三十六話 ブリティアの鋼竜
若くして死病を得た騎士アルトリウスは悪名高き竜の討伐に向かった。
帰還した彼の手には一振りの剣が握られていた。
騎士は叫ぶ。「これぞ鋼竜を仕留めし証ぞ」と。
不死者の異名を得た騎士は、齢百を数えてなお若々しい姿を保ち続けたのだと言う。
――アルトリウス記
カルティアの竜司祭にして竜騎士でもあったアンヘリカは、結局のところ走狗であることから脱し得なかった。彼女の屍兵術は、本質的にはレオンティナが用いる傀儡化の力と同じもの。おそらく、赤竜を屍兵化することを目論んでいたのだ。その目的のどこまでが祖国から下された命令で、どこからが彼女自身の願いであったのか、今となっては知る術もない。
エシリアの王子クラウネルは、世界を二分するカルティアとロムルスの思惑に翻弄され、最期には自らの血族にまで裏切られて死んだ。その魂はチャームブランドの柄に嵌められた宝玉へ囚われ、身体は新たな傀儡を見つけるまでレオンティナによって使われることになる。きっと、彼の魂が解放されるのはそう先のことではない。
レオンティナが竜騎士の身体を得るのはこれが初めてではない。
剣にその身をやつしておよそ三百年。
途中で一回と、最初の一回がそうだった。
途中の一回はそう昔のことではない。戦場で死にかけていたロムルス竜騎士の身体を手に入れたのは一年ほど前のことだ。しかしその身体は、エシリア入島の際に捨てた。赤竜に襲撃をかいくぐって竜騎士の身体を持ち込む方法もないではなかったが、プレシアはそれを選ばなかったのだ。
彼女は、レオンティナが三百年の間に培った経験にこそ信頼を置いた。
その事実は、少なからずレオンティナの心を奮い立たせた。
それは、絶対的な強者として生を得て、そしてその在りようを失った自身が、力を失って後に鍛錬を積み重ねて手に入れたものが評価されたことを意味するからだ。
彼女は、歴代の当主の中でもとりわけ聡明だとレオンティナは思う。
ロムルスの貴族、とりわけ竜騎士の血を引く家系では、竜騎士の力が発現しないことを恥と考える傾向が強い。フェイト家もまたその例にもれず、当主の中には自身の力を過信するあまりレオンティナを軽んじたり、自らの力が発現しないことで精神の均衡を崩す者もいた。
それらは、レオンティナの秘密を、チャームブランドの来歴を公にしてしまいかねない危険要素だった。レオンティナは、二代当主アンブロシウスが定めた掟に基づき、彼らを処断してきた。覚えているだけで、五人はいただろうか。
しかし、プレシアは竜騎士の力を発現させなかったにもかかわらず、それをコンプレックスとすることなく、あるいはそれをバネとしたからこそ、竜騎士の力はなくとも他のものでそれを補う努力をした。それを成し遂げるだけの才能が、彼女にはあった。
フェイト家の掟には、二代当主とレオンティナが共に定め、今ではレオンティナしか知らないものがいくつかある。無能な当主の排除もその一つだ。処断の理由は様々だが、惰弱であったり暗愚であったりした場合はもちろん、有能であってもレオンティナへ過度に依存するような者も処断される。
レオンティナが、そのことをプレシアに伝えたことはない。しかし、教えずとも彼女は知っているのではないか、と思うことはある。彼女はレオンティナに信を置きながらも、あるところで一線を引いてそれ以上は踏み込ませない。それは、彼女が歴代の当主とは異なり、父と兄の戦死によって当主の座を継いだことも関係しているのかも知れない。彼女とレオンティナとの付き合いは、長いようで短い。
彼女との距離感は心地よい。
レオンティナは、折に触れてそう思う。
思えば、三百年前にもそれと同じものを感じたからこそ、レオンティナは剣であることを肯んじたのだとも言える。
三百年前。
白竜を謀殺することで竜騎士の力を手にしたロムルスは海を越え、ブリティアの地を我が物にせんとしていた。レオンティナとあの男が出会ったのはその折のことだ。
男の名はアルトリウス・レムリア。
ロムルスの竜騎士、フェイト家の初代当主となった男だ。
彼との出会いは苦い思い出としてレオンティナの中に残っている。
