スピン
よく映画や小説や漫画とかで、番外的な、本編の前の出来事なんかを綴った話を『スピンオフ』と言う。テレビなんかでは、番組の副産物的なものを指したりする、らしい。
副産物────強ち間違った解釈ではない、と思う。こう言った意味で、確かに“あの”交際は副産物。
つまり、スピンオフだった。
私たちが紡いだ日々は。
これは私と、彼が織り成した、誰かと彼の関係の、スピンオフだ。
「あっつ!」
「あー、暑い。確かに暑い。だって夏だから」
「……じゃあ、肩抱くのやめてよ」
大学の構外を歩いていた。敷地内だけど、外だから、構外。間違ってないでしょ?
暑くて触れられてるのが嫌そうな私に、彼が笑った。彼はよく笑う人だった。多少軽そうで、明るい、ちょっとお調子者の彼は、同じ大学の理工学部だった。何とかって言う技術を学んでいるとか……文学部の私には理解の難しい勉強をしていた。
けれど彼は言った。「俺も文系ですからねぇ。理解追い付かなくて大変」……あれ、と思った。
同期生の彼は私の一つ上なのだと言う。とすれば彼は浪人したのだ。
文学は大したことのないこの大学は、理工学では結構有名で、そして理工学で入学するには難関、難所とされている。今でも。
なのに、彼はわざわざこんな難しいところを、不得手で在りながら選んだのだった。
理由は、「ここでしか学べない技術や取得出来ない資格が在るから」。
この時点で嫌な予感はしていて、でも私はすでに彼が好きで。彼は前の彼女と別れたばかりで。ゆえに何の、そりゃあ時期が早くて元カノには悪いけど、何の障害も無く私たちは付き合いだした。
ばかみたいだったよね、よく考えたら。あなたの上の空は、出会ったとき、あなたが私を見たときから存在していた事象であったのに。
夏だから、花火を見に行こうと誘った。河川敷で行われる花火は人気で、下手をすれば人混みに飲まれてしまうけど、それも楽しい気がした。
彼と、手を繋げば。
彼は一瞬ふっと遠くに視線をやってから次いで「良いよ」、と笑った。本当に、彼はよく笑った。
今思えば、痛ましいくらいに。
「凄い人」
目の前は、この地を埋め尽くさんと躍起になっているかのような、人、人、人。正直、然程背の低くない私には溢れる頭が視角で模様を作っている。
茶色い頭、黒い頭、時折混じるカラフルな頭、長い髪短い髪……。
酔いそうな人間マーブルに気を取られていると、誰かの手が触れた。
「ぼーっとして。はぐれちゃうよ?」
彼だった。男の人特有の硬い手のひらが私を掴まえた。柔らかい瞳が、やさしい笑みに添えられてあたたかかった。
「さすが都会。人すんげーね」
「うん」
彼は上京組で、田舎の小さな町から来たのだ。小さな町もきれいな空に花火が上がったそうだが、彼は自分の田舎に帰ることもせず、常に大学の在るこの街にとどまった。
なぜか、訊いたことがそう言えば無かった気がする。これはやはり予感が在ったからだろうか。
終わってしまう、予感が。
「……どうしたん?」
「はぐれないようによ」
「そっか」
私は彼の手を握った。力を、ほんの少し、込めて。花火はきれいだった。だけど、私の杞憂であってほしい違和感を打ち消すことは出来なかった。
終わりは、やっぱり来たのだ。
「ごめん」
「うん」
「好きだったんだ。ちゃんと。好きだったんだ、けど……」
“けど”?
“けど”、なぁに。
彼と私、二人だけ部屋。彼の、下宿先。下宿と言っても完全な孤立型、古い共同アパートメントを少し改造したところだった。
「ごめん」
彼が頭を抱えてる。知ってる。泣いていた。
ねぇ、眼鏡、見えなくなってるんじゃない?
伏せた顔から、雫が落ちてしまっているでしょう。
「ごめん」
「うん」
「好きだったんだよ……いっしょに、いられるって思ってた、でも……
忘れられなかったんだ、
どうしても」
「うん、……知ってたよ」
私は笑った。今は泣いている彼の代わりに。
知ってたよ。最初にいっしょに眠った夜、あなたは私を呼ばなかった。
“───”
あなたは私じゃない誰かの名を口にした。
苦しそうな表情で。寝顔なのに。魘されては、いなかったのに。
彼がはっと顔を上げた。彼は知らない。
さっき、料理する私の背へ、彼が間違えて掛けてしまった誰かの名前を。
もう何度も、その謝る唇が、放っていた事実。
「知ってたから」
涙に濡らす彼を笑いながら見詰めた。
皮肉なことに、笑う以外の彼を初めて眼にしたのだった。終わりの、このときに。
「知ってたから……もう良いよ」
仕方ないなぁ、と、思った。
投げたんじゃない。すきだから。
泣いていて、ほしくないだけだ。
私たちは、彼と誰かの関係の副産物に過ぎなかった。
なので、仕方ないのだ。
私は、そうであっても、彼がすきだから。
彼と誰かは好きなまま、「さよなら」したんだって。実は前カノさんから聴いていた。
付き合うなら覚悟しておけ、とも。
前カノさんは、彼が何か言う前に、耐えられなくて別れてしまったらしい。
だから応援しているよ、と、言ってくれたのに。
結局私も駄目だった。
付き合ってから、私以上に読書家だったことを知ったが、そんな文系な彼が必死に学ぶ技術や知識は、遠くへ行ってしまった誰かのためだった。
要するに、端からお呼びじゃなかったんだ。出会ったころから。
彼の意識に関わらず。
「あっつー……」
私は空を見上げた。隣にいた彼は現在いない。この敷地のどこかにはいるだろうけど。
私と彼は一年足らず、秋に始まり夏に結した。
決着もしない終焉は、意味が無いと先輩に笑われた。
誰かと彼は、先輩が説くには、こう言うモノだったのだろうと。
だけど無意味な経験ではなかったよ。慰められたが、笑えない。
よく在る話。出会い付き合い別れて終わり。
私と彼が紡いだ毎日。
よく在る話─────よく在るスピンオフ。
彼はきちんと前カノさんも私も、好きになってくれたのだろう。
けれどその視界に、忘れられない誰かの外は入られなかった。
それだけ。
たったそれだけ。
夏は、やっとピークを迎える。
【Fin.】