きみがただいまを覚えたら
あの声がした。
森中からシュプレヒコールのように、共鳴するが如くその声は謳う。
キチチチ、と一匹の蝙蝠が私の傍を掠めた。
蝙蝠が一匹、二匹、十匹、百、千、万。
それらから生まれた黒い海が私と化け物の間で渦巻き、唸り、体を形作っていく。
その異様な光景に、寒気さえ覚えた。
最後の一匹が髪の末端を作り出し、ようやくそれは全体像を表す。
「ダル、ヴ」
「時間切れだ、お嬢さん。まったく実に素晴らしい、美しい。言葉一つでこんなに興奮したのは五百余年ぶりだ」
黒い霧のようなコートを纏い、蝙蝠を従がえ笑うその様は、『吸血鬼』そのものだった。
化け物は先程のブチ切れっぷりはどこへやら、腰を抜かして後ずさりしている。
そんな男を無情にも彼の影が捉えた。
「屍喰鬼如きが調子に乗るなよ、小僧。気張れよ?」
「ひぃ……ッ!」
「情けない声をあげるな見苦しい、豚は豚らしく命乞いをしろ。ほら、」
長い足が男の頭を情け容赦なく踏みつける。男の頭蓋骨がメリメリと悲鳴を上げているのがわかった。
土に顔がめり込み、くぐもった悲鳴があがる。
ダルヴはそのまま私の手から短剣を持っていくと、その男の腕に短剣を突き刺した。
「ぃぎゃぁあああぁああああぁぁぁぁあぁああッッ!!!!!あぁああああああぁぁあ……!!」
「醜い悲鳴だ。実に品のない。豚は豚らしく、と言ったはずだが?小僧」
「あぁあぁああああ、あ゛ッ、あっぁぁぁぁあああぁ…………」
「銀の短剣如きでこのざまか、話にもならん。顔面のざまも十字架だな?」
ダルヴは短剣を引き抜き、ぬらぬらと光る血をわざと見せつけるように(見えてはいないが)舐めとった。
男の短剣による傷口が煙を上げて焼け焦げているというのに、ダルヴは動じてすらない。
この短剣は十字架と違ってただの銀のようだ。
「啼け。啼け、啼け。私は豚のように命乞いをしろと言ったはずだ。お前に選択肢などないぞ?」
「あがぁぁぁああぁッ!!」
「チッ、聞き覚えの悪い餓鬼だ。聞く気がないなら耳はいらんな?」
何度も何度も頭を蹴りあげ踏みつけ、悶絶する男の耳を引きちぎった。
思わず目を逸らす。だが直後聞こえた絶叫が耳をビリビリと震わせた。
何がおそろしいってこの吸血鬼は、いつものように笑いながらこの行為を行っているのだ。
何も発狂しているわけでもなさそうで、ただ日常の延長線のように相手を甚振っている。
これも正気の範疇だとでもいうのか。それとも常に狂っているのか。
この状況の共有者である私が発狂しそうだ。
「さて、どうしてくれようかこの屍喰鬼は」
小僧から餓鬼に、餓鬼からクソガキにランクアップを果たした哀れな屍喰鬼はもはや虫の息だ。
なんて耐久力だ。哀れみを通り越して感心さえ覚える。
全力で彼の次の一手を考えないようにしている最中、ダルヴは男の頭から足を離し、次は指を踏み抜いた。
男の枯れた喉から悲鳴に成り損なった呻きが漏れる。
さらに逆の指も残さず踏み抜き、ついでとばかりに腕も踏み抜いていく。
「こういう時こそ声を上げろ愚図め。…なんだ、もう力尽きたか?脆さも考えものだ」
男の反応が尽きたことに心底残念がるような表情を浮かべた。
血肉の飛沫がこびり付いた革靴や服を大して気にも留めず、ダルヴは短剣で自らの長い髪を少量切り取ると、男の死体にまぶした。
やがて髪の屑は種火を生み、パチパチと音を立てて男の死体を焼き始めた。
「屍喰鬼の死体は土には還らない。こうして焼くことで跡形もなく消える。他の化物達も大半がそうだ。無論例外はいるが」
土には還れない。
人でいる事をやめた彼らは、生きた死者というこの世の理を捻じ曲げたものは、もう戻ることは許されない。
世界は彼等に振り返らない。
打ち捨てられた彼の死体を、私は灰になるまで眺めていた。
「気は済んだか?お嬢さん」
「………………うん」
灰になった男を見送った。
一帯を包んでいた炎はいつの間にか消えていて、辺りは完全な闇だった。
彼の瞳だけが猫の目のように暗闇の中に浮かび上がっている。
ダルヴが指を鳴らすと、彼の掌の上で蒼い炎が生まれ、辺りを照らした。もう何だか慣れてしまったのであまり驚かない。
さて。
私はこの男から逃げ切れなかった。
ぶっちゃけあの野郎のせいだが、逃げ切れなかったのは事実で結論だ。
私は捕まった。
逃げきれたとて、帰る場所もないし。
「というか、よく分かったね。私がここにいるって事」
「あれだけ騒がれたら嫌でも分かる。屋敷から炎も見えた」
「あ、そっか燃えてたもんね。………ん?待って、ということは火事が起こってた時はまだ屋敷にいたって事!?」
「それ以外に何がある」
私が一日かけて歩いた距離を本当に一瞬で来たって言うのか。
……それって、今日一日の私の苦労がただの文字通り無駄足だったって事?
結論に行きついた私をダルヴは愉快で愉快で仕方がないと言いたげに不遜に笑っていた。
「出口に通じるコースの中で割と体力勝負のコースに出ていたようだが、足がむくんでいるのではないかね?時折足を叩いていたようだが」
「!?屋敷にずっといたんじゃなかったの!?」
「あの程度の距離を視認できないとでも思ったか」
「どんな目してんだ鷹かアンタは」
怒りが緩やかに呆れと疲労に変わっていく。
この男は、私を端から手放す気などなかったのだ。
ただ面白いからという理由で、私が無駄に足掻く様を眺めていたのだ、この吸血鬼は。
どうしてただの小娘の私にここまで固執するのかだとか、どうしてこんなに異形に気持ち悪い対応をされるのかだとか、疑問も聞きたいことも山ほどあるが、今は疲れてしまった。
「…腹が減った。豚共のにおいで鼻が曲がる。帰るぞ、グレートヒェン」
「………、……うん」
もう疲れてしまっていて、何も考えたくない。
でも、彼が『帰るぞ』と私に言った。帰る場所はないと、私はずっとそう思っていたのに。
彼の腕の中に抱き込まれる。
視界があの蝙蝠の黒い海に飲み込まれる。
その隙間から、森の出口を横目で見やった。あんなに近かった出口が、どこかひどく遠い場所に見える。
あそこを出る事は、もうないのだろう。
その事実に未練さえ感じぬまま、私は目を閉じた。