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投稿小説〜短編〜

夢見ヶ丘で逢いましょう

作者: 玉木 久芳

            


 ――月下美人の咲く夜に、月が綺麗と彼は言った。



「めーちゃん、こんばんは」

 ふいに声をかけられて、私は読んでいた本から顔をあげた。

「いーちゃん、久しぶり」

「今日は綺麗な満月だね」

 夜空にぽっかりと浮かぶまんまるお月様を見上げながら、いーちゃんは私の隣に腰かける。ペンキのはげかけた白いベンチに座って、私は本を読みながらバスが来るのを待っていた。

 あちこちさびの浮いたバス停には、『月見ヶ丘』とかすれた文字で書いてある。田舎でもさらに奥まったところに住んでいる私たちは、このバス停からスクールバスに乗って、毎日一緒に中学校に通っていた。

 いーちゃんこと彼、亀田樹(かめだいつき)は、高校から私と別になった。こうやってバス停で会うのは、本当に久しぶりのことだった。

「何読んでたの?」

「教科書」

「めーちゃん、勉強熱心だね」

 赤いリボンがかわいいブレザーの私と違って、いーちゃんは昔ながらの学ランを着ていた。教科書をのぞかれそうになって、私は鞄にしまう。ベンチの上ではなく地面に置いたスクールバッグのすぐそばで、大輪の花を咲かせた月下美人が夜風に揺られていた。

「いーちゃん、元気にしてた?」

「うん、元気だよ」

「そっちの学校生活、どう?」

「最初は戸惑うことが多かったけど、慣れればけっこういいよ。友達もたくさんできたし」

「そう……」

 中学校を卒業してから、いーちゃんはいーちゃんではじまった新しい生活にすっかり溶け込んでいるようだ。私が歩んでいる道にいーちゃんがいないように、彼のすすむ道には私がいない。それがなんだか寂しくて、私はベンチの上で膝を抱えた。

「めーちゃんは、元気じゃなさそうだね?」

 膝の頭にあごを乗せる私を見て、いーちゃんはすぐに気づいてくれる。優しく頭を撫でてくれるその手のひらに、私は甘えるようにほほを寄せた。

「いーちゃん、聞いて」

「なに?」

「私、失恋しちゃった」

 彼の手が、ぴたりと止まる。けれど私から離れることはなく、いーちゃんは言葉を探すように満月を見上げた。

「……それは、残念だったね」

 そして、その言葉を選ぶ。彼の手のひらに顔をうずめた私に、かたまっていた手の力を抜いてそっとほほを包み込んでくれた。

「同級生?」

「うん」

「どんな人だったの?」

「私と同じバドミントン部で、部長だったの。一年の時は違うクラスだったんだけど、二年から同じクラスになって、それがきっかけで付き合うようになったんだけど」

 でも、別れた。そう言って、私は猫のように首元をくすぐってくるいーちゃんにいやいやと首をふる。彼はいつもこうやって、私を猫のように扱って遊んだ。

「なんで別れたわけ?」

「高校卒業したら、違う学校になるから」

 私がこのブレザーを着ていられるのも、あとほんのわずかな間だけ。幸いにして、私も彼も在学中に無事進路が決まった。お互い励ましあいながら受験戦争を乗り越えたはずだったのに、いざ二人の合格が決まった途端、私は別れを告げられたのだった。

「めーちゃん、進学か。大学?」

「ううん、看護学校」

「中学校の時は保育士って言ってなかった?」

「変わったの。看護師になりたいって思って」

 看護学校を受けるにあたって、高校受験の時とは比にならないくらい猛勉強をした。家の近くという理由で選んだいまの高校は、正直いってそんなに苦労して入ったわけではない。逆に中学時代必死に受験勉強をしていたのはいーちゃんのほうで、憧れの高校のサッカー部に入るのを目標にとても頑張っていた。

「その彼は、どこに決まったの?」

「大学だけど、遠いんだよね。だから卒業したら遠距離になっちゃうって、お互いわかってたはずなんだけど……」

『おれ、大学遠くに行くからさ』

 それが至極もっともな理由だといった様子で、彼は私に別れを告げた。付き合い始めのころ、お互いの進路の話をした時点で、遠距離になるのはわかりきっていたことなのに。それを踏まえたうえで付き合っていたと思っていたのはどうやら私だけのようだった。

