の炭焼き職人となり名を馳せた。勿論散々手は尽くしたが、彼の記憶は戻らなかった。


 そもそもは、記憶喪失の人間が突然縁もゆかりもない土地に現れる――そんなことが、偶然だとか気のせいだとか不思議なこともあるもんだとかでは片付かないくらい確認されていることに気づいて、ある研究者が目を留めたのが始まり。


 その現象だけをみても特異なことであり、ある程度人の目を集めるから、出口となったピットの場所は、大まかに把握できた。

 だから『作用』の少なくとも一部分は最初からわかっていたが、同じ理由で、それ以上のことを調べることは困難を極めた。


 それでも、危険であることだけははっきりとしていたため、周辺地域を封鎖した。


 それが、わたしが否応無しに連れ込まれ、現在も抑留を強いられているこの研究所が創立された理由であり、経緯であり、現在の仕事でもある。


 というのが、わたしの精神状態などおかまいなしにつらつらと述べ立てられたことの要略であった。纏めるにあたって切り捨てたのは、勿論ところどころに挟まれた暴言の数々である。頼むから仕事は選んでくれ。周りが被害を被るから。


 博士が語るに任せている間、それはなんともご苦労なことで、とかなんとか、むにゃむにゃと口にしたような気がする。和を以て尊しとなす民族性ゆえにな。無意識にもそんな芸当ができてしまう。心を持たないブリキの研究員よりもわたしのほうがよほど、こんな状況下での説明役に向いている。

 しかし残念なことに、状況に翻弄されているのはわたしの方だ。世の中とはままならない。


 などと思ったりもしたが勿論、心中は全く穏やかでない。耳に入る言葉が理解できたことにいっそ感動を覚えたいくらい、混乱してるし焦っている。ドン詰まりの窓際エリートどもの来し方行く末なんて知ったところでなんの益もない。ピットの謎が今もって謎のままなのもどうでもいい。

 わたしにとって意味があったのは、自分が記憶を失なってしまって、おまけに故郷も縁故もわからないという情報だけだ。最悪だ。発狂しなかったことを誉めて欲しいくらい。


 しかし、この場にいるのが情緒に欠陥を抱えた機械人と当事者のわたしだけでは、褒称を望んでも得られるのは虚しさだけだ。試しに自分で自分を讃えてみて、やっぱり虚しさしか得られなかったので気持ちを落ち着ける努力をすることにした。


 状況は最悪だし、ものすごく困っている。だが全く希望がないわけではない。元通りに戻すことはできなくても、前に進むことはできる。そのためにやれることはある。

 まず、名前。全然思い出せそうにないが、自分で新たに名付けることはできる。それならなんとかなる。なんだか名付けには才能があるような、妙な自身が胸の奥にあるのだ。大五郎、弥右衛門、森伊蔵、スミルノフ。ぽんぽんといくつも思いついたが、なぜだかもう少し考えた方がいい気がする。保留だ。

 ならば、衣食住だ。先ほどの説明からして、思い出せもしないふるさとは、確実に徒歩五分圏内ではない。譲歩に譲歩を重ねて徒歩一時間圏内の町村を回ってみても、ふるさとである確率は極めて低いと思われる。必然、どこかに宿を求めねばならない。大丈夫、家から出るときには財布とケータイが現代人の常識だ。どうにかなる。しかし体じゅうを探ってみたところ、お金は勿論、ひのきのぼう一本すら持っていなかった。これはまずい。


 頑張って前を向こうとした結果は、名前なし、記憶なし、恐らく身元の手がかりもなし、財産もなし、という身の上であることを強く実感しただけだ。

 こいつはロックだ。ロックすぎて笑いも引きつる。


 不可抗力で喉の奥から変な音を立てながら、縋る思いで博士を見つめた。調査しかしてないけど研究員を自称して研究所も構えて通過者を問答無用で拉致しているんだから、ひょっとして現状説明以上のこともしてくれるべきではないのか。


 あまりにも儚く頼りなく、憔悴した可憐な少女の姿に庇護欲でもそそられたのか、博士は静かに片手を差し出した。

 やはり、当面の面倒は彼女らが見てくれるらしい。マニュアル的にそうなってるらしい。まあそりゃそうか。ここで任務完了とか言って放り出されたら、どんな鬼畜の所行だって話よ。取り乱して損した。

 この博士が傍目にも明らかな冷血な言動をとるから、こいつらみんなマッドでクレイジーなサイコパス集団かと思って自分の力だけを信じようとしてしまったよ。やっぱりこいつはわたしのためにも仕事を選ぶべき。


