三十五話 道化の騎士
血と毒で埋められるものには限りがある。
人の身では越えられぬものがあると知れ。
――カントゥルス・レムス「ロムルス人の警句」より抜粋
岩肌にもたれるクラウネルは、傍目にも苦しげな様子だった。
彼の傷口とアンヘリカが持っていた剣を調べたレオンティナは、プレシアに向かって黙って首を振って見せた。
「おそらく、カルティアで用いられる毒かと。放置すれば、ほどなく死に至りましょう」
「解毒剤は?」
「崖の下に落ちたアンヘリカの死体を調べれば、あるいは……いえ、彼女がクラウネル様を屍兵化するつもりだったことを考えれば、持っているかどうかは怪しいかと」
「……彼は助からないのね?」
「はい」
「そんな……何とかならないのですか!」
屍兵たちに止めを刺したヒルダが戻ってきていた。彼らはアンヘリカが崖から落ちて絶命すると同時に動きを止めていたが、念のためだ。
「竜司祭は張り巡らされた奸智と黒竜の力を借りた秘術、そして数多の毒を用いることでカルティアに確固たる足場を築いてきました。彼らが相手を殺す気で毒を用いたのなら、私ごときでは手の施しようもありません」
その時、もうろうとしていたクラウネルが薄く眼を開いた。
「プレシア」すでに焦点は合っていない。「僕は、死ぬのだな?」
「……はい」
「そうか……まだ、道半ばだと言うのにな。……三人とも、聞いてくれ。君たちの働きに報いることができないのは心残りだが、僕の所持品は好きにしてくれていい。〈フラーマ〉を換金すれば、三人が一生食うに困らないだけの金額にはなると思う」
「そんな……ここまで来たと言うのに、何をおっしゃるのですか!」
「ヒルダ……ありがとう。だが、僕が死んだ後、君たちには赤竜を倒す理由がない。……陛下や貴族たちは、僕が王都を離れた隙に血の繋がらない妹を傀儡として立てたらしいからな。それでも僕が竜の血を持ち帰れれば話は違っていたのだろうが……きっと、今のシルニアに君たちの居場所はない。このまま、ロムルスの勢力圏内へ向かうとよい」
クラウネルは疲れたように大きく息を吐いて続ける。
「……結局、僕は何一つ成し得なかった。なあ、プレシア。きっと、君の眼に、僕は道化と映っていたのではないだろうか?」
正鵠を衝いた言葉に、プレシアは息を飲んだ。
「…………正直に、申し上げます。貴方様は、一国の指導者としては失格でした」
自分が何を言おうとしているのかも分からないまま、言葉は口から流れ出た。
「エシリア王国がロムルスかカルティアの属国となる日は、そう遠くありません。赤竜の討伐も、結局は延命策に過ぎません。赤竜の血から即席の竜騎士の百や二百が作れたところで、ロムルスやカルティアの間ですりつぶされるのが落ちです。赤竜による鉄壁の防御を失い、虎の子の竜騎士をも失った後、エシリアは滅びていたことでしょう」
彼はもう助からない。その事実が、プレシアに思ったことを素直に口に出させていた。
「……手厳しいな」クラウネルは自嘲するような笑みを見せる。「そうか、君はそんな風に思っていたのか。……いつのまにか、君が補佐してくれることが当たり前になっていてしまっていた。思えば、僕は、君が何のために僕の下にいるのかも知らなかったのか。……教えてくれ、君の目的とは何だ?」
「この手で、赤竜に止めを刺すため。ただそれだけですよ」
「恨み? いや、違うな。……そうか、そういうことか……」
続く言葉を待ったが、それきりクラウネルは一言も発さなかった。
「意識を失ったようです。もう、長くはないでしょう」
脈を取ったレオンティナが告げる。
「どうされますか、主殿?」
彼女は、クラウネルを傀儡化するかと問うているのだ。
ヒルダの方を見る。目を伏せた彼女が何を考えているのは分からなかった。
「ヒルダ」呼びかけると、彼女はゆっくりとプレシアの顔を見た。「貴女は、これからどうするつもりなのかしら」
「私は、もうロムルスに戻ることはできません。一体、どうすればいいのか……差し支えなければ、プレシア殿が竜を殺す理由を教えてもらえないでしょうか。場合によっては、私も協力いたします」
ヒルダの言葉を吟味する。彼女の協力が得られるなら心強い。