「私は卒業しても、メールとか電話とか頑張れば、乗り越えられると思ってたんだけどな」

 どんなに私が別れを拒んで、遠距離になっても頑張ろうと言っても、彼はそれを無理だと言った。たしかにこれから広がっていく新しい人間関係の中、なかなか会えない遠くの人より近くの人に惹かれてしまうことだってあるかもしれない。私はそれでも彼のことを好きでいられると思っていたのだけど、彼が私に対して抱いていた気持ちは違ったようだ。

「その人の、どんなところが好きだったの?」

「優しいところ」

 明るいところ、気配りができるところ、話が面白いところ。それから、笑うとかわいいところ。指折り数えながら、私は彼と過ごした日々をひとつひとつ反芻してみた。

 部活のことや、クラスのことや、進路のこと。いろんなことを話して、お互い励ましあったり支えあったりして、あっという間に過ぎ去った高校生活はもうすぐ終わってしまう。

 私の目からこぼれたしずくを、受け止めてくれたのはいーちゃんの手のひらだった。

「ごめん、いーちゃん。目から汗が」

「いいよ、そんなうそつかなくて」

「いーちゃんとは、卒業して別々になっても、ずっと一緒にいようねって約束できたのにね」

「…………」

 それに、いーちゃんは何も言ってくれなかった。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を見上げれば、いーちゃんが困ったように笑う。そして制服の袖で乱暴に目をぬぐってくれ、涙を受け止めていた手で私の手を握った。

 汗っかきみたいに濡れた手のひらが気持ち悪くて、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまう。

「いーちゃんは、そっちで好きな人できた?」

「ううん、別に。友達はたくさんできたけど」

「気になる人とかは?」

「いない」

「そっか」

 小さいころよくそうしたように、私たちは手をつないで空を見上げる。一緒に学校に通っていたあのころはいつも太陽のまぶしい青空ばかりで、こうして月明りを浴びながら二人でいることはとてもめずらしいことだった。

「めーちゃんに、好きな人ができてよかった」

「それ、本気で言ってる?」

「……ごめん、うそ」

 つなぐ手に力をこめながら、いーちゃんは月を見つめたまま言う。月光の降りそそぐその横顔はやけに白く見えて、口元からかすかに八重歯がのぞいていた。

「本気半分、うそ半分」

「どっちよ」

「僕にもよくわからない」

 私と違う学校の制服を着て、私のいない生活をおくっているいーちゃん。こうして会って話してみると、お互いの生活の中に自分がいないことがなんだか物足りなかった。

 いつも、二人で一緒にいた。いつまでも、一緒にいると思っていた。

「……私も、好きな人ができてよかった」

 私のつぶやきに、いーちゃんはこくりとうなずいた。

「バス、来たよ」

 遠くから聞こえてきたエンジン音に、いーちゃんが立ち上がる。そして膝を抱えたままの私を引っ張り、バス停まで連れて行ってくれる。

 鞄から落ちそうになっている本をしまいながら、いーちゃんはその表紙を見てくすりと笑う。そしてチャックをしめて、私に「落とさないようにね」と言った。

 中学時代は、私のほうが背が高かったのに。いつのまにかいーちゃんに抜かされてしまっていた。ずっと見上げるばかりだったはずの私を見下ろしている自分に気づいたのか、いーちゃんは喜びを隠しきれずに八重歯を見せて笑った。

 月明りの夜道を、いまにも切れてしまいそうなライトで照らしながらバスがやってくる。運転手の姿はよく見えない。舗装されていないでこぼこ道を走っていたバスは、バス停にとまると誰も乗っていない扉を開いた。

「じゃあ、めーちゃん、またね」

 つないでいた手を離し、いーちゃんはそう笑った。



 ――月下美人の咲く夜に、また逢いにくると彼は言った。



「めーちゃん、こんばんは」

 懐かしい声がして、私は読んでいた本から顔をあげた。

「いーちゃん、久しぶり」

 夜空にぽっかりと浮かぶまんまるお月様を見上げながら、いーちゃんは私の隣に腰かける。ペンキのはげかけた白いベンチに座って、私は本を読みながらバスが来るのを待っていた。