高い家格を持つ家に生まれながらも、その性を名乗ることを許されなかったアルトリウスは、全てに追い詰められた結果としてレオンティナとまみえた。傷つき疲れ果てた彼の佇まいに、しかし荒廃の気配はなかった。先に語り掛けたのはどちらだったか。気付けば、二者はブリティアの大地を見下ろす高い岩山の頂で夢中になって話し込んでいた。
「ブリティアの鋼竜、悪竜レオンティナがこんなに可愛い奴だとは思わなかった」
奴はそう言い放ち、それが妙に笑えて仕方なかったことを今でも鮮明に思い出せる。
そうして、レオンティナは願ったのだ。
この瞬間が永遠に続けばいい、と。
願いは叶った。
レオンティナにはそれを成すだけの知恵があり、そして力があった。
自らの魂をアルトリウスの剣に封じ、そしてアルトリウスはその剣で自らの心の臓を貫いた。その結果、アルトリウスの身体はレオンティナの竜の魂によって駆動され、アルトリウス自身の魂は彼の精神のみを司ることとなった。
竜は長命の種だ。その理由は魂の質の高さと劣化の少なさに由来する。竜の身体を捨て、ちっぽけな人の器を維持することに注力するならば、普通の意味での老化
だからこそ、もう過ちは犯さない。
どんな犠牲を払ってでも、竜の身体を手に入れる。
全てを終わりにするのだ。
「……レオンティナ?」
前を歩くプレシアが振り返って言う。
「いかがいたしましたか、我が主?」
「いいえ。……赤竜が住まう火口はもうすぐよ。新しい身体にはもう慣れた?」
「こんなこともあろうかと、彼の動きの癖は見ておりました。万全とは行きませんが、十分にやれましょう」
「…………。ここまで来たのです。詰めを誤らないようにしましょう」
プレシアの言葉に含まれた、わずかなためらい、そして疑念。
それはレオンティナだからこそ感じ取れたものだっただろう。
彼女は、レオンティナの本心に気付いているのだろうか?
だが仮に疑っているとしても、確信までは持てないはず。
「もちろんです、我が主殿。ヒルダ殿も、準備はよろしいですね?」
今はフェイト家の騎士となった私生児の竜騎士は、その背には彼女自身の長剣を、腰にはクラウネルの持っていたエシリア王家の宝剣〈フラーマ〉を提げていた。プレシアが、自分が持っていても宝の持ち腐れだからと言ってヒルダに与えたのだ。
「はい。私はレオンティナ殿の援護に徹します」
「私は邪魔にならないように下がっているわ。殺さずに動きを止めるのは難しいだろうけど……貴方たちならそれを可能にすると私は信じます」
「プレシア様、火口に動きが。赤竜です!」
竜の咆哮が響き渡ったのはそのときだった。
地が鳴動し、火口から黒煙が立ち上る。
火口から飛び出すようにして姿を現した赤竜が再び咆哮する。
叫びは、しかしどこか弱々しく、哀愁を帯びたものに聞こえた。
赤竜は幾度も羽ばたくが、高度も一向に上がろうとしない。
「龍脈……これほどまでに効果が出るものなのですね」つぶやき、そして凛とした声を張り上げる。「二人とも、行きなさい。翼を狙い、竜を引きずり下ろすのです」
自らは戦うことを好まず、しかし常に戦場に立って指揮を執る。自らは竜騎士でなくとも、竜騎士の繰り手たることを彼女は自らに課す。ロムルス貴族、フェイト家当主プレシアスの命令がたった今、下されたのだ。
応えが声に出されることはなく、彼女に使役される二振りの剣は真っ直ぐに突き出されることでそれに答えた。地を這い進むに非ず、地を走り抜けるにも非ず。地を蹴り、跳ぶように突き進むその速度は、天駆ける飛竜よりもなお疾き地竜の疾駆。
竜の顎門より出ずる灼熱の業火がそれを迎える。火球はレオンティナの進行方向に向けて放たれるが、地を蹴ってさらに加速することで回避。岩壁に向かって踏み切り、三角飛びの要領で高度を稼ぐ。
火球の反動を押さえるため、大きく広げられた翼膜を切り裂く。同時に〈フラーマ〉を抜き放ったヒルダが逆側の翼に斬りつけている。
がくりと高度を落とした赤竜は飛翔を諦め、地に降り立った。
それでもなお強靭な体躯と脚力を生かして抵抗を試みるが、その動きに精彩はない。
終わりだ。地に足を付けた空の王者に勝機はない。
ヒルダが注意を引き付け、がら空きとなった懐へ飛び込んだ。