三十八話 竜騎士の繰り手
不死者たる騎士は、しかし死を恐れた。
愛剣を片時も手放さず、近寄る者は実の子であろうと斬り捨てた。
騎士は、彼を危険視した伯父の手にかかって死を迎えたと言う。
騎士と伯父の名は、歴史書にこう記されている。
老衰死した初代当主アルトリウスの後を継ぎし者、アルトリウスの子アンブロシウス、と。
――アルトリウス記
「別れの時間だ、プレシアよ」
レオンティナは正面から向き合い、宣告する。
しかし唐突な決別の言葉に対して、プレシアは戸惑いや憤怒の様子を見せない。
失われた片目に眼帯で覆い、残された隻眼はむしろ輝きを増したと感じさせる。
彼女はただじっと、感情の読めない瞳をレオンティナに注いでいた。
自分が何を言われたのかを理解していないわけではない。
驚きのあまり反応できていないわけでもない。
彼女はレオンティナの言葉を冷静に受け止め、それでもなお動揺することなくレオンティナと対峙しているのだということが、長く従者として付き従ったレオンティナには嫌でも分かった。
しかしそれは、その態度は、主として全幅の信頼を置いていた相手が裏切りに等しい言葉を吐いた直後に取る態度としては、およそ異様なものだ。
ならばどのような思考を辿れば、そのような態度に行きつくのか。
長く彼女の側にあったレオンティナには、それが分かってしまう。
彼女は。
この事態を。
レオンティナの裏切りを、予期していたのだ。
そうとしか、考えられない。
その事実に、レオンティナはぞくりとする。
それでこそ、我が主たる者にふさわしい。
そう感じてしまう自分を、自覚してしまったからだ。
竜族たる自分が、人族を主と認めてしまう。
その気持ちが堕落であるとは思わない。
友と出会い、人となった自分は。
再び竜となり、ついに主を得たのだ。
そして、納得する。
彼女も。
プレシアもまた、竜、なのだと。
それは理屈ではない。
彼女に敵対するものとして対峙して初めて得られた、覚悟にも近いものだ。
思えば、常人ならば畏れの気持ちを抱くであろう大破壊を目の前にして、臆するどころか心の底からの笑いを浮かべる、その心性。それは群の中の個である人間のものというよりは、他と隔絶された絶孤の個たる竜のそれに近い。
そのこと一つを取ってみても、レオンティナは思うのだ。
できることならば。
もう少し、彼女と一緒にいたかった。
矛盾するようだが、レオンティナは確かにそう感じていた。
だが、それは不可能だ。
レオンティナとフェイト家の間で交わされた契約は、あくまで互恵関係を基本としたものであり、それゆえにレオンティナは主従の従たることを肯んじてきた。しかし竜の身体を得た今、その関係は崩れざるを得ない。プレシアが望むと望まざるとにかかわらず、フェイト家の下に竜があるという事実は、全てを変容させる。
未来視はできずとも、その先は分かり切っている。
それは終わりなき戦争、人に便利に用いられる兵器としての生だ。
そこに誇りはなく、個の力で抗う術はない。
誇り高き竜族たる自分がそれを肯んじ得るとは到底思えない。
ならばその先に待つものは破局以外ではあり得ない。
ゆえに、プレシアとはここで別れねばならないのだ。
「我が竜の身体を取り戻した今、そなたらフェイトの者との契約はその意味を失った。ここに契約は破棄される」
生物の寿命は、その肉体の質に左右される。
肉体は、魂に比べて劣化の速度が速いからだ。
自らの魂を剣に封じることも、若かりし頃に肉体に左右されずに生き続けるために試行錯誤した中で思いついたことの一つに過ぎない。
とは言え、自らの魂を託すに足る人間を探すのは容易ではなかった。
人は数十年で肉体の死を迎える。そして一度剣の姿となれば自ら動き回ることはできず、誰かに振るわれなければ新たなる身体を得ることもできない。そこまでして生に執着するくらいならば潔く死ぬつもりだった。
しかし、死の間際になって、友と呼べる人間ができてしまった。
これが百年前であれば、自らの魂を人に手に託すなど一笑に付していただろう。
これが百年後であれば、すでに自らの魂を剣に封じるだけの力も失っていただろう。
その出会いは、今思い返しても完璧であり、それゆえに最悪でもあった。