 安心すると途端に余裕が生まれた。ま、世話になろうかね、と上から目線で差し出された腕を儀礼的に握り返してやる。

 だが、わたしの手に触れたのは心根の冷たさに相応しく血の通わないシリコンフィギュアみたいな感触ではなく、妙な固さだった。ガシャリ、と、軽くも硬質な音が鳴る。

 なんだこれは。紙か。

 不審に思いながら検分しようとしたが、そんなことをするまでもなく、淡々と博士さまによる解説がなされた。


「現状、学究の徒である我々はピットには近づけない。従って、現象の体験者が主な研究対象となっており、保護した通過者には、生活の保障や身元の捜索と引き換えにこちらの研究に協力してもらうことになります。これはその契約書です」


 そこか。そこでその名称が生きてくるのか。確かに多少、研究してるっぽくなる。


 だが、調べる対象はあくまでピットと通過そのもののはず。これじゃFBIによるUFOの追跡調査とあんまり違わないと思うんだがそれでいいのか。今明らかになるイエティの謎! とかと同レベルな気がするんだがそれでいいのか。ほかにも仕事があるならそれも致し方ない気がするけど、ここがピットと通過専門の研究機関だとしたら許されないと思う。よしんば運営に税金が使われているとしたら、天が許してもわたしが許さん。


 いやまあその税金をわたしが納めていたかどうかも今となってはわからんのだし、そんな話はおいておくとして。


 UFOやイエティの目撃者と同じような扱いってことは、協力というのは、実験動物にされることを意味するだろう。皮下に埋め込まれたチップを探したり、オーバーテクノロジーな手術痕を探したり、状況の再現を計るための撒き餌にされたりするんだろう。この場合だと、もう一度ピットに吸われろって言うんだろう。

 そうだ、きっとそうだ。そして使える限り使い尽くして、ピットの場所を特定したり、通過に関する手がかりを得ようとするんだ。悪の組織みたいに。なにせこちとら、既に記憶喪失だし失うものはもうないし、そもそも身元不明で身寄りがない時点で好き勝手し放題…………あっこれ絶対あるやつだ。


 冴え渡る頭脳で己の置かれた状況を理解したわたしは、契約書を蝋細工のような腕に突き返した。やはりここは、マッドでクレイジーなキチガイの巣窟だった。


 さすがにピットの存在や通過という現象のことは、まあ信じてやる。実は全て洗脳の手段でやっぱりここは新手のカルトの総本山……とか考え出したらキリがない。ぶっちゃけ記憶喪失になっただけで手一杯なので、原因はもうなんでもいい。わたしは未来に生きる。失くしたものにいつまでも執着してJポップの歌詞をなぞるような日々を過ごす余裕はない。

 が、『研究している』という主張やその手法は胡散臭いことこの上なし。それに従事する人間のことは絶対に信じるべきではない。こんなところに留まってたまるか。

 大丈夫、最悪夜の蝶になるしかないが、長い余生をモルモットプレイに費やして生きるよりはよっぽどマシ。


 不快そうにこちらを見てくるサイコドクターに、非人道的な組織に世話になるつもりは毛頭ないと吐き捨てて、踵を返して走り出す。急な行動で、むこうもすぐには反応できないだろう。逃げるが勝ちってやつだ。意表をついたわたしの華麗な作戦勝ちってやつだ。

 だが、わたしの逃走劇は簡単には終わらない。追っ手はしつこくどこまでも食い下がり、逃げた先でも賞金稼ぎに見つかり、寸でのところで隣の長屋に逃げ込んだり、なじみの妓楼で匿われたり、ついには逃げ切れずに荒野で決闘したりするのだ。


 という、スペクタクルを設計していた瞬間もあった。

 現実には、博士は追ってこなかった。

 逃げ出すのも協力を拒むのもわたしが初めてじゃないんだとは後で気づいた。断られても困らないくらい、被害者の数は多かったのだ。

 そしてわたしは、顔色ひとつ変えず指先一本動かさずにただ軽蔑しきった目をこちらに向けていた博士の元に、すごすごと戻らざるを得なかった。


「ドアが開きません」


 そのとき初めて、束の間だけ、氷のような博士さまの美貌が、呆れ、蔑み、苛立ち以外の表情を浮かべた。恐らくそれは、純粋な驚きだった。

 してやったり、とか一瞬思ったけど、それがどうしたというのか。この人を驚かせたからって、達成される目標なんて何もなかった。寧ろ、ドアが開けられないだけで驚かれる自分のことを心配すべき。心配したってなんの解決にもならないけど。


 わたしは、日常生活困難者という烙印を押されて、研究所に収容されることとなった。

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