「なに読んでたの?」

「教科書」

 私が表紙を見せると、いーちゃんは「勉強熱心だね」とたれ目をさらにゆるめながら笑う。その本をバッグにしまい、私は月下美人の隣に置いた。

「いーちゃん、進学したの? 就職したの?」

 隣に座る彼は、私服だった。ついこの間まで学ランだったというのに、いまは髪まで明るく染めている。それは私も一緒で、スクールバッグなんてもう持ち歩かない。リボンのコサージュのついたバッグに、テキストを入れて持ち歩いていた。

「大学に進学したよ。そういや、言ってなかったっけ」

 ジーンズのポケットから煙草を取り出し、いーちゃんは慣れた手つきで火をつける。月明りにぼんやりと照らされていた私たちの間で、ライターの鮮やかな炎が一瞬だけ彼の顔を赤く染めた。

「これから就活はじまるっていうのに、髪の色まだ戻してないんだよね。なんかこう、まだ大学生でいたいっていうか」

 深く吸い込んだ煙草の煙を、いーちゃんは月に向けて細く長く吐き出していく。紫煙をくゆらせるその横顔に思わず注意しそうになって、けれど私たちはもうお酒もたばこも解禁されていたことを思い出して口をつぐんだ。

「……もしかして、もう国家試験の勉強してる?」

「うん。よくわかったね」

「いや、なんか顔色悪いし、あんま寝てないのかなと思って」

 外灯もないバス停だから、油断していた。夜目がきくいーちゃんは、私の目の下の色濃いクマに気づいていたのだ。

「これは、勉強のせいじゃないよ。まだそんなに根つめてやってないし」

「バイトかなにかしてるの?」

「ううん」

 首を振って、私は煙草の煙につられるように顔をあげる。いまにも降りそそいできそうなほど近くにあった星空が、煙草の煙から逃げるように遠くに行ってしまっているような気がする。はたしていーちゃんはそれに気づいているのか、吐き出した煙が私にかからないように気を付けながら煙を吐き出していた。

「いーちゃん、聞いて」

「なに?」

「私、失恋しちゃった」

 いーちゃんの手を握りながら、私は言った。

「また?」

「うん、また」

 つないだ手を、いーちゃんは握り返してくれる。小学校の時、ランドセルを背負いながらいつもこうしていた。あのころはお互いたいして変わらない大きさだったのに、いま私を包み込んでくれる手のひらはとても大きかった。

「同じ学校の人?」

「違う。合コンで知り合ったの」

「看護学校って、バイトする時間もないくらい忙しいんじゃなかった?」

 煙を気にするのも忘れて、いーちゃんが盛大に息を吐きながら私を見る。一瞬、視界にもやがかかって、その向こうにいる彼に私は苦笑いを浮かべた。

「別れの原因は?」

「好きな人ができたって言われたの。あっちも大学生だったし、同じサークルの子のことが好きになったんだって」

「じゃあ、めーちゃんと別れてその子とつきあうってこと?」

「……そもそも、私と別れてからってちゃんと順序踏んでるかも微妙だけどね」

 彼と出会ったのは、看護学校に入って半年ほどたったころだと思う。学校が違うぶんこまめに連絡をしたり、お互い試験で忙しいときは励ましあったり、休みの日は当たり前のようにデートをしたり、そんなごくごく普通の恋愛をしていると思っていた。

 彼の口からよく聞いていた、大学での同級生たちの恋愛のあれこれ。そのほとんどがこじれにこじれたものばかりで、彼はよくその相談に乗ってあげてはあとで私に愚痴をこぼしていた。

 そして愚痴をこぼしていたはずの彼もまた、その相談内容によくよく似たことを、私が知らないところでしていたのだった。

「……大学生の恋愛って、どうしてすぐ泥沼化するのかな」

「だって、少し前まではみんな高校生だったんだから。しかたないことだよ」

 いーちゃんの言葉が的を射ていて、私は思わず「そっか」とうなずいてしまった。

 大学生といっても、みんなまだまだ子供。そんなにすぐ大人になれるわけでもなく、でもなんだか大人になったようなつもりになって。なんでもかんでも知り尽くした顔で、薄っぺらいままごとを繰り返しては恋愛を悟ったような気になっていた。