「……ヒルダ。今から言うことは他言無用です。といっても、ここには私と貴女、それにレオンティナしかいないけれど」くすりと笑うことで一瞬の間を作り、続ける。「私は元老院の意向を受け、竜の身体を手に入れるために動いています。協力してくれると言うのなら、便宜も図れます」
「便宜とは?」
「名誉の回復と、家名の付与」
プレシアの端的な答えのどこかに嘘は潜んでいないかと探る目つき。
嘘は言っていない。問題はない。すぐ脇には、レオンティナも控えている。
「……望むのは、ただ一つ」長い沈黙の後に、ヒルダが言う。「私のことはどうでもいい。竜騎士アレジア・ロムニカ、そして竜騎士プリス・ロムニカ。私と一緒にエシリアへ来た二人の竜騎士の名誉回復、そして家名の付与です。これを約束していただけますか?」
「一人は、シルニアで戦って死んだ竜騎士ね。もう一人の方は?」
「アレジアは、赤竜と戦って死んだ。……私にとって、赤竜の討伐は仇討ちでもあるの」
「なるほど」真っ直ぐに目を見て、うなずく。「いいでしょう、契約は成りました。私の名はプレシアス・ヘルツ・フォン・フェイト・グローリア。ブリティア征服の功労者アルトリウスの子孫に当たるフェイト家の現当主です。その名において、貴方を私の騎士に任じましょう」
ヒルダは目を伏せるとその場に片膝をつき、頭を垂れた。
レオンティナからチャームブランドを受け取り、その前に立つ。
「我らフェイトの名を持ちし者、仕えし者に三つの誓いを求め、その者にフェイトの名を与えん」ヒルダの肩に、剣を当てる。「仕えんと望みし者よ。そなたはフェイトの命に服し、常に主君の側にあり、その身を賭して血族を守り奉らんと誓うか?」
「二度までも臣従の誓いを破りし不肖の身なれど、我が剣そして我が誇りに一片の曇りなきことをここに誓わん。我が言葉に偽りなきことは、戦場において証を立てんと約す。……貴女の剣と成り、主君の障害となる全てのものを斬り捨ててみせましょう」
「よろしい」立ち上がるヒルダを、一度だけ抱き締める。「最初の命令です。……私がこれからやることを、黙って見ていること」
クラウネルの下に歩み寄り、レオンティナに鎧を外させる。何か言っているようだが、うわごとはよく聞き取れなかった。大きく息を吸う。草原を渡る風を思い描き、精神の流れを整える。大丈夫、知っている人間だろうと、やることは同じだ。
チャームブランドを両手で捧げ持つ。
「我が名はプレシアス・ヘルツ・フォン・フェイト・グローリア。偉大なる始祖アルトリウス公が末孫、宝剣チャームブランドの主なり。契約により、汝の魂をしばし宝玉へ留め、その肉体を使役せん」
誓詞を唱え、逆手に持ち替えた剣で胸の中心を狙って突き下ろす。
心の臓を刺し貫いた瞬間、クラウネルがかっと目を見開いた。
口を開こうとするが、それはもはや言葉にならなかった。
クラウネルの身体は傀儡となり、その魂は一時宝玉へと封じられる。
入れ替わりに、レオンティナが使っている身体の本来の持ち主、その魂が解放される。
レオンティナ、いや、確かアナトーリアと言ったか。身体は糸が切れたかのように崩れ落ち、急速に崩壊を始めた。ヒルダが驚きに目を瞠る中、アナトーリアの身体は跡形もなくなり、代わりにクラウネルが、クラウネルの身体を操るレオンティナが立ち上がる。
「質問はあるかしら、我が剣?」
それが自分にかけられた声だとヒルダが気付くまでに、わずかな間があった。はっとした様子でプレシアを見た彼女は、黙って首を横に振った。
「クラウネル様……とお呼びすればよろしいでしょうか?」
慎重に、それだけを口にする。
やはり、彼女は聡明だ。
「気付いているのでしょう? 彼はレオンティナです。人前ではクラウネルを装う場面もあるやも知れませんが、レオンティナと呼んで構いません」
「以後、お見知りおきを」
クラウネルの姿形を得たレオンティナは、軽く会釈して見せる。
「調子は?」
「毒は問題ありません。すぐにでも戦えます」
「よろしい。では行きましょう。ぐずぐずしていると、また横槍が入りかねません」
アンヘリカ、馬鹿な女。
彼女の行動は、結果的にレオンティナに竜騎士の身体を与えるに終わった。
竜騎士の身体を得たレオンティナは、赤竜を討伐するだろう。
カルティアは、むざむざロムルスに竜を従わせる手助けをしたのだ。
その皮肉を思うと、笑いを押さえられなかった。