そうしてレオンティナは竜の身体を失い、剣としての生を得た。
レオンティナは剣としてフェイト家の者に力を貸し、フェイト家はレオンティナのためにふさわしき身体を提供する。もろき人の身体では不意に失われる危険から逃れられない以上レオンティナはフェイト家の側にあり続けるしかなく、振興のフェイト家もロムルスで成り上がるためにレオンティナの力と知識を必要としていた。それはまさに、互恵関係と言えた。
だがレオンティナは今、再び竜の身体を得た。
今度は、まだ若い竜の身体だ。
肉体が限界を迎えるまで、優に千年は生き延びられる。
契約はその前提を失った。
ゆえに破棄される。
これは当然のことなのだ。
「じきに異変を察知したロムルスの竜騎士部隊も押し寄せよう。……カルティアについたエシリアの王族を一掃し、シルニアを落城へ導いた功績により、フェイト家の再興も許されよう。そなたの望みは、すでに叶っておるのだ、プレシアよ」
プレシアは、瞬きひとつせずにレオンティナを見つめ続ける。
この場にいるのは、レオンティナとプレシアを除けば、張り詰める空気に言葉もなく成り行きを見つめるヒルダしかいない。いつの間にか降り始めていた雨が、火の手の勢いを殺し、毒霧の拡散も抑えていれば、辺りは不気味なほどの沈黙に覆われていた。
レオンティナは、言葉を継ぐ。
「……プレシア。そなたは我が最上の使い手であった。今ここに我が魂にふさわしき器を取り戻した一事を取ってみても、そなたが父祖の誰よりも賢く勇敢であったことは明白」
「私と別れて、貴方はどうするの?」
傲然と。レオンティナの言葉を断ち切るように、プレシアは問うた。
「東の果てへ。ロムルスやカルティアが千年かかっても到達できぬ世界の果てへ我は往く。……人との関わりには少々飽いたでな」
「そう。ならば往けばいい」
ひどく簡単に、プレシアはうなずく。
まるで、レオンティナがそうできはしないことを知っているかのように。
いや、事実、彼女は知っているのだろう。
レオンティナの魂の在処、宝剣チャームブランドがプレシアの手に握られている以上、レオンティナはそれを捨てていくことなどできはしないのだと。
だがそれは、幼子が駄々をこねているに等しいことを、彼女は分かっているのか。
「我はそなたを殺めたくはない」
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
ため息にも似たそれによって漏れ出た火と毒素は、しかしプレシアの肌を焼くには十分だった。
プレシアは、わずかに怯んだ様子を見せる。
魂の存在として対等であろうとも、肉体の優劣は明白。
この差がある限り、レオンティナの優位は揺るがない。
「だがそなたが我が前に立ち塞がると言うのならば、容赦はせぬ。……剣を、渡すのだ」
それでもなお、プレシアはそのかんばせに笑みを浮かべてみせる。
それはまるで幼子のいたずらを見守る母のような印象をレオンティナに与えた。
湧き上がる苛立ちに任せ、前腕を振るった。
プレシアの足元にあった石畳がはじけ飛び、その後には深々と爪痕が残される。
レオンティナがもうほんの少しだけ腕を伸ばしていれば、プレシアは死んでいた。
それを見て、プレシアはますます笑みを深くする。
「脅しに屈する私かどうか、一番よく知っているのはレオンティナ、貴方でしょう? さあ、殺しなさい。誇りを捨てて生きるくらいならば、私は死を選びます」
そう言って、剣を胸に抱く。
こみ上げてきたのは、怒りだった。
確かに、宝剣ごとプレシアに攻撃を加えれば、剣は破壊され、レオンティナの魂も一緒に損なわれるだろう。竜の息吹や爪の一撃は、それを成すに十分なだけの威力を持っている。
だが、そんな自爆覚悟の戦法は、およそプレシアに似つかわしいものではない。
だからこそ、レオンティナは憤怒に襲われる。
こんな、こんな愚かなやり取りで最期の別れを迎えたかったのではない。
プレシアならば、真に主と認めたただ一人の人間であればこそ、レオンティナに執着することなく正しい判断を下してくれるだろうと信頼したからこそ、こうして真正面から別れを切り出したと言うのに。
プレシアならば、理解していないはずがない。
レオンティナが直接手を下さずとも、いくらでも方法などあることを。