 私と彼は違うと思っていたけど、結局は同じだったのかもしれない。

「私はただ、俺の彼女だって連れて歩ける存在として必要だっただけなのかな……」

 そして私も、彼のことをそう思っていたのかもしれない。

 ただ、恋人という甘い響きが心地よくて。学校のことや試験のこと、そんなたわいもないメールでお互いを分かり合っていたような気になって。でも実際は相手の心が離れていっていることにまったく気付いていなかった。

 気づくほど深く、相手のことを求めていなかったのかもしれない。

 そんなことを考えるうちに、眠れない日が続いていた。大事な試験が近づいてきているというのに、勉強しながらも頭半分で考えてしまう自分がいた。

「……でも、めーちゃんはその人のこと、ちゃんと好きだったんでしょ?」

「うん」

「どんなところが好きだったの?」

「優しいところ」

 明るいところ、気配りができるところ、話が面白いところ。それから、笑うとかわいいところ。指折り数えながら、私は彼と過ごした日々をひとつひとつ反芻してみた。

「……めーちゃん?」

 そして、目頭が熱くなるのを感じて、私はいーちゃんに見られないよううつむいた。

「ごめん、いーちゃん。目から汗が」

「いいよ、そんなうそつかなくて」

 彼と別れたあと、ひとりでさんざん泣いたはずなのに。もう枯れてしまっていたと思っていた目から、また涙があふれてきてしまっていた。

「いーちゃんの前では泣かないって決めてたのに」

「泣いていいよ。むしろ、ひとりで泣かれるほうがいやだから」

 煙草をくわえたまま、いーちゃんが私の頬を伝う涙を拭ってくれる。そして最後の紫煙を吐き出し、吸殻を地面に踏みつけて消すと、彼はそっと私の頭に手を伸ばした。

「涙はさ、ひとりで流しても行き場がなくなってまた戻ってくるから。誰かに受け止めてもらって、吸い取ってもらうのが一番いいよ」

「いーちゃん……」

「思いっきり、泣きな。泣きやむまで、一緒にいるから」

 その言葉に、私は遠慮なく声をあげて泣いた。

「めーちゃんに、好きな人ができてよかったよ」

 そして彼は、甘えるように胸に顔をうずめる私の耳元でささやいた。

「大丈夫、めーちゃん。きっとまた、好きになれる人があらわれるから」

 煙草のにおいに包まれながら、私は彼の声に小さくうなずく。砂利道を走るバスの音が聞こえてきて、もう行かなければと涙を拭いた。

「……じゃあね、いーちゃん」

「うん、また、夢で逢おう」

 バスに乗り込む私に向かって、いーちゃんがにこやかに手をふってくれた。



 ――月下美人の咲く夜に、夢で逢おうと彼は言った。



「めーちゃん、こんばんは」

 懐かしい声がして、私は読んでいた本から顔をあげた。

「いーちゃん、久しぶり」

 夜空にぽっかりと浮かぶまんまるお月様を見上げながら、いーちゃんは私の隣に腰かける。ペンキのはげかけた白いベンチに座って、私は本を読みながらバスが来るのを待っていた。

「なに読んでたの?」

「教科書」

「なつかしいね、それ」

 私はいつも、このベンチの上で同じ教科書を読んでいた。中学校の時に使っていた、国語の教科書。それは私といーちゃんが同じ教室で開いた最後の本だった。

「おもしろい?」

「何回も読んでるけど、やっぱりよくわかんない」

 教科書を閉じて、私は鞄の中にしまう。財布と化粧ポーチがはいればいいくらいの小さなショルダーバッグは、教科書を入れると蓋がうまく閉まらなくて、ベンチの背もたれにかけて月下美人と一緒に夜風に揺られていた。

「今日のめーちゃんはてっきり、ナース服着てくると思ったのに」

「白衣なんて着るのは職場にいるときだけよ。通勤は普通の服に決まってるじゃない」

 バス停を指さそうとして、私は伸ばしかけた指先を握りしめる。あちこちさびの浮いた『月見ヶ丘』のバス停。このバス停を、私はもう何年も利用していなかった。

 看護学校に通うときから、私は家を出た。いまはもう自分の車があるから、仕事もそれで通っている。こうして当たり前のようにベンチに腰掛けている自分と、隣にいーちゃんがいるのは中学生の時までのことだったのに、こうしていまの自分の姿で二人並んでいられることがなんだかとても不思議だった。

