朝のほとりで私は死と対面する
鳥の囀る声がする。
若葉の匂いがする。
あたたかい風が頬を撫ぜた。心地よさを感じながら、私は目を覚ました。
窓辺で駒鳥が囀っている。
ウエディングドレスにでも使用できそうな綿密な黒いレースのカーテンが風になびいている。
反射的に見渡した部屋には黒と真紅の二対のソファ、クリスタルのテーブル。
見上げた天井には黒と赤とクリスタルの宝石で彩られたシャンデリア。
そして私が寝ていたのはもはや値段も考えたくないキングサイズの天蓋付きベッド。
豪華だが、派手さは感じられない。むしろ上品ささえ漂う、数世紀昔の王宮の一室のような部屋だった。
(いや、どこだよここ)
そうだ、それを忘れてはならない。自分を見失うなマルガレータ、寝起きの頭を回せ。
まず昨夜何があった?
私、確か習い事の帰りに夜道歩いてて…そこからだな。あのあと、何が――――――
『―――――-欲しい、お前が欲しい』
「……!!」
……思い出した。
あの後、私は気を失ったんだ。
何だかんだ言って、あの時の私は相当無理をしていたのだろう。
馬鹿だろ。私。
……ここ、まさか彼の家…?
あまり考えたくない選択肢に嫌な予感を募らせている最中、頭も冴えて完全に起床した完璧なタイミングでドアがノックされた。
心臓が跳ね上がる。思わず体が硬直した。
「御嬢様、お目覚めになられましたか?」
聞こえてきたのは、柔らかな声音の男の声だ。
初老程度だろうか、少し掠れた声は私の緊張を少しほぐした。
深呼吸をし、ドアを見据え、はい、とドアの向こうへ応答する。やがて一拍空け、ドアは開いた。
立っていたのは予想通り、初老の執事服に身を包んだ男性だった。
すらりと高い背をしゃんと伸ばし、柔らかな笑みを浮かべるその姿はスマートに映る。
グレーヘアーをオールバックに纏めているので、少し若々しく映った。
えっと、どうすればいいんだろう。
「お早うございます、御嬢様。私、御嬢様のお世話係を任されました、執事のデイビッドと申します」
「えっ、あ、はい……えっと」
「マルガレータ様ですね?旦那様からお話は伺っておりますよ」
にこりとデイビッドさんは笑いかけてくれるんだけれども、ごめんなさい私には全然笑い事じゃない。
これ完璧に誘拐じゃねえか。
どうしよう笑顔ひきつりそう。
こんなナチュラルに誘拐されたことないわ。
完全に困惑している私を知ってか知らずか、デイビッドさんはメイド達をひき連れて衣服の準備やら朝食の準備やらを始めてしまった。
待って、旦那様ってあれか、あの人か、彼か。
これ誘拐って言った方がいいの?もしかしてコレ周知の事実なの?どうしたらいいんだ。
「御嬢様、お召し替えでございます。こちらへどうぞ」
「えっ!?ちょっ、ま、待って!」
完全にキャパオーバーしてしまった私をメイドさんは数人がかりで部屋の奥の仕切りへと誘導していった。
引っ張り込むと言った方が完全に正しい。
物凄く速やかな動作で衣服を脱がされ、何かもう成るようになってしまえと私は思考放棄した。
「申し訳ありません御嬢様、急な事でしたので御体に合う衣服がまだ数着しか用意できていないのです。更に数十着ご用意させていただきますので、御体の採寸させていただきますね」
数着あれば十分じゃないのか…という言葉を私は黙って呑み込んだ。もう既に採寸が始まっている。なんて手の早い。
そして気が付けば採寸が終了し、すでに用意されていた服を着せられていた。
服ぐらい自分で着れるんだけど。
用意されていた服は、ドレスというには質素で、普段着で着る服にしてはかなり華やかなものだった。
上着も膝下のロングスカートにも白いレースが編まれていて、すごい高そうな服だ。
これを残り数十着…?……いや、やめよう。考えたくない。
「加減はいかがですか?調整はしたのですが、胸周りがややきついかもしれませんね」
「そ、そうですね……」
もうどうにでもなれ。
服を着替えた後は朝食だったが、食欲はあまりなかった。そして味もそんなにわからなかった。
もったいないと思うし申し訳ないとデイビッドさんに謝罪したら、デイビッドさんは笑って大丈夫ですよ、と言ってくれた。
申し訳ない。
その後、私はデイビッドさんに連れられ部屋を出て、屋敷の中の最奥の部屋へと向かった。
屋敷というより、城のような広さだった。
壁にかけられた幾つもの絵画はどれも有名な画家の至高の一品で、絵を描くのが好きな私としては大変気になったが、デイビッドさんを見失うと迷う事は必至なのでチラ見する程度に終わった。
屋敷の奥へ進んでいくほどに薄暗くなり、光も日光によるものから壁のランプの灯りに変わる。
先を行く背中に必死に着いて行くと、廊下の最奥に、ぽつんと一つ、扉があった。
何故かそこへ行くことを、私の中の何かが躊躇った。
でも、行かねばならない気がした。
デイビッドさんと扉の前に立つ。
彼はコンコン、とドアをノックした。
「デイビッドでございます。マルガレータ嬢をお連れいたしました」
返事はない。
もしかして、いない?
…かのように思えたが、部屋の中から微かにコンコン、と指の骨でテーブルをノックする音が聞こえた。
デイビッドさんは私の時のように一拍おいて、扉を開いた。
(……!寒い……?)
春先だというのに部屋の中はかなり冷えていた。
窓はカーテンが掛けられ日の光は殆ど遮られている。高い天井に聳えるように並んだ壁を覆う本棚には数えるのも億劫になる程の膨大な書物が収められていた。
天井には私の部屋と似たデザインのシャンデリア。
部屋の奥にぽつんと存在する椅子とテーブル。
その椅子に、誰かが座っていた。
誰かは音もなく立ち上がり、私をじっと見て、ゆっくりと歩きだした。
革靴の音が嫌に響く。
「……!!」
カーテンの隙間から差し込む僅かな光が、その顔を照らした。
『彼』だった。
光に照らされ、彼の真白い肌が浮かび上がる。
燦爛たる紅玉の瞳が、あの夜のように私を見ていた。
あの夜に私の記憶に焼きついている目だ。
「デイビッド、下がれ」
「かしこまりました、旦那様」
「!?」
待て、この空間に私を置いて行くというのか!?
ちょ、待ってデイビッドさん!
私の心の中の叫び空しく、デイビッドさんは一礼して部屋を出て行ってしまった。
………どうしよう………