うららかな小さな世界
早いもので、あのクソロリコン野郎に誘拐され…げふんげふん、この屋敷に来てから半月が経った。
メイド達と軽く言葉を交わせる程度には慣れてきたし、最初は全く分からなかった食事の味も分かるようになってきた。そしてすっごい美味しかった。
何百冊もの本をデイビッドさんから貰い、最低限の家具しかなかった部屋の壁はたちまち本棚で埋められた。
あとデイビッドさんは私が廊下の絵画を気にしていたことに気づいていたらしく、キャンバスや絵の具、筆も用意してくれた。
すごい有能な人だなと感心したが、アイツの下にいたらそりゃあ有能にもなるかな、と納得した。
アイツは基本朝昼はずっと部屋で眠り、夜に行動するらしい。
そりゃあ吸血鬼だからなんだろうけど、夜中に徘徊するじいちゃんみたいだと個人的には思った。言わないけど。
「……美味しいです、この紅茶」
「フォートナム・メイソンの最高級の茶葉です。ケーキもございますよ、御嬢様」
「ありがとうございます」
良い天気の午後三時。
昼からずっと絵を描き続けていたが、お茶の時間のため中断した。
お茶を持ってきてくれたのは、私が来た日から専属になったメイド、マリアさんだ。
ふわふわの金髪がトレードマークのメイドで、おやつのケーキなどはこの人が作ってくれることが多い。
この人のケーキは文句なしに美味しい。
今日のケーキはリンゴのコンポートをのせた紅茶のシフォンケーキだ。
リンゴが蕩けるくらい柔らかい。実に美味である。
「マリアさん、あの、今度これの作り方教えてくれませんか?」
「!はっ、はい!喜んで」
マリアさんは行動一つ一つが小動物の様でとても可愛らしい。
白い頬をほんのりと紅くしてにこにこと笑うものだから、こちらまで頬が緩む。
すると彼女は、今度はこちらを凝視してきた。
「…あ、御嬢様」
「?どうしました?」
「いえ、漸く御嬢様の笑顔を拝見できたと思いまして。ずっとお顔が石のようでしたもの」
「そ、そうですか?」
「ええ」
い、石のようだなんて初めて言われた。
そんなに無表情を貫いていたつもりはないのだけれど。
緊張がずっと表情に現れていたのかもしれない。
「…ずっと、余裕がなかったからかもしれません」
「?余裕、ですか?」
「心の余裕、というか。あの家にいた時はとにかく憑りつかれた様に勉強してて、おやつや庭を眺めてる暇があるなら勉強って感じで。楽しみはありませんでしたし」
両親にとにかく認めてもらいたくて、必死に頑張っていた頃を思い出す。
交友関係だって勉強には関係ないとそこまで広げず、勉強に少しでも役立てるために図書館の本を片っ端から借りて読み漁った。
日本の源氏物語や枕草子も読破した。
余計な事を考えずに済むように、可能性が広がる前に全部断ち切ってきた。
全部全部、両親に認めてもらうために。
でも、ある日突然糸が切れてしまった。
母親からただ一言、浴びせられたただ一言が私の努力を、神への祈りを全て無駄にした。
「だから、初めて勉強から解放されて、両親から解放されて、見ようとしなかったものを見る事で、心に余裕ができたのかもしれません」
「…なんだか、晩年のおばあさんみたいですね、御嬢様」
「頭が固いもので」
ケーキを食べ終えて紅茶を口に含む。
紅茶もケーキもこんなに美味しいなんて今まで知らなかった。
今まで料理の味が分からなかったのも、料理の味を理解しようともしていなかったからなんだろう。
絵を描くのが好きなくせに、ものの美しさも醜さも理解しようとも思わなかった。
「これは綺麗なものなんだ、って先入観だけで捉えて本質は見ていない。今思えば馬鹿らしいですね」
「…それは…ある意味、とても極端な考え方をしていたのでしょうね」
「そう、ですね…そうだったんですね」
紅茶の色も、日に照らされた砂糖のきらめきも、古本の匂いも、今はこんなに愛おしい。
こんなにも世界は綺麗なのだ。
この小さな世界だけで、こんなにも綺麗なものが溢れている。
いつから、だろう。こんなにも綺麗なものに出会えるようになったのは。
いつからだろう。
あの月の綺麗な夜の事だ。
あの時も、ぼんやりと『綺麗な月』を眺めながら夜道を歩いていて、彼と出会った。
彼の艶やかで燦爛とした赤い瞳が怖いほど鮮明に頭に焼き付いている。
「――――――――あ、」
あの時だ。あの瞬間だ。
初めて私が美しいと感じたもの。
「………うわぁ…」
「お、御嬢様?いかがなさいました?」
「いえ…自己嫌悪に陥ってるだけです…」
屈辱的にも程がある。
よりにもよってアイツが初めてだなんて。
あんなロリコンに、あの夜から私は振り回されてばかりだ。それこそ馬鹿らしい!
見目だけだ見目だけ。私は騙されないぞ。
「御嬢様、一人百面相なさってますが…大丈夫ですか?」
「あ、ごめんなさい。ちょっとロリコンに腹を立ててまして」
「もしかして、旦那様の事で?」
「あ、ロリコンで通じちゃった」
いいのか旦那様、ロリコン認定されちゃってますよ。ざまぁ。
マリアさんは失態に気づいたのか慌てて私に内緒にするように頼み込んできた。
内緒ね、ないしょ。
「そういえば御嬢様は、旦那様に連れられてきたのですよね?」
「連れられてきたというより完全に誘拐されてきましたけどね」
「メイド達の間でも、割とこの話題で持ちきりなんですよ。如何せん旦那様が個人に執着するなんて極めて稀ですから」
それらしいこと何か数日前にデイビッドさんも言ってたな。
しみじみと言ってたから、本当に余程のことなんだろう。
そこまで人に興味を持たないのか、人と関わりたがらないのか。向こうから近づいてくるような人柄でもないし。顔は分からないけど。
「なんで、私なんだろう。私よりいい人なんて、その辺にでも腐るほどいるだろうに」
紅茶の水面に映りこんだ私の顔をぼんやりと眺める。
同じクラスの女の子、学校の先生、クラスメイトの母親、テレビに映っている女優、私よりすごい女の人なんて星の数ほど。
するとマリアさんがおもむろに口を開いた。
「……私は、御嬢様でなくてはならなかったと思います」
「……?どうしてです?」
「あの旦那様が御傍に置くと決められたのですから。御嬢様でなくてはならない、理由があるのでしょう」
…そんな真剣そうな理由が?
本当に?何か腑に落ちないけど。
そんなに彼は人間と関わりたがらなかったのだろうか。
人間が嫌いとか?
「…そうなんでしょうか、ね」
あの吸血鬼が一体何を考えているのか。
あの男は私を食べる気はないと言った。そんなのは豚のすることだと言い切った。
ではなぜ、私を絡め取ろうとするのか。
―――――――私が欲しいと、あの吸血鬼は確かに言った。
あの熱っぽい囁きは今でも鮮明に覚えている。
(あなたにとって、私は何なの?)
今それを問うたとて、きっと今の私には理解できないのだろう。
彼の事を何も知らない私では。
私の手は、無意識に十字架を握りしめていた。