「いーちゃんはいつも、その格好で通勤してるのね」

「僕も無事、立派な社会人になりました」

 そうおどけて言ってみせながら、いーちゃんはきっちりしめていたネクタイをゆるめてボタンを外す。グレーのスーツを着こなした彼は、髪の色も黒く戻り、すっきりと清潔感のある姿をしていた。

 ただし、横顔にひげの剃り残しがあることに彼は気づいていない。いーちゃんにひげがある。それが白衣の話よりもスーツよりもネクタイよりも、私たちが大人になったんだということを物語っていた。

「なんの仕事してるの?」

「ただの営業だよ」

 スーツのポケットから煙草を取り出そうとして、いーちゃんはすこし考えたそぶりを見せる。そして、その手で私の手を握ってくれた。

「いーちゃん、聞いて」

「なに?」

「私、失恋しちゃった」

 いーちゃんの手を握りかえしながら、私は言った。

「……今回は、どんないきさつ?」

「結婚しようって話になってたんだけど、だめになっちゃった」

 彼が握ってくれる手には、ついこの間まで指輪がはめてあった。左手ではなく、右手の薬指にはめていたペアリング。そのペアリングを外して新しく私の手にやってくるはずだった婚約指輪は、はたしてもう準備してあったのかそれとも作られていなかったのか知らないまま、私は別れの道を選ぶことになった。

「……結婚、か」

 呟きながら、いーちゃんは空を見上げる。相変わらずの、雲一つない星空。満月のせいでその輝きはすこし薄れているけれど、いまにもこぼれ落ちてきそうなほどに私たちの近くにあった。

「どんな人だったの?」

「優しい人だったよ。明るくて話が面白くて、気配りができて、笑うとたれ目と八重歯がかわいかったの」

「同じ職場の人?」

「ううん、うちの病院に入院してた患者さん」

 ありがちな話に、いーちゃんが苦笑まじりに息をついた。

「交通事故で運び込まれて、一時は意識が戻らなくて危なかったんだよね。それでもどうにか持ちこたえて、リハビリとか頑張ってるのに接してるうちに親しくなったんだ」

 そして、彼が退院するときに付き合うことになった。彼はリハビリの甲斐あって、いまはもう何も不自由のない生活を送ることができている。毎日きっちりスーツを着て会社に出勤して、仕事が終われば趣味のフットサルに出かけるような活発な人だった。

「事故で運ばれてきたときに、絶対この人のことを助けなきゃって思ったの。実際、私になにかできたわけじゃないけど、でもなんだか他人のように思えなくて。なんだかついいろいろかまっちゃったんだよね」

 付き合うようになってさらに彼と深く関わっていくうちに、この人となら結婚してもいいと思った。彼の口からも将来の話が出るようになって、いつまでも一緒にいるのだと当たり前のように思っていた。

 でも、違った。

「私とは結婚できないって、はっきり言われちゃったの。一生、一緒にはいられないって」

「……どうして?」

「私が彼のことをちゃんと見てなかったから」

 いーちゃんの手をぎゅっと握りしめ、私は彼の横顔を見つめた。

「私、彼をいーちゃんのかわりにしてたから」

 ゆるゆると、いーちゃんがこちらを見る。そのたれ目の瞳が月明りに揺れて、彼は声にならない声をあげながらうなだれてしまった。

「ずっとずっと、私、いーちゃんのかわりを探してた。いーちゃんみたいな人を探してた。ずっとずっと、一緒にいてくれるいーちゃんを探してた」

 高校の時に好きになった同級生も、看護学校の時に付き合った彼も、結婚すると思っていた彼も。好きになった理由は、どれも一緒だった。

 いーちゃんに似ているから。だから私は、その人たちのことを好きになった。

「でも、みんな、いーちゃんじゃなかった」

「めーちゃん……」

 うなだれたまま、いーちゃんがつぶやく。力なくかぶりをふりながら、月明りを拒むように目を閉じた。

 君とは結婚できない。私は、そう言われて当然だった。彼はずっと私のことを見ていてくれたのに、私は彼を見ているようでまったく見ていなかったのだから。

 病院での懸命な看護も、退院してからも一心に降りそそいでいた愛情も、すべて自分に向けられていたものではないと気づいた時。彼はとても傷ついたのだと思う。そしてそれを私に教えてくれながら、自分がしていたことにまったく気づかずに偽りの愛をささげていた私に現実を見せてくれたのだった。