「竜騎士よ」
竜の視線に射すくめられたヒルダが身を固くするのが見て取れた。
「選べ。プレシアと共に死ぬか、プレシアと戦うか」
「わ、私は……」
ヒルダは迷いを見せる。事態の変転についていけないのはもちろん、すでにヒルダが望んだ赤竜の討伐は完遂されてしまっている。彼女には、命を懸けてレオンティナと戦うだけの積極的な理由がない。
「戦いなさい、ヒルダ!」
逡巡する彼女の身体を、プレシアの叱咤が打つ。
「貴女が私と来ないのならば、私は宝剣を破壊し、レオンティナを殺すと共に赤竜を解放します。戦うのは、私かレオンティナかではない。レオンティナか、赤竜か、です。……もう一度言います。私と共に戦いなさい、ヒルダ」
「プレシア、様……」
迷いに揺れていた剣尖が持ち上がる。
その剣が指すのは、レオンティナだった。
「愚かな……」
だが、凡百の剣と竜騎士ならばともかく〈フラーマ〉とヒルダの剣の腕が合わされば、レオンティナに届きうるのも確か。決して侮っていい相手ではない。レオンティナは、ヒルダに向き直り、大きく息を吸い込んだ。
その瞬間。
レオンティナは、視界の端に紅の輝きを見た。
爆発的な朱色の殺気が押し寄せ、ブレスを吐き出す動きを一瞬だけ遅らせる。
その機を逃さず、ヒルダが跳んだ。
白金の輝きに〈フラーマ〉が取り巻かれ、この上なく美しい紅玉色の刃がレオンティナに迫る。翼の付け根を狙った一片の無駄もない跳躍に対し、レオンティナは前腕を振るうことで対処せざるを得ない。
ヒルダの身体ごと弾き飛ばすに足る一撃。しかし彼女はそれを見て取るや、くるりと身体を捻ってタイミングを合わせ、勢いを殺すように全力で蹴る。剣を取り巻く白金の輝きはすでに霧散し、今はヒルダ自身の身体を守るようにしてまとわれていた。
しかし、竜の膂力で振るわれた一撃をそうそう殺し切れるものではない。
空高く弾き上げられたヒルダは、半ば城壁に叩き付けられるような形で動きを止めた。
ぴくりとも動かない様子を見ればすでに生きてはいまいが、万が一ということもある。ブレスで確実に仕留めるべく、レオンティナは頭をもたげる。
しかし、レオンティナは失念していた。
その場に存在するもう一人の敵対者。
プレシアの、存在を。
後から思い返せば、それは無理もないことだった。
プレシアに、竜や竜騎士に抗し得るだけの戦闘力はないことを、レオンティナは誰よりも近くで見続けてきたのだ。
戦闘が始まるまでの心理的な舌戦においてならばともかく、いざ戦闘にもつれこめば無視しても構わない。
どのみち宝剣の位置は後からいくらでも感知できるのだから、現時点で脅威と成り得るのはヒルダ一人。
そう考えたレオンティナは、ヒルダへの対処に全神経を振り向けた。
事実、そうしなければ片翼ぐらいはもがれていてもおかしくなかった。
自身の胸を。
心の臓に突き刺さる、燃え盛る業火のごとき光輝を発する漆黒の刃を見下ろしながら。
レオンティナはどこか爽快な気分と共に、自身の思考を振り返ったのだった。
プレシアが握る宝剣チャームブランドの刀身を取り巻く紅玉色の赤光は、紛れもなく竜騎士の力によるそれ。
なぜ、と考えるまでもなく理解に至る。
彼女こそが、世界でただ一人の赤竜の血を受け継ぐ者。
そして真なる竜であるレオンティナを従える、竜の操り手としての竜騎士。
真なる竜騎士なのだと。
どくどくと脈打つ手元の剣から、プレシアがふっと目を上げる。
そこには、彼女を見つめるレオンティナの瞳があった。
今、この瞬間ならば。
レオンティナが最後の力を振り絞ってブレスを吐けば。
プレシアは、一瞬にして死んでいただろう。
だが、レオンティナはそうしなかったし。
プレシアも、目が合ったことでそれを理解した。
「……貴方は私のもの。誰にも渡さない、貴方自身にさえも」
プレシアが剣の柄をぐっと捻ると、一気に血が噴き出した。
すでに赤黒く血で染まっていた彼女の衣服が、再び赤く染められていく。
「――――」
喉を逆流する血のせいで、言葉は形にならなかった。
そもそも、自分は何を言おうとしたのか。
全ては夢か幻だったかのように、全てが薄れ、消え去っていく中、レオンティナは。
自らを抱く、世界にただ一人の主の暖かさだけを感じていた。




