神様のいない場所
月の美しい夜だ。
…とはまぁ、しみじみとは思いながらも、実際は真ん丸だなぁ、と思うのが大半だ。
満月というものをあまり意識した事は、そういえばなかった気がする。
だからこそ、不気味なほど丸く美しい月に、惹かれたのかもしれない。
…どうしてこんな柄でもないことを考えていたのかというと、だ。
(………ぜったい誰かついてきてるなコレ)
現在、深夜11時。私は習い事の帰りだ。当然迎えに来るわけない。
だからいつもこうして、深夜に一人で帰宅している。
軽い護身術は習ってるけど、流石に大人相手にまともに戦えるわけがない。
月の光のみが頼りの道、暗闇の果てに気配を感じるのだ。
それも複数。
歩みを進めれば進めるほど、人数が増えてくる気がしてならない。実際増えている。
まったく。こんな初経も来てない幼女に寄って集って何の用だ。ロリコンかお前ら。
しかし立ち止まっては戻れない。だから私は、歩みを止める事もなく振り返ることもなく、ただひたすら歩いている。
走れば向こうは確実にそれ以上の速さで追いかけてくるだろう。
さて、どうしたものか。
(…そろそろしんどいぞこれ)
歩き続け早30分。元々運動神経がそこまでおよろしくない私は早速バテていた。
最早走る気力も体力もない。
更に運が悪いことに、ここ最近近所で猟奇殺人が複数件起きているという事を学校の先生が言っていたことをついさっき思い出した。
標的は女性ばかり。
尚更立ち止まるわけにはいかなくなった。
ピンポイントだったら笑いごとにすらならないぞこれ。
どんどん足音も増えていく。どこから人員増やしてるんだろうあれ。
俯きながら暫く早歩きで頑張っていると、突如突風が吹いた。
「うわ……っ!」
街路樹がしなる程の、一瞬の突風だった。
しかしそれが吹いた直後、あれほど騒がしかった靴音が、ぴたりと止んだ。
子気味のいいほどの音の揃いっぷりに、思わず振り返ろうとしたその瞬間、突然声がした。
『こんばんは、お嬢さん』
正面からだった。
あまりにも至近距離からの声だったものだから思わずぎょっとして勢いよく再び正面を見た。
しかし、誰もいない。
…………いや。誰もいないけど、何かはいる。
朧げな月の光に照らされて辛うじて見える、闇の中で蠢く何か。
正面にもバックにも気配。
あれ?これ詰んでね?
『こんな夜更けに1人で散歩とは、感心しないな』
「……習い事の帰り、なの」
『ほう…?』
耳が蕩けそうになる凄艶な響きの、低い声。
脳がしびれそうになるほどの甘ったるい声だ。あと数年歳とってたら危なかったなこれ。
……ここまで思考に余裕がある。まだ大丈夫だ。
あとなんでか分からないけど後ろのロリコン共もこっちに来ない。ありがたいけどこっちはこっちでさっきより危ない状況かもしれない。
『それはそれは。危ない、変な輩に食べられてしまうかも知れないぞ』
「今現在進行形でロリコンに襲われそうなんだけど」
『!……くくくっ…』
あ、今素が出たな。
辛うじて噛み殺された獣のような獰猛な、唸りに似た笑い声だった。
しかしその声さえ艶めかしく、生々しい。脳が麻痺しそうだった。だが、理性は不思議と保っていられた。
目の前の人ならざるその闇に対して、軽口を叩ける程度には今の私は冷静だ。
もしかしたら、この状況があまりにファンタジーすぎて脳内処理が追いついてなくて逆に冷静になってしまっているのかもしれない。
…まぁ、怖い事に変わりないんだけどね。
『…お嬢さん、美しいお嬢さん。こんな夜に一人でいる悪いお嬢さんは、私が食べてしまうぞ』
「…私は美味しくないよ」
『どうかな。そうかもしれない。だがしかし、後ろの畜生共にくれてやるにはあまりに惜しい』
後ろにいたロリコン共は畜生なのか、と気になって振り返ろうと顔を向けると、ひんやりとしたものが視界を覆った。
真っ暗だ。この闇のような塗りつぶされた黒に視界を奪われる。
『目を開けてはいけない。5秒。5秒経つまで目を開けてはならない。見てはならない』
酷くゆったりとした、子供に言い聞かせるような囁きは、私の体に畳み掛ける。
するり、と艶めかしく私の目からそれは手を離す。
目を開くことが出来ない。開く事は許されない。体が、従順になってしまった。
やがて、もうどれくらい時間が経ったか覚えていないまま、閉じられた私の目に再びそれの指がかかる。
氷のように冷たい指は、私の瞳をしっかりと捉えた。
闇が見える。私の影が見える。
今度こそ、振り返った。振り返ることが出来た。
「――――――――……」
そこに佇んでいたのは、満月を背負った一人の青年だった。
二度と忘れられないような、この世の者とは思えぬ壮絶なまでの美貌。
煙のように靡いている闇に融けた長い黒髪、蝋燭の炎のように浮かび上がる血の色を忘れた真白い氷玉の肌。
その瞳は、雲の切れ間から覗く、金に縁どられた燈と真紅が深く混じり合った、血色より尚深い夕焼けの色。
艶然と微笑むその形の良い唇には、口紅のようにこびり付いた血が月光に照らされぬらぬらと光っている。
彼から漂う血の匂いさえ、彼のぞっとするほどの美しさを助長させるものでしかない。
妖艶で、怜悧で、怖いほど美しい男だった。
喜悦に口唇を歪ませ、その男は長身を屈めて私を見た。
赤く濡れた唇の合間から、ぬらりと光る針の様な牙を覗かせて。
「……あなた、吸血鬼みたい」
『どうかな。確かに、そう呼ばれているな。ではお嬢さん、貴方の目の前にいる吸血鬼のような男が、恐ろしいか?』
血の臭いがした。
あの、彼の言う畜生は、今彼の口に付いた血となったのだろう。
男は私の顎に手を添え、唇が触れそうな位置にまで顔を寄せた。瞳に引き込まれそうだった。
「うん、怖い。…怖いくらい、綺麗」
その言葉が予想外だったのか、男の目が少し見開かれ、次の瞬間また妖艶に笑む。
『変わったお嬢さんだ。面白い。ますます気に入った』
「…私を食べるの?私を殺すの?」
『そんなことは豚のすることだ。……嗚呼、肢体も声もその瞳も、心の臓深く燃えるその魂さえ、狂おしい程に美しい。その喉笛も今すぐにでも喰らいつきたいほどに甘い匂いがする』
彼の唇が滑り落ち、首筋にあてられる。
冷たい吐息が掛かり、背中が跳ねた。すぐに腰に彼の腕が回る。
睦言を囁くような甘ったるい声で、首筋を震わせる。
『―――――-欲しい、お前が欲しい』
「……!」
あまりに凄艶な声に、鞄を取り落した。
それにさえ気づかないまま、私はただ、目の前の男に意識を奪われていた。
『美しいお嬢さん、名はなんと?』
「………マルガレータ、……貴方、は」
『…ダルヴ。――――ごきげんよう。お嬢さん』
冷たい手を瞼に翳される。
身体が冷たくなって、意識が遠のいていく。月の光がぼやけている。
蕩けそうな声で囁かれる。
朧げな月の光が眩しい。私を覆う闇が心地いい。
指先が麻痺して、冷えて、それも分からなくなっていく。
最後に微かな吐息だけを残して、私は意識を失った。