 私はずっと、いーちゃんの面影を追い続けていただけだった。

「ごめん、また目から汗が」

 こらえきれず、私の目からしずくがこぼれる。いーちゃんがそれをぬぐってくれることはなく、私はただただ自分の脚の上にぽたぽたとしずくを落とし続けた。

「……またいつか、めーちゃんが好きになれる人があらわれるよ」

「そんなの絶対、ない。私はずっとずっと、いーちゃんのことだけが好きだよ」

「僕のことはもう、忘れないと」

「じゃあなんで、こうやって夢に逢いに来るのよ……!」

 あふれる涙を流したまま、私はいーちゃんの胸に顔をうずめる。熱い胸板だった。でもいーちゃんは、私のことを抱きしめてはくれなかった。

 声をあげて、私は泣いた。それでも決して、彼は私を受け止めてくれなかった。

 この手を、もう二度と離したくない。ずっとずっと、つないでいたい。彼の身体にしがみついたまま離れたくない。

 泣きじゃくる私の身体の動きが伝わって、ベンチにかけてあったショルダーバッグが地面に落ちる。中身がこぼれる音がして、ふいにいーちゃんが私の手を離した。

 そしてそのまま、私の身体を押しのけ立ち上がる。地面に落ちたバッグを拾い、こぼれ出た教科書についた泥を丁寧に拭ってくれた。

 すっかり開き癖のついてしまった教科書。そのページには、夏目漱石の『夢十夜』が載っていた。

 夢の中。もう死にますと言った彼女が、主人公の私にまた逢いにきますと約束する話。中学校の時に読んでもまったく意味のわからなかった話は、いまもあいかわらず意味のわからない話のままだった。

「めーちゃんに、好きな人ができてよかった」

 教科書を差し出してくれながら、いーちゃんが静かに笑う。月明りを浴びたその姿は、いつの間にか色を失い、硝子細工のように透きとおりはじめていた。

「大丈夫、めーちゃん。きっとまた、好きになれる人があらわれるから」

「……その人もまた、いーちゃんに似てる人だったら?」

 そしてまた、同じことを繰り返してしまったら?

「そうしたらまた、こうやって、夢に逢いに来るから」

 私が教科書を受け取ったのを確認して、いーちゃんは手を離す。その指先はいまにも消えてしまいそうで、そして彼が浮かべた笑みもまたとても儚げだった。

「僕はもう、夢の中でしか、めーちゃんのそばにいてあげられないから」

 遠くから、エンジンの音が聞こえてくる。 私は目じりに残っていた涙を拭って、ベンチから立ち上がりバスが来るのを待った。

「夢から醒めても、いーちゃんと一緒にいられたらいいのに」

「……それは、できない」

 力なく笑って、彼は言った。

「僕はもう、死んだんだから」



 ――月下美人の咲く夜に、もう死にましたと彼は言った。


 

「めーちゃん、こんばんは」

 懐かしい声がして、私は読んでいた本から顔をあげた。

「いーちゃん、久しぶり」

 夜空にぽっかりと浮かぶまんまるお月様を見上げながら、いーちゃんは私の隣に腰かける。ペンキのはげかけた白いベンチに座って、私は本を読みながらバスが来るのを待っていた。

「まだ持ってたんだ、その教科書」

 私はいつも、このベンチの上で同じ本を読んでいた。中学校の時に使っていたその古い教科書を、私は膝の上に置く。いーちゃんが手を握ってくれて、その手のひらの感触に私はそっと息をついた。

「いーちゃん、聞いて」

「また失恋したの?」

「うん」

「今度はどんな人?」

「小さいころからずっと一緒にいた、大事なひと」

 彼の手を握りかえしながら、私は言った。

「いま、私のとなりにいるひと」

 中学校の卒業が間近に迫ったある日。いーーちゃんは車にはねられて死んだ。

 朝寝坊をしてあわてて走ってきて、このバス停にもうバスが来てしまっていることに気づいて。横断歩道もない道路を渡ろうとして、そしてブレーキが間に合わなかった乗用車にひかれてしまった。

 頭を打ち、道路の上で血を流しながら横たわっていたいーちゃんを見ても、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。ほぼ即死の状態だったとあとから教えられはしたけれど、自分にすこしでもなにかできることがあったのではないだろうかと、ずっと思い続けてしまう自分がいまここにいる。

 いーちゃんは、憧れの高校の制服を着ることのないまま、この世を去った。

「ずっと、忘れられなかったひとなの。ずっとずっと、好きでいることをやめられなかったひとなの」

 あのとき、あんなことさえ起きなければ。私はいまも、いーちゃんと一緒にいることができたかもしれない。お互い別々の道を歩みながらも、ずっとつながり続けて、最後は一緒になれたかもしれない。

 でももうそれは、決して叶わない夢だった。

「ずっと忘れられなくて、泣いてばっかりの私のことを心配して。私が失恋するたびに、夢の中に逢いに来てくれるひとなの」 

 ある時は学ランを着た姿で。ある時は大学生の姿で。ある時は大人の姿で。止まってしまった時のままではなく、私と同じだけの時を過ごした姿で、いーちゃんはいつも私に逢いにきてくれていた。

 夢の中。この月見ヶ丘のバス停で。

「……それが、その人のためにならないってわかってたのに。私、わがままだよね」

 この手を、離さなければならない。わかっているのに、私はずっと、離すことができなかった。

「百年待ったら、また一緒にいられる日がくるんじゃないかって。ずっとそう思ってたの」

 膝の上に乗せた教科書に視線を落として、私は小さなため息をつく。そっと手で撫でたその表紙は、いーちゃんと最後に受けた授業のことを思い出させてくれる。

 夢の中の不思議なお話を。

「百年待ったら、また、いーちゃんに逢えると思ったの」

 夢の中。これから死を迎える女性が、それを看取る男性に、また逢いにきますと約束をする話。

 百年待ってくださいと、必ず逢いに来ますからと、その物語の女性が言った言葉を私はずっとずっと覚えていた。

 この、月見ヶ丘のバス停で。バスが来るのを待って、百年を数えたら。またいつか、夢が醒めてもいーちゃんに逢えるのではないかと思っていた。

 だから私はずっと、このバス停で、毎夜毎夜、百年が来るのを待ち続けていた。

「そんな夢みたいなこと、起こるわけないのにね」

 今日、この夢から醒めたら。私はもう二度と、同じ夢を見なくなるだろう。

「ようやく私、この失恋、受け止められるようになったよ」

 はたして、これは失恋というのだろうか。たしかに恋は失ったけれど、他のとは違う。ずっとずっと昔に無理やり失わざるを得なかった恋に、ようやく顔を背けずに向き合うことができるようになったのだった。

「いーちゃん、聞いて」

「……なに?」

「私、結婚するの」

 教科書に乗せた私の手には、小さなダイヤモンドのついた指輪がはめてある。

「明日、結婚式なんだ」

 左手の薬指で光るそれをまじまじと見つめ、いーちゃんは何も言わずに空を仰ぐ。夜空で輝く星たちに比べたら、私の指にあるのはとてもちっぽけだ。それでも、私たちの間にはまぶしすぎるものだった。

「どんな人?」

「優しい人だよ」

「明るくて話が面白くて、気配りができて、笑うとたれ目と八重歯がかわいいひと?」

「ううん、違う。明るくて話は面白いけど、ちょっとドジで忘れっぽくて、私が守ってあげなきゃだめだなって思う人」

 たれ目でもないし八重歯もない。いーちゃんの面影をどこにも残さない、でもずっと前から知っていたような、一緒にいると落ち着ける人だった。

「いままで、ありがとう」

 つなぐ手に力をこめ、私はいーちゃんとともに夜空を見上げ続ける。視界がうるんで、星がうまく見えない。また目から汗がこぼれそうになるのを、私はすんでのところでこらえ続けた。

「じゃあもう、僕は安心していいんだね」

「うん」

「夢見ヶ丘に、逢いに来なくていいんだね」

「……うん」

 この夢から醒ましてくれる人と、私はようやく出逢うことができたはずなのに。いざ彼の顔を見たら、こみあげてくるものをおさえることができなかった。

 それに、いーちゃんは気づかないふりをしてくれた。

 これから私と一生をともにする人のことは、ちゃんと好き。とても、大切な人。彼といーちゃんは別の人で、彼にいーちゃんの面影を重ねていることは決してなかった。

 けれど。私はきっと、一生、いーちゃんを好きな気持ちを忘れることはないだろう。

 忘れることなんてできない。無理に忘れようとすれば、もっともっと、深く自分の心に刻まれてしまう。

 私はずっと、この胸に、月下美人を抱き続ける。夜が明けるまでの、わずかなときしか咲かすことのできない花を。一夜だけ、心の中でそっと、この想いが花開いてくれればそれでいい。

 無理に枯らさなくていい。忘れようとしなくていい。それにようやく、私は気づくことができたのだった。

「いーちゃん、元気でね」

 だからこそこうして、私はいーちゃんに別れの言葉を告げることができるようになったのだった。

 遠くから、エンジンの音が聞こえてくる。私は目じりに残っていた涙をぬぐい、いーちゃんの手を引いてベンチから立ち上がった。

 今夜のいーちゃんは、小さかった。

 私はずっと、いーちゃんより背が高いままだった。高校に進学して、看護学校にも通った。看護師になって、働くようになって、着実に歳をとって大人になっていた。

 けれど、いーちゃんは変わらず、中学生のままだった。

 高校の学ランを着た彼も、髪を明るく染めた彼も、ネクタイを締めているのに髭を剃り残していた彼も。いまはもう、どこにもいない。私の目の前にいる彼は、最後に見たときの姿のまま。中学校の制服を着て、あどけなさを残す面立ちで、じっと私を見上げていた。

「これはもう、いーちゃんにあげるね」

 膝の上からすべり落ちた教科書を、私は彼に手渡す。するとその教科書は、いーちゃんの指先に吸い込まれるように消えていった。

 運転手の姿の見えないバスが、でこぼこ道を走りながら近づいてくる。誰も乗客のいないバスは、私たちの姿に気づくと、バス停にとまり嬉しそうに扉を開いた。

「今度は、私が逢いに行く番だから。待っててね、いーちゃん」

 私が二度と醒めることのない眠りに落ちるのは、ずっとずっと先の話。それまで、私はもうこのバス停を訪れることはないだろう。

「また逢えたら、今度はずっと一緒にいようね」

 それまで、しばらくのお別れ。

「百年後に、また逢おうね」

 握手をするように、私たちは強く手を握る。そしてつないでいた手を離し、私はバスのステップをのぼった。

「……(めぐみ)

 ふいに、いーちゃんが私の名前を呼んだ。

「僕は、百年なんて待てないよ」

「……え?」

 私が振り向くよりも早く、バスの扉が閉まった。



 ――月下美人の咲く夜に、また逢いに行くよと彼は言った。


 

 夢見ヶ丘の夢を、すっかり見なくなって久しいころ。満月の夜に、私はひとつの月下美人を咲かせた。

 その月下美人は、大きなおおきな産声をあげながら、小さなちいさなかけがえのない命の姿で、私の腕の中に抱かれていた。

 手のひらに指を乗せると、ぎゅっと握り返してくれるその姿に。

『百年』はもう来ていたんだなと、私はようやく気がついた。



 

               END


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― 新着の感想 ―
[一言] 地球の星です。 また先生の作品を読ませていただきました。 最初はいくつになっても変わらないものがあるっていいなと思いながら読んでいましたが、途中から衝撃的な展開になったことには驚きました。…
[良い点] 主人公の心がとても丁寧に書かれていて、いーくんを想う気持ちが痛いほどに伝わってきました。 [気になる点] 少しずつ大人になっていく二人ですが、内容が繰り返し繰り返しになってしまっているので…
感想一覧
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